錦糸町の歴史

「錦糸町の祖」は河竹黙阿弥か柳亭種彦か...

錦糸町の名前の由来は現在のJR錦糸町駅の北口の北斎通りの所にあった「錦糸堀」
から来ており、この堀は両国から東西に続く「南割下水」という掘割の大横川から東側
の部分であったといい、江戸末期には「小梅代地町、南割下水錦糸堀」と呼ばれていた。
江戸末期から明治にかけて活躍した、河竹黙阿弥の作になる歌舞伎の 「孝女お竹」
(初演1865年)の下にあげた一節は「錦糸堀」を舞台にしたもので、江戸時代の文献
に登場する「錦糸堀」の唯一のもの。つまり、河竹黙阿弥こそ「錦糸町の祖」ということ
になる。左の浮世絵の一部は歌舞伎舞台の横に控える河竹黙阿弥(河竹新七)の肖像
で早稲田大学演劇博物館の掲載許可済です。転載、利用には同館の許可が必要です。
「孝女お竹」のあらすじと他を紹介したページは次のをクリックすると見られます。
−−> 黙阿弥

「あれぇ、たれぞ来てくだされいの」〜〜呼べど叫べど町中を、離れし在の錦糸堀、更け行く庭に
こおろぎの、啼く音も細き秋の末、野寺の鐘や小夜砧、いとど哀を添えにける。
(黙阿弥全集より)

河竹黙阿弥は錦糸町のすぐ近くの亀沢二丁目に晩年住みましたが、生まれはここでは
ありません。これに対して、江戸時代の草双紙作者の柳亭種彦(りゅうていたねひこ)
は錦糸町の近くの吉田町の生まれ。旗本直参のれっきとした武士に生まれましたが、
武芸に劣り、軟派な戯作、草双紙の作家となりました。江戸末期の現在の錦糸町〜
両国にかけてはこうした下級武士、浪人者が住み着いた借家や役宅が数多く並んで
いたとのこと。けっして高級役人は住んでいなかったのです。今の錦糸町も庶民の町
としてその伝統を脈々と受け継いでいます。柳亭種彦は源氏物語を江戸末期のパロディ
版とした小説でヒットを飛ばして名声を得ました。挿絵は錦糸町の近くの柳島に晩年住
んだ、あの「歌川国貞」です。


江戸時代に錦糸町界隈は本所の一部で、かの「鬼平」こと「火付盗賊改」長谷川平蔵が幼年時に育った場所で、その住居跡が
あります。また、幕末に活躍した勝海舟(燐太郎)親子が居候をしていた場所でもあり、その名残の場所もいくつか残っています。
このページではこの二人の史跡の地図を示して案内しています。下の浮世絵は広重の 江戸高名会亭尽の一枚で、江戸時代
の本所小梅村の付近の料亭を描いたもの。現在でいうと右の写真の横川一丁目の大横川親水公園から日本たばこの付近を眺
めたもの。下の地図の上の方に記入しています。(地図21)まさに錦糸町は江戸時代には河童が出そうな湿地帯だったことを示
す貴重な絵。(国会図書館蔵で掲載許可済) この本所小梅村の料亭は鬼平が剣術練習場としていた高杉道場から歩いて1分の
ところで幼年の鬼平達が近くを通っただろうが、行って遊ぶには高級すぎた。 −−> 本所小梅村の浮世絵の拡大
(下の浮世絵は転載、利用には国立国会図書館の許可が必要です。)

JR錦糸町駅の北側の現在の北斎通りは「南割り下水」という水路でしたが、その模様は浮世絵に残されています。夜鴉亭という
浮世絵のHPの明治4年の「東京名所四十八景」に、この割り下水の風景があります。−−> 明治4年の北斎通り
夜鴉亭というHPにはこの他、江戸時代の評判のそば屋、うなぎ屋などを紹介した浮世絵があります。−−> 夜鴉亭HP





錦糸町にはアルカタワーズという3本の高層オフィスビル、横十間川向こうに日鉄ドラムの高層のNDビルがあり、現在
さらにブリリアタワーが旧精工舎工場跡に建設中です。かつて東の端の歓楽街であり、ギャンブルの町だった錦糸町は、
地下鉄の駅ができ、数千人のビジネスマンが活動する町になりました。

