済生会勉強会の報告 2012
 

平成24年4月11日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第194回(12‐04月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「視覚障害リハビリテーションの現場から
    〜全盲で高次脳機能障害を持つ方との出会い〜」
講師:野崎 正和 (京都ライトハウス鳥居寮;視覚障害リハビリテーション指導員)
【講演要約】
1、視覚障害リハビリテーションの現場で
 京都の視覚障害者福祉の特徴のひとつは、施設と当事者団体とが密接な関係にあるということです。当事者が必要とする事業を、当事者団体が運動して、ひとつひとつ実現して来た結果が現在の京都ライトハウスなのです。視覚障害リハビリテーション(以下視覚リハ)を提供する鳥居寮もそのひとつです。それから、もうひとつは視覚障害専門の相談事業が充実していて、当事者のニーズを相談員が幅広く把握していることです。そこで、私は相談員にとって使いやすい社会資源でありたいと思っています。視覚リハは当事者の生活ニーズの一部にすぎないと思うからです。
 さて、視覚リハとは、当事者の皆さんがそれぞれに困っていることをなんとかする方法や工夫の仕方をお伝えすることです。つまり、見えない・見えにくいことから起こる生活上の困難をちょっとでも改善するための技術指導ということになります。こんな場合はこうしたらどうですかという方法は沢山あります。それを技術と言うか、工夫と言うか、アイデアと言うかは別にして、そのような方法の集合体とそれを提供するシステムが、視覚リハだと私は考えています。これは、山上敏子先生(行動療法の大家)の講演をお聞きし、著書を読んで考えたことです。視覚リハって何だろうとずっと考えてきて、こういう考え方が今の私には一番しっくり来ました。
 簡単に言うと、私は白杖を使って歩く技術を指導する技術屋さんだということです。私個人はたいしたことはないのです。ただ、その伝えた技術には、その人の人生を豊かなものにする力があると思います。自由に外出できることによってどんな人生が始まるのか、それはその人だけの新しい物語です。
 私は歩行訓練士なので、「歩行の自由は精神の自由だ」と言われると、その通りだと思ってしまいますが、一人で歩けることだけに価値があるわけではありません。ある人は、「パソコンを習って、サピエ図書館で自由に読書ができるようになって、これで生きていくことができると感じている」と話していました。
 それから、中途視覚障害の方や、進行性のロービジョンの方などに対する「心のケア」についても、視覚リハの中でどう取り組んだらよいのか、ずっと考えていますがまだよくわかりません。ただ、現在がどうであるかによって、過去の意味は変わるといいます。視覚リハによって、もし現在が豊かになるなら、一度失われたように思える過去にも新しい意味が生まれるのではないでしょうか。それがもしかしたら「心のケア」なのかもしれません。
2、視覚障害と高次脳機能障害を併せ持つ人との出会い
 私が担当した中でも特に記憶に残る人たちのプロフィールです。
Iさん (1982年 30年前 当時40代 脳出血 ほぼ全盲→弱視→全盲)
 最初と3回目の脳出血のあとに視覚リハを担当しました。最初の時は、視力の回復がありびっくりしました。その時は認知の障害はなくて、修了後、銀行に復職し当事者団体の役員として活躍されました。昨年亡くなりましたが、車椅子生活で言語障害もありながら最後まで充実した人生でした。
Oさん(1985年 27年前 当時20代 交通事故 全盲)
 初めてあった時は冬で、いつもこたつに入っていて、昔の事を少しだけ覚えているような状態でした。記憶がないとか、憶えられないとかいうことがどんな状態なのかこの人から学びました。散歩から始めて、指導員2名が交代で5年くらい視覚リハを続けました。修了後は、授産施設に入所し、今も勤めています。
Tさん (2005年 7年前 当時60代 クモ膜下出血 全盲)
 こちらは視覚リハのつもりで接していても、本人はそう思っていませんでした。そのことにずっと気づかなくて、人間関係の維持にも視覚リハの技術指導にも失敗しました。しかし、もともと工務店の親方をされていたため人を使うのは上手で、今はホームヘルパーさんをうまく使ってしっかり生活しています。
S.Sさん (2006年 6年前 当時40代 交通事故 全盲)
 多幸症的調子の良さが特徴でした。この人は歌謡曲で自信と記憶の回復をしました。いい加減な性格に見えますが、他人の悪口を一切言わない人でした。この人も、ホームヘルパーさんを利用しながら、マイペースで単身生活をしています。この人を担当している時に、高次脳機能障害の勉強を始めました。
M.Sさん (2007年 5年前 当時40代 脳梗塞 全盲)
 記憶障害+空間認知障害+全盲で、その他にも幅広い症状があり、視覚リハ的には一番大変だったように思いますが、逆に一番多くのことを学ばせてもらいました。今は社会の中で自分の役割(講演活動)を見つけています。
 こんなふうに見てきますと、どの人の視覚リハも同じゴールはひとつもありません。それで当たり前ということです。

