小杉谷 ヤクシマノジギク 竜宮城
蟷螂(とうろう)の斧 これからの屋久島  


小杉谷

俗に屋久島憲法と呼ばれた「屋久島国有林経営の大綱」は大正10年に発表された。
島民は狂喜した。前岳部分約7千町歩が島民に開放されたのだ。これで薪炭林に困ること
はなくなったのである。

 同時に屋久杉の宝庫といわれていた小杉谷の開発も決定した。喜びに沸く島民はこのこ
とにあまり関心を持たなかった。それから約50年で小杉谷の地は、全山ハゲ山と化した。

 先日、機会があって屋久島に来ていた学生達に随行してこの地の遺物調査に出かけた。
学校跡地を中心に集落の痕が散在している。学生達は当時の陶器のかけらや子供の靴など
を次々に発見し記録していたが、私には周囲のあちこちに見られる屋久杉の切り株のほう
が興味深かった。

  なぜかというと、例えば屋久杉ランドに残る切り株の高さは3〜4mはある。ところが
小杉谷の切り株の高さは1〜2mしかないのである。このことはランドの杉は人力によって
伐採され、小杉谷はチェーンソーによって伐採されたことを物語っている。

 言うまでもないことだが樹齢一千年以上の杉を屋久杉と呼称している。それをたかだか
50年で切り尽くしてしまう人間の愚かさを感じたのである。この島に住む私たちはこの事
実を語り伝え、二度と再び同じ過ちを繰り返してはならないと私は思っている。

クシマノジギク

 通称ヤクシマノジギク(ヤクシマノギクが正式名称)は、屋久島の固有種である。12月か
ら1月にかけて白い可憐な花(花弁は黄色)を咲かせる。

 先日、そのヤクシマノジギクを探しに屋久島灯台に出かけた。ところが、昔繁茂してい
たところは、盗掘でもされたのか数が激減していた。また、灯台が無人になっているのに
も驚いた。灯台の石碑を眺めていたら、突然、ある人物の名前が頭の中に浮かんできた。

 秋山真之(さねゆき)中佐と正岡子規である。正岡子規は誰でも知っていると思うが、
秋山真之中佐の名はほとんど知られていない。二人は今で言う愛媛県は道後温泉の出身で
同級である。子規は裕福な家庭に生まれ、真之は貧の中で育ったといわれている。

 ご承知のとおり、子規は俳壇の中で身を立てるが真之は海軍に身をゆだねる。真之自身
は子規同様文学に傾斜していたのだが、何せ家庭の事情というものがある。しかたなく、
海軍士官学校に入学するのである。

 「敵艦隊見ゆとの警報に接し、連合艦隊は直ちに出動。これを撃滅せんとす。本日天気
晴朗なれど波高し。」これは、日本海海戦の直前に東郷平八郎率いる連合艦隊が大本営あ
てに打電した有名な電文である。

 この文案を作成したのが、当時東郷の作戦参謀だった秋山真之中佐だといわれている。
文末の天気晴朗なれど波高しの部分が文学的な表現で真之の面目躍如というところだろう
が、海軍部内ではけしからんといった声もあったらしい。

 もっとも真之自身によると、この表現には波が高く天気がよいという条件で、わが軍が
有利ということがわかるようになっているという。つまり、敵軍の大砲の精度は波が高い
ことにより落ちるが、わが軍は訓練を充分積んできているので大丈夫という意味合いにな
るのだそうだ。

 なぜこんなことを思い出したかというとそれはこの屋久島灯台が建設された経緯と関係
がある。一説によるとこの灯台は対露戦に備えて建設されたものらしい。日清戦争に勝利
した日本は、次はロシアとの争いになることを予想しバルティック艦隊と名を変えたロシ
ア北方艦隊がウラジオストックに入港する前に壊滅させる作戦をたてる。そのための情報
収集と海軍の艦船の安全のために灯台建設を急いだといわれている。