錦糸町は実は「大阪」に似ています。リトル大阪なのです。錦糸町が「東京の中の大阪」と呼ばれる10の理由をまとめて
みました。クリックすると見られます。7月18,19日に錦糸町で「河内音頭まつり」があります。−−> 大阪に似ている10の理由

錦糸町は駅前の商店街のHPがあります。−−> 錦糸町情報

「さっしい」さんという方の都電の情報サイトには
昔の錦糸町交差点の写真があります。−−> ぽこぺん都電館 ぽこぺん本館

鬼平他の情報はそれぞれ立派なサイトがあります。それらをご参照下さい。ここは地図情報が
中心です。下の地図はすべて踏破して確認したものではありません。
鬼平江戸名所図会のサイト−−> 鬼平江戸名所図会
鬼平遊歩道のサイト−−> 鬼平遊歩道

「鬼平」「勝海舟」の故地を回ると腹がすくはずなので、錦糸町の昼メシ所を紹介するページ
を作りました。地図で位置を正確に表示しました。−−> 錦糸町の昼メシ

鬼平38歳の時に世は新進の戯作者の山東京伝の黄表紙「江戸生艶気樺焼」(えどうまれ
うわきのかばやき)の発刊に沸いていました。鬼平もきっと読んだということで、両国にある
その山東京伝の墓所を下の方に紹介しています。その黄表紙の紹介サイトは下のリンクで
読めます。右のは黄表紙ではないが鬼平が読んだかも知れないという種類の絵入りの読本。

錦糸町の歴史を調べる内に、江戸末期の浮世絵師の歌川国貞(豊国三世)が晩年に横十間
川の錦糸町側の柳島小学校近くに住んでいたことが分かりました。下の方に紹介しています。
江戸文化を担った多くの人たちが錦糸町のゾーンに住んでいたことになります。錦糸町駅から
歩いて10分の所です。地図にも入れています。錦糸町をバカにしちゃいけません。





@河竹黙阿弥晩年住居跡
江戸末期から明治にかけて歌舞伎作者として活躍した、河竹黙阿弥が死ぬまでの間暮らし
た住居はJR錦糸町駅から10分の亀沢2丁目にあり、写真のような記念碑があります。跡は
マンションになっています。茶室、書斎、土蔵がある200坪を越す立派な屋敷だったとか。
河竹黙阿弥は本所、両国、深川等の近辺を歌舞伎の舞台として登場させており、「孝女お竹」
という作品では「錦糸堀」の地名を登場させて、この地の名を江戸文学にとどめた唯一の人物
で錦糸町の祖といえる。この「孝女お竹」という作品は十両の借金のために親の仇討ちまでい
たった話で、サラ金が軒を連ねて繁盛する今の錦糸町にはふさわしいと言える。また、黙阿弥
も若い頃には放蕩の限りを尽くしたというから、これも今の錦糸町にはふさわしい。まさに
錦糸町の象徴とするに足る歴史的人物である。(地図@)




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A初代三遊亭円朝住居跡
江戸末期から明治にかけて活躍した落語家で作者の初代三遊亭円朝が明治9年から11年間
暮らし、名作の「怪談牡丹燈籠」「塩原多助一代記」等の噺を書き上げた住居跡は上の黙阿弥
の住居跡のすぐ向かい側にあり、下の写真のような記念碑があり跡は駐車場になっています。
当時すぐ近くにあったという割下水から水を引いて池にし、庵室のある500坪もの贅沢な邸宅
だったとか。円朝は芝居話が得意だったからか、歌舞伎にも関係したようで、黙阿弥の出ている
歌舞伎舞台の浮世絵に出ています。下の写真はその一部の円朝の肖像部分です。近所に住ん
でいた黙阿弥とはお友達だったのでしょう。(地図A)この浮世絵は早稲田大学演劇博物館の
掲載許可済です。転載、利用には同館の許可が必要です。円朝は「怪談牡丹燈籠」の中で次の
ように柳島、横川という錦糸町のゾーン内の地名をなにげなく登場させており、さすがは錦糸町
の住民(本所南二葉町)だったことが分かる。
「〜〜そしてどちらへ釣にいらっしゃるおつもりで。」「そうさ、柳島の横川で大層釣れ
るというからあすこへ往こうか。」「横川というのはあの中川へ出るところですかえ、そう
してあんなところで何が釣れますえ」「大きな鰹が釣れるとよ」「馬鹿なことおっしゃい、
川で鰹が釣れますものかね、たかだか鯔(いな)かタナゴくらいのものでございましょう」
(HP管理者注:現在でも旧柳島の横十間川でボラ(鯔)が写真のように泳いでいる。)−>