【略歴】
 1950年生まれ。岡山県津山市出身 
    立命館大学文学部卒業。
 1979年京都ライトハウスに歩行訓練士として入職(日本ライトハウス養成9期)
    以来歩行訓練士として32年間同じ職場に勤務。
 2011年3月定年 その後、嘱託で仕事を続けている

【後記】
 歩行訓練士として32年間現場での経験をお話しして下さいました。
 「一人ひとりのゴールは違う」〜利用者の方のニーズは視覚障害リハビリテーションだけではなくて、生活面であったり、家族の事であったり、年金のことであったり、行政の制度であったり、非常に幅が広い。あくまでリハビリテーションはその一部と、(野崎さんの思う)歩行訓練士の仕事の全体像を語りました。
 「心が動くと身体が動く。身体が動くと心が動く」「歩行の自由は、精神の自由」〜歩行訓練士は、白杖を使って歩く技術を指導するという仕事をしている技術屋。技術屋としての私個人は特別たいした人間ではないけども、お伝えしている技術には、その人の人生を豊かなものにする力があります。自由に外出できることによってどんな人生が始まるのか、それはその人だけの新しい物語。
 「やってみないと判らない」〜必ずしも歩行だけに限らず、ほかの部分であっても新しい何か、その人が生きていく楽しみ、喜びが得られれればいいのです。
 「現在が如何であるかによって、過去が変わって来る」〜現在が豊かになるなら、一度失われたように思える過去にも新しい意味が生まれるという意味だそうです。深いです。
 「工夫するのが指導員、努力するのが利用者」〜リハビリテーション達成の定義について「いつまでも指導員が付いているわけではありませんので、指導員がやっていたような工夫をご自分がしだして一つ一つ結果をご自分のものにしていけるようになりましたら、リハビリも終わりということやと思います」なるほどと合点しました。
 「おだてるだけのうわべの言葉だけでは駄目」〜本人が寝る時に思い起こして、言われたことにそうだなと納得できなければ進みません。「三歩進んで二歩下がる」
 お話の内容が、非常に謙虚で、論理的でした。特に個々の症例についてのお話は、状況が目に浮かぶようでした。優しい声でのお話し、仕事に対する謙虚な姿勢が伝わり、何かこころが豊かになるような、他者に対して優しくしてあげたいと思わせるような素敵なお話でした。