 こんな背景で、この灯台が建設されたことを多くの人は知らない。また、こういう理由
(わけ)だからこそ明治29年という日本でもっとも古い部類に入る灯台建設となったのであ
る。

 話を本題に戻すが、ヤクシマノジギクは今、宮之浦川の上流にある屋久島総合自然公園
で保護・育苗されている。

竜宮城

子供の頃、竜宮城は屋久島にあったと聞いたことがある。
教えてくれたのは、あの縄文杉を世に知らしめた今は亡き岩川貞次さん。
岩川さんによると益救(やく)神社の祭神は山幸彦と海幸彦
この海幸彦が浦島太郎ということだった。
それ以来、私はずっと屋久島は竜宮城と信じて過ごしてきた。

ところがこのン十年で竜宮城は大きく変化した。
白砂青松と呼ばれた永田浜は往時の面影をまったくとどめていないし
一品が浦(いっぽんがうら)の地名が死語となってしまった宮之浦の港。
永田から宮之浦に通勤するなど考えられなかったあの時代。
失われたあの時代が懐かしいのはなぜだろう。

昭和43年、生まれてはじめて宮之浦岳・永田岳に登った。
清冽で神聖な霊気を体の隅々まで浴びたのを覚えている。
その感覚は今登ってももう得られない。なぜだろう。
推測するに海幸彦こと浦島太郎がすでに玉手箱を開けたということか。
だとすればその煙が島中に充満している。

蟷螂(とうろう)の斧 

蟷螂とはカマキリの別名である。
したがって、蟷螂の斧とは自分の非力をも省みず強い相手に斧を振りかざす
との意になる。

空しく、勇気を伴う行為である。

人が人としての気概を持つのであれば、当然蟷螂の斧を手中に置かねばならない。
ところが、蟷螂の斧の死語化とともに人も気概を無くしつつある。
いや、気概という言葉もすでに死語と化したのかもしれない。

人生は戦いの連続である。
まず、自分との戦いに打ち勝たなければならない。
それから、終わることのない戦いが始まる。

戦いには強い相手もいれば弱い相手もいる。
しかし、我々が戦っている相手は本当に強い相手だろうか。
いつも、弱い相手を探してはいないだろうか。自分の心の奥をのぞいてみよう。

他に責任を転嫁しているようであれば、間違いなく弱いもの相手だ。
だとすれば、蟷螂の斧探しは自分との戦いから始まるということになる。
自分との戦いに勝つ、すなわち蟷螂の斧を手中にすることだ。

カマキリは生きるため、どんな相手にもその小さな斧を振りかざす。
ひるがえって、人は生きるため小さなウソを積み重ねる。
生き方としては、どっちが立派だろうか。

これからの屋久島

 「普通の観光地」になってしまった屋久島、という表現は過激すぎるでしょうか。
 遺産に登録されてからのこの数年間の島の変化を見ていると、そんな気がしてきます。
この十年間で屋久島の人々は何を得て、何を無くしたのでしょうか。
 見た目の変化は来島者の増加、それに伴う船便・航空便の増便、民宿・ホテル・レンタ
カー等の観光業者の増、ガイド業も増えました。Iターン者も増えましたし、そのことに
よりこれまで人家のなかったところに都会的な洒落た建物も見られるようになりました。
団体旅行も登録前よりははるかに増えています。

 本質論としては、登録前と登録後というとらえ方には私は疑義を感じていますが、これ
は私たち島民の考え方の変遷についてであって、表面の現象の変化に関しては前と後とい
う形がわかりやすいと考えています。そういう変化は従来から多くの人が指摘していると
ころですが、屋久島の自然環境の荒廃につながり、結果として永続性のある観光地になら
ないといった論調だったように思います。
 私は、それとは別の角度、島の人々の「慢心」もしくは「堕落」といった視点からもとら
えてみる必要があると考えています。