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B長谷川平蔵幼年時住居跡
池波正太郎の時代小説、TV番組で有名な火付盗賊改の長谷川平蔵の幼年時の住居跡は
国道14号線の錦糸町駅付近から両国よりの江東橋(大横川にかかる)のたもとにあります。
現在はそのすぐ傍に江東橋の交番があり、何かの因縁でしょう。長谷川平蔵はこの近くの
狭い家に住み、ツッパリをしていたようです。記念の碑はない。(地図B)



C長谷川平蔵引退時住居跡
長谷川平蔵は引退時に錦糸町の南の現在の地下鉄新宿線の菊川町の近くに、居を構えま
したが、現在地は菊川郵便局の前で、その記念碑が立っており、歯医者さんになっています。
(地図C)この地は後に「遠山の金さん」こと遠山金四郎の下屋敷にもなった由緒ある場所。
地下鉄菊川駅A3入口の前に墨田区の由緒書があります。




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D長谷川平蔵剣術練習道場跡(高杉銀平道場跡)
長谷川平蔵は若い頃、ツッパリをして近辺の鼻つまみものでしたが、剣術の練習は熱心で
その道場は現在の法恩寺橋のたもとにあったとか。記念の碑はない。(地図D)法恩寺は
太田道灌の菩提寺の立派なお寺です。幕府の都合で場所はアチコチ転々として最後はここ。
江戸名所図会という江戸時代の名所案内に法恩寺は大きな伽藍でえがかれています。明治の
時代に縮小されたのでしょう。







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E勝海舟の幼年時住居跡
幕末に活躍した勝海舟の父親勝小吉と燐太郎親子が旗本邸に居候して住んだという住居跡
と記念碑。「勝海舟揺籃の地」とある。この場所は鬼平の住居跡のすぐ近くで、同じ通りに
ある。ただし、この記念碑は場所は江戸時代の地図とややズレがある。記念碑の道路隔てた
向かい側が勝海舟の住居跡の可能性が高い(いちばん右の写真)。親子で大望を持ってはい
たが、貧しい暮らしであった。(地図E)




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F勝海舟の父親の足繁く参拝していた「妙見山」
勝海舟の父親の勝小吉が参拝していた、能勢妙見山別院で現存している立派な神社。現在
神社内に勝海舟の銅像があり、彼の父親の妙見山の信心ぶりとそのご利益を示した由緒書
がある。ここは現在もよく手入れされている。息子の栄達を願う父親なら参拝してもいい。
(地図F)







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G田螺稲荷(たにしいなり)(田中稲荷)
江戸時代の地図にも載っている由緒あるお稲荷さんで、元の名は田中稲荷。火事で付近
が燃えた時、このお稲荷さんの壁に田螺がびっしり付いていて延焼を逃れたということから
「防火」の神様としてあがめられている。高速の近くで付近は居酒屋・ラブホテル街。ビル
のスキマにひっそりとある。田螺が一杯だったというから、江戸時代はこの辺りは湿地帯
だったことを示す。鬼平も幼年時に参拝したかもしれない。(地図G)


H江戸城の貯木場跡(現猿江恩賜公園)
江戸城の増改築のための木材置き場だった所。「木場」は一般の木材を扱い、ここは別。
いまは公園となっており、春は桜の名所で花畑もある。(地図H)