平成24年3月14日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第193回(12‐03月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「音楽療法で何ができるのだろうかー高齢者支援の現場からー」
講師:松田 美穂 (社会福祉法人 ジェロントピア新潟)
【講演要約】
はじめに
 特別養護老人ホームジェロントピア新潟は平成18年12月に創立し、今年で6年目を迎える。施設の中庭には角田山の麓から運んだ八重の枝垂桜があり、毎年見事な花を咲かせている。年を重ねた方々にとって桜は特別な花であり、施設のどこからでも眺めることができる。今は亡き父が「人生の完成期に必要なのは、自然と芸術と宗教(哲学)だ」と言っていたのを桜の花を見る度によく思い出す。お年寄りが過ごす施設だからこそ自然が感じられ、芸術の香りのする運営を心がけてきた。
 施設の中心には新潟の誇る宮田亮平氏(現東京芸術大学学長)の波に飛び跳ねるイルカがある。桜が満開の時はイルカを通して桜が眺められ、そのコラボレーションは見事である。先生のイルカはたたくと海の音がし、優れた芸術作品は人を癒す力になると実感している。
 そして筆者を日々成長させてくれていると感じている音楽。音楽によってライフワークとも自負できる音楽療法に巡り合うことができた。これまでの2000回を超える実践から認知機能と口腔機能の維持・向上に向けての音楽療法を取り上げたい。
1. 認知機能の維持・向上に向けての音楽療法
 長年の研究の結果、認知症の初期に特に低下しやすい認知機能が明らかになってきた。この機能を重点的に鍛える認知症予防事業が、東京都や長野県で先駆的に行われている。
 矢富直美(2005)は認知症予防プログラムの必要条件として、その活動が高齢者の嗜好に合い、なおかつ認知機能{ (1)注意力 (2)言語流暢性 (3)思考力(計画力) (4)エピソード記憶 (5)視空間認知 }を刺激する要素があれば理想的だと述べている。  音楽療法ではこの5つの機能を刺激し鍛えるためのプログラムを実践している。
(1) 注意力 + (5) 視空間認知 → 手話歌唱、楽器演奏
 毎月「季節の歌」を参加者と相談して決め、歌いながら曲にふさわしい手振りを同時に行なっている。これは本式の手話ではなくことばに適した手の動き(あて振り)で、歌いながら手指を動かすことで、脳の中枢の広い範囲の神経細胞を効率よく活性化させることができる。楽器演奏も同じことで、同時に二つ以上のことを集中して行うためには注意力が不可欠である。加えて注意分割機能も鍛えられる。毎月「季節の歌」はどこの施設でも歌われているはずである。この時に手振りやリズム楽器をプラスするだけで脳のトレーニングになる。
(2) 言語流暢性 + (4) エピソード記憶  → 歌唱、短期記憶ゲーム、会話
 言語流暢性向上には歌唱は最も適した活動であろう。歌唱により思い出話が語られることも多く、エピソード記憶を喚起することも可能である。感動的な体験を涙ぐみながら話す方も多い。
 短期記憶ゲームは、花や動物、食べ物などを写した写真や絵などを何枚か見せて記憶してもらい、途中に簡単な歌唱をはさみ、その後で答えてもらうというゲームである。答えてもらう前に邪魔(簡単な歌唱)をはさむことで、より高度な脳の活動になる。
(3) 思考力(計画力) → プログラム計画、リクエスト、楽器選択
 手話歌唱の曲目やことばに適した手の動きの提案、リクエストや楽器選択は全て思考力(計画力)アップにつながる。  高齢者の場合は集団で実施することで人との交流が促進され、競争意識も働き、より効果的である。ちょっと難しいと感じ、四苦八苦している時こそ脳が生き生きと働いている。
2. 口腔機能の維持・向上に向けての音楽療法
 音楽療法の始まりはいつも言語聴覚士と共にウォーミングアップの一環として嚥下体操を行なっている。嚥下機能の維持・向上には、舌と下あごを鍛えることが重要である。ここの筋肉が靱帯を介して「喉頭蓋」という蓋の働きをよくするからである。 この蓋の働きが悪くなりふさがらなくなると食べ物が気管に入ってしまい、嚥下性肺炎の原因となる。
 嚥下体操のプログラムは、
 (1)深呼吸
 (2)頬の運動(膨らましとすぼませる)
 (3)舌の運動(上下左右に動かし、その後唇をゆっくりなめる)
 (4)イーウーオーウー運動(イー、ウー、オー、ウーと長めに発音する)
 (5)早口ことば
 と至って簡単である。その他にも「パンダの宝物」など舌と下あごをよく動かすことばを発音してもらうこともある。実際に発音してみると舌と下あごが動くのがよくわかるはずである。歌唱曲については、擬音やパ行、タ行、カ行、ラ行のことばが多く含まれている曲がよい。
おわりに−音楽の癒しを求めて−
 癒しが必要なのは家族も同様である。毎月の家族会でストレスを発散させる目的で合唱を行い、家族の歌声を録音し毎日昼食時に放送をしている。自らが歌った歌を毎日入所者に聴いてもらうという試みは、普段生活を共にしていない家族にとっても意味のある活動だと考えている。  また昨年より音楽を通じた地域交流事業として、障がい者支援施設である「すずらんCafe」でメンバーと組んで歌声喫茶を始めた。幸い好評で障がい者に対しての理解と支援の輪が広がっている。
 音楽療法に携わって20年以上が過ぎた。これまでの経験から人を癒すのは人と人とのふれあいであり、この人と人とをつなぐのが音楽なのだという思いを強くしている。今後も初心を忘れることなく、音楽で人と人との橋渡しをしていきたい。