 私は屋久島が世界遺産に登録されたのは、屋久島に住む「人」が評価されたからこそ登録
されたのだという捉え方をしています。ということは、遺産登録時以前の島民の生き様が
評価された訳で、登録後の今住んでいる人々の生き様で遺産に登録されたかどうか疑問が
残ります。島民の「慢心」「堕落」の視点はこの考えから生まれました。

 以下、その理由について詳しく述べます。
 私は世界遺産に登録される契機になったのは、昭和40年代の花山地区の原生林保護運
動(現:原生自然環境保全地域)と50年代の瀬切地区の照葉樹林帯の保護運動だろうと考え
ています。なぜかならばこの保護運動の結果、残った森が後世評価されて遺産に登録され
たからです。
 ではなぜ、今から20数年も前に今日的な環境問題を先取りしたような運動をそれも国家
を相手にしてこの島の人たちは成しえたのでしょうか。
 
私は屋久島ならではの特異性のある歴史を辿ることにより、この保護運動に参画した当
時の島民の心情を理解することができるのではないかと考えています。

 藩政時代、屋久島は薩摩藩の治世下にありました。藩は島全域を島津氏の直轄領として
支配していました。そして宮之浦に奉行所を置き、島の産物を一手に管理する体制を敷き
ます。中でも特に島津氏が着目したのは屋久杉でした。島津氏は屋久杉を藩の専売品とし
て取り扱い、島民に年貢として米ではなく屋久杉の平木を上納する制度をつくります。ま
た、米・味噌・醤油といった日用品についても平木と交換できるようになっていました。
(平木とは屋根葺き材のこと。江戸期、屋久杉の平木は京阪の神社・仏閣・豪商等の間で珍
重された。薩摩藩の貴重な財源にもなっていた。
大きさは縦48.5横9.5厚さ0.7pと縦36.4cmの2種類があった。両方合わせて百枚で一束
と数えた。一束で米一升と交換できた。)

 ところが明治に入り、地租改正が断行されると状況は一変します。租税の徴収方法が物
納から現金納付に改められたのです。島民は困惑します。上述したように貨幣経済と無縁
の生活が約200年もの間続いたため、現金収入を得る方途を知らなかったからです。

 そこで明治政府は、島民に山林を国の財産として帰属させるよう奨励しました。租税負
担を少しでも免れたい島民は先を争って国への帰属を申し出ます。その結果、島内の約8
割の山林が国有林に編入されたのです。

 しかし、租税負担は免れたものの逮捕者が続出するという現象が現れたのです。国は営
林署の前身である山林事務所を置き、国有林内に入る島民を徹底的に取り締まったのです。
このため、日常の薪炭すら事欠く島民も多かったといわれています。

 島民の苦難の歴史がここからスタートします。窮乏した島民は機会あるたびに陳情を繰
り返しますが聞き入れてもらえません。ついには明治37年、国を相手に国有林野下げ戻し
訴訟を起こします。この裁判は16年の長期に及びました。結審は大正9年、島民側敗訴と
いう結果でした。
しかしこの裁判を通じて国も島民の困窮に理解を示し、前岳部分約700
0町歩を島民の利益となるような取り扱いをすること、島の周回道路の整備をすることなど
を定めた「屋久島国有林経営の大綱」を翌大正10年に公表したのです。裁判に敗れはしたも
のの、島民の主張の一部は国も認めたのです。

 この経緯は、島の中で親から子、祖父から孫へと語り伝えられました。「屋久島を守る会」
のメンバーで瀬切川流域の原生林保護運動の中心的な存在であった柴鉄生さんもこのことを
「じいさんからいつも聞かされた」と言っています。

 私はこの明治大正期の裁判闘争があったればこそ、柴さんたちがあの時代に国を相手に保
護運動を成し得たのだと思っています。そして「屋久島魂」や「屋久島方式」という概念が醸成
されて、今日の「人と自然との共生」や「循環型社会の構築」といった流れになっていったので
す。世界遺産登録もこの流れの中から生まれました。

