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●ゲームデザイン入門<第六版> ――1992.08.16 初版発行 ――1997.08.15 第六版第三刷発行 ――企画・編集 ざるの会 ※基本的に原文のままHTML化してあります。 1.意義と限界1)意義論ソフトウェア工学的な表現法を取れば、ビデオゲームの製作の基本的フローは以下の通りになる。本ビデオゲーム理論の存在の第一義は、この設計段階のチェックにある。仕様設計の評価・修正を行うことにより、対象となるビデオゲームの品質向上を図るのである。 また、序文でも述べた通り、設計・評価の方法論の確立も存在意義の一つである。そのために、ビデオゲームそのものの構造的な把握と、製作上の経験則の体系化を行う。これにより、以下の事が可能になるのである。
2)限界論2-1)理論内の「限界」理論内の「限界」とは、ビデオゲームそのものの「限界」の事である。これには2種類の「限界」が存在する。 一つは「限界点」の存在、つまり面白さの終着点が存在するという「限界」である。 もう一つは、完全に面白いビデオゲームを作り得たとしても、それが全ての人間にとって面白いとは限らないし、永遠に面白い訳ではないという「限界」である。 これらの「限界」は、題材の「限界」、刺激の量の「限界」、「ゲーム性」の「限界」、プレイヤーの能力の「限界」に由来している。 a)題材の「限界」 娯楽メディアの題材として、どれだけ多くの人間の快感を励起できるかという、マスレベルの問題として言えば、「SEX」「暴力」「麻薬」より優れた(強力な)題材は存在しない(ここで言う「暴力」とは「死」を象徴するイメージという意味で、「麻薬」とは意味解釈という認知過程を経ずに直接知覚的に快感を励起させる題材のことである)。 これが終着点である(多分に脳の構造による)。 「怪談」は「恐い物見たさ」という普遍性が存在するため決して廃れることはない。遊園地の一番の呼び物は、ジェットコースター系の「生命の危機」を知覚させる乗り物である。アダルト題材が新メディアの普及の起爆剤になるという話は、もはや常識に近い。 これらの刺激題材は、文化的個人差を吸収しえるほど、動物的本能に近いので、何よりも多くの受け手を獲得できる普遍性を持つのである。 という事は逆に言えば、個人レベルまで下がると万能の題材は存在しないという事になる。個人の嗜好は、国民性・文化基盤・時流等の環境によって、個人差が発生してしまうからである。よって、究極の指向性が存在しても、全ての人間が完全に満足するように題材イメージを具体化する手法は存在しないのである(「SEX」が嫌いな人間もいる)。 結局は、普遍性を失わないようにしつつ、同時に少数者を切り捨てつつ、対象市場向けに具体的に絞り込まれた新たな「SEX」「暴力」「麻薬」を如何に発見するかが勝負となるのである(【プリンセスメーカー】や【卒業】で確立された「女の子をいじる」という題材は、新たな「SEX」と言える)※1。 b)刺激の量の「限界」 人間は「慣れる」動物である故、刺激に対する快感は常に逓減する。 以前は少量の刺激で済んでいたとしても、受容回数につれて刺激量を増やしていかないと快感のレベルを維持できない。時代に伴って要求レベルが過大になる、刺激のインフレ現象が起こるのである。 そして、刺激も刺激頂を越えると、量的な意味を失い、質的な逓減が始まってしまい、その刺激は使えなくなるのである。 その一方で、究極の刺激が理論的に存在してしまう。脳の快感部位を直接刺激するのである。現在の技術水準や倫理的な問題から、今の所は夢物語であるが「絶対0度」として厳然と「限界」が存在するのである。 c)「ゲーム性」の「限界」 ビデオゲームの面白さを実現する部分(機能)を仮に「ゲーム性」と呼ぶならば、その「ゲーム性」は万能ではない。「ゲーム性」が完全に確立されても、万人にとって楽しい訳ではないのだ。 例えば、意思決定そのものにそれ程の快感を見い出さない人間もいるのである。ビデオゲームが女性達の間で今一つポピュラリティーを獲得できないのは、大多数の女性達にとって意思決定はストレスを伴うのに、そのストレスを乗り越えるだけの(物品等の実利的な)「正しい意思決定に対する褒奨」をビデオゲームが与えないからである。そもそもビデオゲームは、「情報」の形でしかフィードバックを返せないという「褒奨の限界」を内包しているのである。 また、複数の種類の「ゲーム性」の間でも平等に面白い訳ではない。受け手の感受性の個人差によって、脳内麻薬の分泌量が異なってしまう。ジャンルによるポピュラリティーの差は、これによるところが大きい。 さらに言えば、狭義の「ビデオゲーム」に於いて、「ゲーム性(駆け引き)」は内部構造的にも「限界」を抱えている。それは、「駆け引きは絶対に膠着する」と言う「限界」である。 駆け引きが正当に成立していれば、必ず双方がMINI-MAX法的な選択(最善手の選択)を行って膠着状態に陥る。特にリアルタイム性の駆け引きであれば、「後出し有利」なので(「後出し有利」でないと、相手の意思決定がこちらの意思決定に影響を与えないことになるので、駆け引きが成立しない)、お互い「待ち」状態に落ち着いてしまう。 