【略歴】
 桐朋学園大学ピアノ科、東京芸術大学声楽科卒業、新潟大学大学院教育学研究科、新潟青陵大学大学院臨床心理学研究科修了。
 芸大オペラ「フィガロの結婚」でデビュー。数々のオペラに出演の他、「第九」、「メサイア」、モーツアルト「レクイエム」「戴冠ミサ」等のアルトソロを務める。
 平成10年医師である夫と共に介護老人保健施設「ケアポートすなやま」を開設。
 現在は社会福祉法人ジェロントピア新潟理事長、特別養護老人ホーム「ジェロントピア新潟」施設長、地域活動支援センター「すずらんクラブ」相談支援専門員。認定音楽療法士、臨床心理士。

【後記】
 とにかく楽しく拝聴しました。歌あり、手話歌唱あり、あっという間の50分でした。音楽がそして俳句が、認知症に効果があること、間違いなしだと感じました。松田さん自身が磨いた音楽、お父さんからの医学、お母さんからの俳句、この3つが融合した素晴らしい活動に感激です。



平成24年2月8日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第192回(12‐02月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「源氏物語にみる心の病
    (千年前と変わらない人のこころと、紫式部が伝えたかったこと)」
講師:櫻井 浩治 (新潟大学名誉教授・精神科医)
【講演要旨】
 「源氏物語」は、今から約1千年前の平安時代の中頃に書かれた、帝の子供でありながら帝を継げない光(ひかる)源氏と呼ばれた男性の生涯を描いた長編小説です。
 この小説にはマラリヤや、気管支炎や脚気など身体の病気も出てきますが、それよりも心の病、あるいは心が関係した病が圧倒的に多く描かれています。
 先ず小説の冒頭に出てくる「女御(にょうご)、更衣(こうい)あまたさぶらひ給ひける中に」と始まる、この「あまた」(多く)いる帝(みかど)(天皇)の后(きさき)(妻)達(父の位が帝の親族か大臣である后は「女御」、それ以下の位の父を持つ者は「更衣」と呼ばれました)の中にあって、帝の寵愛を一身に集め、光るように美しく賢い皇子を産んだために、第一皇子の母であった女御と寵愛をそねむ他の更衣ら によって、徹底的にいじめられる「桐壺」と呼ばれる更衣の病と死があります。
 このいじめは、桐壺の生んだ皇子(光源氏)を、帝が「源氏」とい姓を与えて除籍し、帝を継げない身分にしたにもかかわらず続いたため、桐壺は里に帰りたいと帝に願うのですが、何時も病気がちな桐壺を、たいしたことはないと思って許しません。
しかし光源氏が3歳の時に、日増しに状態は悪くなり、ほんの4〜5日でげっそりと痩せて意識さえないような状態になり、驚いて帝も里帰りを許すのですが里帰りしたその余に死んでしまいます。この里帰りの時にも、いじめを避けて隠れて宮廷を出た、と言いますから、そのいじめのすごさが察しられます。
 このようにしてみますと、この桐壺の更衣の死に至る病は、「長期にわたる心理的ストレスによって生じた身体的病」であり、多分「胃潰瘍」(心身症)と診断されるのではないでしょうか。夏目漱石のように「胃潰瘍」による出血によるものではなかったでしょうか。 桐壺の更衣は母と娘の桐壺の二人っきりの家庭でした。桐壺は心理的ストレスを避けたり和らげる手段がなかったのです。
 桐壺の更衣の母が後を追うように亡くなるのも、現代、問題にされている頼れる人を亡くした後の「喪失体験」が残された人の免疫に変化をきたして、重篤な疾患をひき起こす、という状態があったのだろうと思います。
 更には光源氏の妻「葵の上」は、妊娠中に「ものけ」につかれて大変苦しい出産をし、また出産後もはかばかしくなく、しばらくして亡くなってしまいます。この妊娠中の状態は、激しい「つわり」の状態でしたでしょうし、産後の状態は、産後の肥立ちが悪い、つまり「産後精神障害」のうちの一つか、「妊娠中毒」状態が考えられましょう。両方が重なったのかもしれません。光源氏と葵の上の間は、やや冷たくなっていたのですから。
 また光源氏が最も大事にした妻「紫の上」は、38歳の時、光源氏のう浮気のことを考え、自分をはかなんでいた朝方、胸が痛くなり激しい苦しみに襲われます。その後も発熱や食欲も無くなるという症状が数日続いては良くなり、また悪くなるなど、4ヶ月程繰り返し、一時は仮死状態になりますが、光源氏の熱心な看病や加持祈祷を変えるなどして治り、元気になります。