 鹿児島県が屋久島の取り組みに着目して生まれたであろう「屋久島環境文化村構想」の懇談
会委員であった大井道夫さん(当時:国立公園協会理事長)が、地元委員の方々の「屋久島魂」
に触れ、世界遺産登録を発案したのです。この提案は満場一致で了承され、地元両町と鹿児
島県が外務省に遺産条約の早期批准を求める活動へと展開していきました。

 遺産登録後の島民の「慢心」「堕落」を私が指摘するのは、このような屋久島の葛藤の歴史を
顧みることをせず、遺産登録を当たり前のこととしてとらえ、現世の利益のみを追求する島
人たちが増えつつあると感じているからです。

 例えばあるホテルは生活廃水をそのまま河川に流していますし、ある民宿は露天風呂のシ
ャンプーや石鹸を使った廃水をそのまま海に流しています。また、不法投棄や野焼きもいっ
こうに減る気配がありません。山岳部の荒廃も指摘されています。このような状況がこのま
ま続くと島全体の価値が下がることは確実です。これを来島者の問題としてとらえるのでは
なく、私たち島民自身の問題として解決していく必要があるのではないでしょうか。

 私たちが今後も世界遺産を登録商標とするのなら、屋久島の自然環境を守り抜く取り組み
を続けてくれたこの島の先人達に学ぶべきだと考えます。観光を業としている人たちをはじ
め、島民すべてが自然環境や生活環境に新たな負荷を与えるような現在の生活様式を見直す
必要があると思います。

 それではどういう観点から見直していけば良いのでしょうか。私はまず配慮しなければい
けないのは、やはり屋久島憲章にも謳われている「水環境の維持」ではないかと考えています。
上述したように生活廃水等を直接海や川に流すのではなく、浄化またはろ過し、元の水と同
じように綺麗にして流す努力が必要です。そのためには、自分の家庭や職場から出る排水が
どのように流れながら最終的に川や海にたどり着いているのか関心を持つことが重要です。
自分の周りさえ綺麗で快適であれば良いといった自己中心的な発想は捨てなければなりませ
ん。

 次に重要なのが廃棄物、ゴミの処理です。私たちはまず将来のゴミに囲まれて生活してい
ることを自覚する必要があります。どういうことかと申しますと、今見ているテレビは10
年後にはゴミになるということです。今快適なソファも20年後にはゴミになっているかも
しれません。こういったことを自覚することによりモノを大切にする心が生まれると思いま
す。そして、できるだけ永く使うことによってゴミの量を減らすことが可能になります。

 それではこれらの課題をどのように解決していけば良いのでしょうか。私は屋久島の人た
ちはその気になりさえすれば何でもできると思っています。なぜかならば漠然とではあるか
もしれませんが、それぞれの人たちが皆、反骨精神みたいなものを内蔵している気がしてい
るからです。上述した保護運動に関わった人たちはすべてこの反骨精神の塊みたいな気がし
ています。そしてこの気骨は多くの屋久島の人たちに共有されていると思います。身に沁み
ついた体質のようなものでしょうか、屋久島の歩んできた歴史を体内に内蔵しているような
気がしています。そんな感じ方をしているのは、おそらく私ひとりだけではないでしょう。

 この反骨精神を屋久島の人はもう一度思い出す必要があるのではないでしょうか。永年、
培ってきた筋金入りの反骨精神です。その気になりさえすればゴミの問題や水環境の維持な
どはたちどころに解決してくれそうな気がしています。要は「国・県何するものぞ」というあ
の気概を一人ひとりが思い出すことです。そうすることにより今、何をなすべきかという自
覚が生まれます。その自覚が行動に結びついたとき「慢心」「堕落」から脱却し屋久島の独自性
を取り戻すことができるのではないかと考えます。

 そしてお仕着せではなく、屋久島の価値に見合った地域づくりに邁進できた時、誇りを持
って「世界遺産屋久島」を喧伝できるのではないでしょうか。