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Iおいてけ堀の河童像
本所七不思議のひとつの「おいてけ堀」の河童の像がある。江戸時代は錦糸町あたりは湿地
で釣りをする人が多かったので、この逸話が生まれた。(地図I)おいてけ堀は上に記した
「錦糸堀」のことらしく、上の浮世絵の子供のように下級武士や町人が釣りをしたとか。こ
この公園の辺りは現在は韓国バー、フィリピンバー、ロシア・ルーマニアショーパブに囲まれ、
まさに「日本」はおいてけ掘。河童ちゃんが出てきても面くらうだろう。




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J芥川龍之介文学碑
両国育ちの芥川は府立三中(現両国高校)出身で校内に文学碑がある。両国高校は場所
は錦糸町にあり、大横川をはさんで鬼平の住居跡、勝海舟の寓居跡のすぐ向かい側にある。
芥川の年譜を詳しく記した立派なHPがあるので、詳細はそこを参照下さい。−−> 東京紅団の芥川の年譜
両国高校の校内には他に「マッチの誕生の地」の碑もあり、この辺りも文明開化を担ったこ
とが分かる。(地図J)


K伊藤左千夫自宅の家畜小屋跡
小説家の伊藤左千夫の自宅はまさに錦糸町駅前にあり、いま地下鉄の入り口になっている
付近には家畜小屋があった。駅前のバス乗り場の前には伊藤左千夫の句碑がある。(地図K)
「野菊の墓」の舞台は「矢切の渡し」のある江戸川付近で残念ながらここではない。錦糸町
駅前周辺は今も昔もロマンの舞台ではない。




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LLIVINの前の和時計
錦糸町が服部セイコーの「城下町」だった1961年に服部セイコーが和時計を寄贈して
この地に設置した。通行の邪魔にならないように台に乗せている。(地図L)この町が
かつては「汗水たらして働く職人さん」の活気ある町だったことをしるす記念碑。




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M亀戸の「銭座跡」
ここはかつて江戸時代に寛永通宝などの銅銭を鋳造した由緒ある場所。(地図M)江戸の
銭の鋳造所では他にはあの「銀座」があり、他に浅草に芝がある。世が世ならばここは銀座
に対抗した繁華街のはず。ここにルイヴイトンやシャネルの店が並んでいたはず...と思う
と歴史のあやを感じさせる。ここは錦糸町駅から10分のところで横十間川の側。川向こうに
NTTのビルがある。江東区地域振興課の「銭座跡の紹介HP」があります−−> 亀戸銭座跡
下写真が現在、公団アパートになっている銭座の敷地跡です。かなり広かった。鬼平の存命時
にはここで貨幣鋳造して時期と重なるから、鬼平もここを訪れたはず。このあたりをぶらつき
ながら「わはは、俺がガキのこりゃーこの辺りでさんざ悪いことを...」とつぶやいていたはず。




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N津軽稲荷
鬼平の住居跡から法恩寺の方へ行く途中のアルカウェスト・ビルの前、長崎橋の東にある
お稲荷さんは江戸時代には津軽越中守の下屋敷のあった所で、古地図にも載っている位置。
このお稲荷さんは江戸時代は屋敷神だったが、明治以降は近隣庶民の信仰を得た。(地図N)


◆◆◆ 番外 ◆◆◆

ここでは、錦糸町の近くでで鬼平ゆかりの地を紹介します。両国と清澄白河です。

O山東京伝の墓(両国・回向院)
江戸の戯作者で浮世絵画家で広告コピーライターだった山東京伝は1782年に黄表紙
の「江戸生艶気樺焼」いう大衆読み物をヒットさせましたが、当時の「平凡パンチ」のよう
な読み物。今読むと他愛ない内容ではあるが、当時は風紀を乱すと大変なものだった。
当然ながらもともとは「好き物」の当時38才の平蔵のこと、きっと読んだことだろう。読ん
で「こりゃあ面白れぇ、わはは、なんだこのバカは...」とひざをたたいて喜んだはず。
この山東京伝の墓が両国の回向院にあります。回向院の入って左手奥の鼠小僧次郎吉
の墓の裏です。錦糸町からはバスで10分、緑町一丁目で降りて少し歩き清澄通りを
渡って1分の所で、JR両国駅からは国技館と反対側の道をまっすぐ正面です。(地図O)
山東京伝の黄表紙についてのすばらしいホームページがあります。平蔵が読んだかもし
れない黄表紙の口語訳があり、その時代に浸れます。ぜひご参照下さい−−> 山東京伝HP






