上方落語の歴史

ごくごく簡単な上方落語の歴史の紹介です。

[1700年頃〜明治]

1700年頃 露の五郎兵衛京都の北野天満宮・今の丸山公園あたり・四条河原などで笑い咄を演じる。
これが上方落語の出発点と言われている。

ひとつの咄自体は非常に短く「池田の猪買い」の原型の小咄が記録されている。
野外で演じられ、演者も観客も床几に腰掛けていた。

同時代に大阪では米沢彦八(1714年没)が「生玉(いくたま)神社」で役者の物まねを得意とした咄を演じる
「大阪落語の祖」と呼ばれ近年碑が建てられた。

1730〜1770年頃 2代目米沢彦八

初代米沢彦八との関係は不明。
京都で鳴り物を派手にいれた咄を得意とする。「
景清」の原型の咄本が残っている。

1774年〜 「咄の会」

一般庶民・商家・茶人などが咄をもちよって、口演しあい、一番出来のいい人に
賞品を出すというのが大流行になった。咄を愛好する層が広がり、その中からでてきたのが・・・

1800年頃 桂文治
大阪坐摩(ざま)神社で常席を持つ。

芝居咄を得意とする。
2代目文治の娘が江戸の咄家と一緒になったため、「桂」の名前は江戸にもいく。

1820年〜明治 ほぼ今の落語の形が完成されたと思われる。

 

[明治〜大正]

桂文枝(初代) 1819〜1875: 桂派中興の祖といわれる。
 
それまでの音曲(当時の寄席は唄をうたったり、芝居の真似をしたりが中心だった)落語から
いわゆる「すばなし」を得意にし、「三十石」の大ネタをつくりあげた。
  その弟子の文三(2代目文枝)文之助(曽呂利新左衛門)文都文団治らが、
「四天王」と呼ばれ、明治の上方落語を創り出していった。

その後、文三と文之助の襲名争いから、「桂派」と「三友派」の対立がおき、それから
「藤明派」「互楽派」「反対派」「大正派」「新桂波」「浪花派」「大八会」など、
たくさん諸派が誕生したり消えたりして、最終的に大正10年、吉本花月派(吉本興業部)にひとつに合併される。

 

[大正以降]

・・・いずれまたUPしたいと思いますm(_ _)m