逆に、駆け引きに欠陥があれば、必勝手段が存在することになり、それを先に選択した方が勝利する「早い者勝ち」という「ゲーム」以前の物になってしまう。 「ゲーム性(駆け引き)」の「寿命」「奥の深さ」とは、「最善手」が見つかるまでの道のりの長さに過ぎないのである。 もちろん、ビデオゲームは、その「ゲーム性」が駆け引きを意味する純正の「ゲーム性」に近い、という事だけに価値があるのではないし、「ゲーム性」が純正の「ゲーム性」とはほど遠いビデオゲームも多々存在する。別の部分で楽しければ、それはそれでエンターテイメントとして問題は無いのだ。 d)プレイヤーの能力の「限界」 人間の能力は有限である。生物学・生理学的な限界が厳然と存在する。 よって、人間の知覚能力を越える、「美しい」イメージを伝達する事はできないし、「ゲーム性」を提示しても無駄である。何しろ知覚できないのだから。 また、人間の思考能力や肉体コントロール能力を越える要求をしても、それは無理な相談というものである。 つまり、人間の能力の限界が、大枠としてゲームの可能性を拘束してしまうのである※2。 2-2)理論自体の「限界」序文でも述べたように、この理論自体も万能普遍という訳ではなく、以下に挙げるような「限界」が存在する。a)因子分解の「限界」 本理論体系では、ビデオゲームを構成する各要素の本質について分解説明するレベルを、ある程度の低さで留保している。 徹底的に追求すれば「意味はいつ発生するのか?」という言語学・哲学領域や、「どんな知覚・認知が脳内麻薬物質を多く分泌させるのか?」というような脳生理学の領域に踏み込んでしまうからである。そしてさらに、人間の脳のメカニズムは完全に解明され尽くされている訳でもなく、また認知科学の最先端をフォローできるほど編者達の自然科学の水準は高くないからである。 よって、本理論体系は編者達が使用可能のできるだけ低いレベルの言語を使用し、無証明ではあるが大多数の人間の了解が期待できるであろう因果関係を組み合わせて叙述してある。 b)適用範囲の「限界」 本理論体系が業務用的なスタンスで記述してあることは、既に序文で述べた通りである。 その他にも、本理論体系は一般に言われている「ビデオゲーム」全てに完全に適合する訳ではない。例えば「クイズゲーム」は「ビデオクイズ」であって「ビデオゲーム」ではないので、適用範囲外である。「パズルゲーム」と呼ばれる範疇の中にも同様な例が存在する。これらは「ビデオ娯楽」中の一種と位置づけられる、「ビデオゲーム」と並列の存在である。「フライトシミュレーター」も「ビデオ娯楽」の一種ではあるが、「ビデオゲーム」ではない。 本理論体系が標準的に想定する「ビデオゲーム」は「駆け引き」の相手側にコンピュータを用意することでプレイヤーを楽しませる映像出力を用いた「ゲーム」である(相手側を作ることが「エンターテイメント」に他ならない)。 よって【テトリス】、【コラムス】のような「ソリティア(一人遊び)」に対しても、本理論体系は、適合する部分も大きいが、ずれてしまう部分がどうしても存在してしまう。 c)価値体系の「限界」 「良い」「優れている」等の「価値」そのものは相対的な存在である。価値判断はその評価者の感性体系に左右されしまう。すなわち、「良い」とか「優れている」という表現には、常に「誰にとって」という問題がつきまとう。 本理論体系においての価値判断体系は、「最大多数の最大幸福」を「良い」とみなすことを基本にしている。また、「最大多数の最大幸福」に次ぐ次善の価値基準として、「商業的な成功」が「良い」としている部分もある。 よって、本理論体系において「良い」とか「優れている」という評価をなされている事象が全ての人間一人一人に対して「良い」とか「優れている」、という保証は全く無い。その確率が高いだけである。 d)検証の「限界」 編者達は、実際の商業的開発に従事している。すなわち、完全に統制された比較対照実験を行う事が許される環境にはいない。現在のゲームメーカーには、短期の利益をもたらさない基礎科学実験に投資する程の余裕はない。また、開発中に行なわれた改良実験の経過や結果も、企業秘密につき具体的に報告する事ができない。 よって、本理論体系は、開発中の改良実験の結果や、実際の市場反応現象を、うまく説明・予測できる理論モデルを提出するに留まらざるを得ない。残念ながら、厳密に科学的に検証された理論とは言えない。 e)運用の「限界」 前述の通り、この理論体系の存在の第一義は、設計段階の評価基準である。「構造的欠陥」を早期発見・修正するものであり、何かを「創造」する訳ではない。 よって、この理論体系を運用しても優れた「構造」はもたらされるが、優れた「素材」は生み出せない。「技術力」は向上しても「センス」は磨かれない。「完成度」は上がるが「新規性」は実現しない。 ゆえに、これらの要素を複合的に含み、なおかつ時流等の流動的な外部環境の影響を著しく受ける「市場性(商業性)」についても保証はできない。 f)製作上の「限界」 端的に言えば、技術力(ノウハウ)とコストの問題である。仕様を実現するには、技術力(ノウハウ)が必要である。また、実現できても、コストが損益分岐点を越えては、作る意味が無くなってしまう。逆に、コストを抑えるのも、技術力(ノウハウ)が必要である。 もし完璧なビデオゲーム仕様が完成したとしても、それを実際に製作できるかは保証の限りではないのである。 |