 これなども、突然、死に至るのではないかという胸部違和感を覚え、口の渇きやひ汗、脱力など、全て不安恐怖からの自律神経の緊張状態なのですが、発作的に生じます。救急車などで受診し、心電図などの検査を受けて異常が無いといわれ、その頃には症状は治まり、やれやれと思っていると、また急に同じような状態にさいなまされて受診しても同様の結果で、心配ないと言われます。が、ついにはまたおきるかも知れないという不安がつきまとい、その不安がまたこの症状を生む、という不安発作、今で言うパニック障害におちいってしまいます。この状態は、現在は不安を取る薬の服薬で治ります。
 さらには光源氏の親友の息子「柏木」が、あろうことか光源氏の年若い妻に強引に横恋慕し、その結果子供が出来てしまいます。それを知っ柏木はl家にこもり、うつうつと物思いにふけってばかりいて、何がどうと言うわけでないが寝込んで頭が上がらない、という状態になります。そして源氏にも親にも申し訳ないと自分を責め、親も従者も皆彼を好青年だと思っているのに、本人は、自分の過去を悲観的に見、将来にも自信がなく、この世に生きていく価値の無い男だ、と思うようになります。
 このように、現在私達が「うつ病」と診断する状態になってしまいます。実を言えば、光源氏も同じような事態を若い時に経験していながら、光源氏は「うつ病」にならない。これは二人の性格や相手の態度の違いが関係しているように思われます。
 その他、髭黒の大将の妻「北の方」は、(今はこのような診断名は使いませんが)「ヒステリー」による解離性精神症状を呈し、離婚になりますし、光源氏の母違いの兄の帝は、光源氏が、都を離れ須磨で過ごしていた時、夢で睨まれた父の帝のことが気になり目が悪くなります(具体的な症状はわかりません)。その後、母親に反対されたのですが、光源氏を都へ戻しますと、わずらっていた眼症状が治ります。これもまた、心理的原因の眼の症状と言えるでしょう。
 このように、源氏物語にはさまざまな「心の病」が出てくるのです。その上光源氏より年上の皇太子の未亡人「六条の御息所(みやすどころ)」が、「もののけ」となって光源氏の妻や恋人(夕顔、葵の上、には生霊、紫の上、女三の宮には死霊)について悩ませ、病の原因にもなっています。これはその場面を良く読んでみますと、光源氏へめぐっての嫉妬からでは無く、光源氏が六条の御息所(みやすどころ)の誇りを逆なでするような、自尊心を傷つけるような光源氏の言動がきっかけになり、それを恨んで「もののけ」となって現れ、光源氏の代わりに彼女らに憑(つ)いている事が判ります。
 ここで見た心の病も、全て「自尊心」が傷つけられた状況下で生じていて、結局は、男性は女性の自尊心を大切にしないととんだことになりますよ、と紫式部は源氏物語で主張したかったのではないでしょうか。
 小説ではありますが、作者紫式部の父も兄も夫も藤原氏の一族であり、自らも天皇の后に仕えたこともあって、当時の宮廷の状況を、かなり忠実に描写していると言われています。登場する人物も、自らが見聞きしたモデルが背景にあるからこそ、当時の読者を惹きつけ、そこに真実がうかがわれるからこそ、千年間も読み継がれているのではないでしょうか。
 例えば、今日お話しするパニック障害に似た症状は、当時最高の政治家であった藤原道長が、それとおぼしき疾病に悩まされていた事が、道長自身の日記や、公卿の日記に記されていることからも推測されるのです。当時の現実の帝、三条天皇は眼症状があって後に失明している、とも言います(藤原道長の日記「御堂関白記」や平安時代の公卿藤原実資の日記「小右記」。詳しくは服部敏良著「日本医学史研究余話」参照のこと)「真実は小説より奇なり」といいますが、「小説は現実を映し出す鏡」とも言えましょう。
 私達は源氏物語から千年前から人は今に変わらぬ愛や嫉妬や不安や自尊心に揺り動かされた人間関係に悩み、現代病同様の心身の反応を生じていた事がわかります。 そして病の原因が判らなかった当時は、多くを「ものけ」の仕業と考え、その不安の解消を、宗教、特に加持祈祷に頼った、という歴史的事実が、現代人にも尚存在しているように、私には思われことがあります。