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P松坂町・吉良邸跡
両国は歴史の宝庫。回向院の裏手に赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良邸の跡の一角
が公園として保存されている。このHPの管理人は老人の寝込みを襲う行為は卑怯だっ
たと思っています。この吉良邸には右の写真のように使用人などの墓碑もあり、数多く
の人達が無残にも殺されたことが記録されている。これらの遺族は浪士達を恨んだこと
だろう。訪問するたびに吉良様とこれらの使用人達に合掌。




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Q勝海舟生誕地
錦糸町には勝海舟父子の寓居跡があるが、勝は両国の生まれで、両国公園の中に
生誕地の記念碑がある。




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R葛飾北斎生誕地
あちこちを放浪した浮世絵師の北斎はここ両国の生まれで、生誕地の前の通りは元は
南割下水という堀だった。ここは埋立てられて道路になり、割下水通りとよばれていた
ようだが、後に「北斎通り」と名付けられた。この通りは錦糸町まで通じており、上に記
した津軽稲荷の前、トリフォニーホール、アルカイーストの高層ビル群、JR錦糸町駅北
口、錦糸公園の前に通じる。右の絵は北斎の読本の挿絵で、浮世絵ばかりでなくこの
手の鬼平達が読んだであろう本の挿絵もよくした。北斎のはこの手の絵にも風格が感じ
られる。生誕地の前には三味線教室があり、三味の音が昼間から響く。北斎にはいい
供養である。山本昌代著の「応為坦坦録」によると北斎父娘は本所吉田町、松倉町、
入江町に移り住んだとあり、これが事実なら北斎は錦糸町のゾーンに住んだことになる。



S歌川国貞(三代豊国)生誕地、晩年住居跡
江戸末期のナンバーワン浮世絵師の歌川国貞の生誕地は、亀戸駅から明治通りを
南に真っ直ぐ行って高速道路7号線の下の竪川にかかる五の橋の近くにあります。
JR錦糸町駅から歩いて15分です。国貞の実家は材木問屋で、竪川のこの付近の
渡し舟の権利を持っていたようです。この付近に橋はなかったのです。国貞は長らく
「五渡亭国貞」という画号を使いましたが、これは「五ツ目の渡し」から来たもの。左
上の写真が生誕地と推定される場所。この付近の竪川は現在は埋立てられて左下
の写真のように小さな川にされたが、江戸時代には材木や生活物資を運ぶ河川で、
今の横十間川より広く、渡しが必要だった。右の国貞の浮世絵は「五渡亭国貞」の
の号があり、歌舞伎の一場面のものだが、当時の錦糸町ではこういう事はざらにあ
った。国貞は実に多作で役者絵、遊女絵にすぐれる。晩年に師匠の「豊国」の号を
継いだ。亀戸天神の境内に歌川豊国、国貞の石碑がある。(入って右の通路)




国貞は晩年に亀戸天神の近くに移り住みましたが、その場所は現在の柳島小学校の
近くで横十間川にかかる栗原橋のたもとの錦糸町側です。(全体地図のS) 国貞の墓は
亀戸天神の北側にある光明寺にあります。この寺の門には「二世豊国の墓」としていま
すが、これは本人の自称で、後年に二代の豊国が他に居たことが判明したので三代目
とされました。光明寺はそのままにしていますが、歴史を感じさせます。


松平定信の墓所(清澄白河・霊厳寺)
長谷川平蔵のかなり上の上司にあたる老中松平定信の墓所が清澄白河駅の近くに
あります。すぐ近くには清澄庭園がある。深川江戸資料館へいく途中にある霊厳寺の
奥の左手に墓はあります。錦糸町から清澄白河までは地下鉄半蔵門線で10分です。




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松本