【略歴】
 昭和11年1月生まれ。新潟大学医学部卒業、慶応義塾大学医学部精神神経科学教室で精神科臨床を学び、新潟大学、新潟医療福祉大学などに勤務。両大学の名誉教授。医学博士。 第39回日本心身医学会総会会長を務める。
 一般向けの著書として「源氏物語の心の世界」(近代文芸社刊)、「乞食の歌ー慈愛と行動の人良寛」(考古堂刊;第5回新潟出版文化賞優秀賞受賞)

【後記】
 1000年前のお話なのに、櫻井先生がお話しすると現代の物語のような親近感を覚えます。今回のお話に出てきた、ストレス潰瘍、妊娠中毒症、ヒステリー性障害、パニック障害、うつ、、、人が織りなす人間関係は、1000年前と変わらないと思いました。
 下記の言葉も、印象に残ります。
 人間は誰でも不安を持っている(不安な存在)
 笑いの効用は言われているが、泣くことも大事。
 影も大事、、、、等々
 今度こそ、源氏物語を読んでみようと思いました。



平成24年1月11日の勉強会の報告

安藤@済生会新潟です。
第191回(12‐01月) 済生会新潟第二病院 眼科勉強会の報告です。
演題:「新潟盲学校の百年 〜学校要覧にみる変遷〜」
講師:小西 明 (新潟県立新潟盲学校 校長)
   勉強会の一部は、「新潟大学工学部渡辺研究室」と「新潟市障がい者ITサポートセンター」の  ご協力により、ネット配信致しました。今回も全国の数か所でアクセスがありました。
   下記のいずれでも視聴できます。
     http://www.ustream.tv/channel/niigata-saiseikai
     http://nitsc.eng.niigata-u.ac.jp/saiseikai/
   録画はしておりません。当日の視聴のみ可能です。
【講演要旨】
1 はじめに
 新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、開校から4年後の1911年(明治44)に最初の卒業生を世に送り出しました。この年に同窓会が創設され、平成23年をもって百年を迎えることができました。同窓生はじめ、御支援いただいた多くの皆様のおかげと感謝しております。
 新潟盲学校百年の歴史は、県内視覚障害児者の教育・医療・福祉・労働等の変容を、かなりの部分映し出す鏡でもあります。ここでは、当校の学校要覧をもとに、沿革にはじまり、在籍者数と教職員数、眼疾患、教育等について概観し、今後の視覚障害教育の在り方について考てみたいとおもいます。

2 沿革略史
1903(明治37) 長谷川一詮らが、(1)新潟市東堀前通り8番町の私立蛍雪校の一部を借り「盲唖学校」を開設
1907(明治40) (2)新潟市医学町通1番町に借館し「私立新潟盲唖学校」として、盲生19名、唖生8名をもって開校する。
1910(明治43) 校舎を(3)新潟市西堀通3番町に新築移転する。
1922(大正11) 新潟県立新潟盲学校となり、ろう唖部は昭和2年まで存置する。校地校舎基本金一切を新潟県に寄付、財団法人新潟盲唖学校を解散登記。
 1930(昭和 5) 校舎・寄宿舎が(4)新潟市関屋金鉢山町53に新築移転する。
 1937(昭和12) ヘレンケラー女史が来校される。
 1948(昭和23) 盲学校教育義務制が施行される。
 1953(昭和28) 新校舎8教室(2,505u)が増築竣工する。
 1957(昭和32) 創立50周年記念式を挙行する。
 1963(昭和38) 現所在地の(5)新潟市山ニツ1117(現地27,044u)に校舎(3,667u)寄宿舎(1,750u)が竣工し移転する。
1977(昭和52) 創立者、前田恵隆殿と久保田清蔵殿の慰霊祭を創立70周年記念行事の一環として挙行する。
1980(昭和55) 校舎第4棟(1,448u)が竣工する。
2006(平成18) 新潟県立新潟盲学校高田分校が県立上越養護学校内に設置される。
2007(平成19) 新潟県立新潟盲学校創立百周年記念式典を挙行する。
2011(平成23) 新潟県立新潟盲学校同窓会創立百周年記念式典を挙行する。
* (1)〜(5)は校舎等所在地

3 在籍者数と教職員数
「私立新潟盲唖学校」は、1907年(明治40)、盲生19名、唖生8名にて開校しました。開校後生徒数は徐々に増え、10年後の1916年(大正5)には68名となりました。唖生の教育を分離した1927年(昭和 2)には盲生132名を数えるほどになり、校舎が手狭となったため関屋金鉢山への新築移転となりました。その後、戦争の時代を迎え深刻な食糧難もあり、生徒数は横ばいでした。
戦後の教育改革により、盲学校は義務制となり就学奨励法による児童生徒への支援が始まると生徒数は飛躍的に伸び、1964年(昭和39)には189名を数えるほどになりました。 当校の在籍者はこれがピークであり、現在まで減少を続けています。医療・衛生の飛躍的な進展、出生数の減少がその背景にあるといわれ、当校に限らずほぼ全国的な傾向です。
教職員については、開校当初校長を含め僅か4人でした。4人で盲生と唖生を教育していたことになります。当時は、先生が盲聾教育について特別な指導を受けたり、資格があったわけではありませんでした。開校10年後には、生徒数増に伴い教職員は10人となりますが、唖部が分離し生徒数が132名にもなった1927年(昭和 2)になっても教職員は2人増えただけでした。大正時代に県立移管となった後も、学校経営は経済的に厳しく、職員を確保する財源がなかったことが原因としてあげられます。そこで、生徒同志で教え合ったり、高学年の生徒が年少児童の世話をしたりして、学校や寄宿舎で過ごしていたことが同窓会誌等に綴られています。
1948年(昭和23)の義務制以後、義務教育標準法により教職員が確保され、定数改善が継続され、在籍者1名当たりの教職員数は増えています。

4 眼疾患の推移
眼疾患に関する記録では、1936年(昭和11)の新潟県立新潟盲学校一覧に掲載されている「失明原因調」が現存する資料で最も古いものです。栄養不良、その他、角膜炎、麻疹、先天性等が上位を占めています。残念なことに、1941年(昭16)から1951年(昭和26)までの記録が残されていません。戦中戦後の混乱期に紛失したのか、そもそも診察や調査が実施されなかったのかについては不明です。
戦後は、1952年(昭和27)の学校要覧から「眼疾」として記載されています。眼球癆、角膜疾患、牛眼、白内障、網膜色素変性症等が疾患の上位を占めています。
その後、1970年(昭和45)からは、筑波大学心身障害学系による「全国盲学校児童生徒の視覚障害原因等調査」が開始されました。調査は5年ごとに実施され、当校の学校要覧眼疾患の項目は、70年以後当該調査の形式に則っています。

5 盲学校教育百年に学ぶ
(1)学校運営
1872年(明治5)学制発布により「小学校、人民の一般必ス学ハスンハ・・・」とありますが、障害児(ここでは盲聾児)の就学については触れておらず、「廃人学校アルヘシ」とあるのみでした。
盲聾学校義務制が施行されたのは、戦後の1948年(昭和23)であり、明治初期に学校教育が始まって75年を経過した時でした。
 この間、先達たちは崇高な志を掲げ、盲聾者への教育の必要性や可能性を説き、心血を注ぎ学校開設や運営に尽力しました。この活動を財政面で協力した支援者として、煖エ助七氏(高助)や中野貫一氏(中野財団)の名が上げられます。少額ではありますが、資金援助をされた市民の方々もありました。盲学校教育が公教育として、公的負担がなされるまで、学校の経済的困窮は開校からの最も大きな課題でした。
(2)教育制度
2011年(平成23)7月29日、障害者基本法の一部改正により、可能な限り障害児が障害のない児童生徒と共に学ぶという考え方、いわゆるインクルーシブ教育が法令上明記されました。「廃人学校アルヘシ」との一文から140年の時を経て、ようやく学ぶ場が共有されたことになります。二元論から一元論へ、ノーマライゼーションの進展です。今後は、ますますユニバーサルデザインの教育推進が求められると共に、盲学校においてはその専門性の確保が求められることになります。
(3)これからの盲学校に期待されること
○視覚障害は最も少ない障害であるからこそ、教育ニーズに的確に対応できる核となる場(盲学校)が必要ある。
○盲学校には、地方自治体で唯一の視覚障害教育の資源・支援センターであることの自覚や使命感が求められる。
○盲学校は「指先を目としながら学ぶ」子どもから大人に、高い専門性と特別に工夫された教材・教具を提供し、教授する指導者を育成する。
○盲学校は、医療・福祉・労働など、教育以外の分野との連携により、視覚障害児者の多様なニーズに対応しQOL向上に寄与する。

【略歴】
 1977年 新潟県立新潟盲学校教諭
 1992年 新潟県立はまぐみ養護学校教諭
 1995年 新潟県立高田盲学校教頭
 1997年 新潟県立教育センター教育相談・特殊教育課長
 2002年 新潟県立高田盲学校校長
 2006年 新潟県立新潟盲学校校長

【追記】
 新潟県立新潟盲学校の前身である「私立新潟盲唖学校」は、明治40年(1907年)の開校です。4年後の明治44年(1911)に最初の卒業生を世に送り出しこの年に同窓会が創設されました。平成23年(2011年)は開校104年、同窓会創立百年となるということです。同窓会創立100周年は、あまり聞くことはありません。しかし小西先生のお話を伺い、同窓会の存在の大きさを改めて感じました。
 新潟盲学校設立は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」に描かれた時代と重なります。「全ての人が共に学び、自立に繋がる力を育てる」という創立者長谷川一詮、鏡渕九六郎、荒川柳軒、前田恵隆の四氏の願い、、、盲学校100年を振り返る時、先人たちの献身的な活動に感動です。財産を蓄えることが大事という今日、盲学校のために財産を差し出すという志の深さに圧倒されます。日本人にはこういう気概があったのだと誇らしく、懐かしく思います。
 同窓会が学校に大きな力となったということにも感慨が深いものがあります。予算が少ない、教員数も足りないという状況下、同窓生が生徒の面倒を見て、就職先まで世話していた、、、、ということです。
 何よりも100年前の学校要覧が残っていたこと、貴重なことです。決算が毎回大きなスペースを占めています。借金のために必要だったのでしょうか?ヘレンケラー女史が来校した時の写真も感激でした。
 失明原因疾患もとても興味深いものでした。小児の失明原因を調べたことがありますが、こうした盲学校のデータは戦前からのデータも揃っており大変貴重なものです。興味深い話題満載の講演でした。小西先生、ありがとうございました。

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