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訴  状

2008年13

大阪地方裁判所民事部  御中

原告訴訟代理人            

弁護士  藤  森  克  美

 

581-0868 大阪府八尾市西山本町6丁目5番14号 森岡コーポラス102号

原 告    高    政  美       

(通名 千葉 優美子)      

420-0863 静岡市安東柳町1番地の3(送達場所)

上記原告訴訟代理人                    

弁護士    藤  森  克  美      

TEL 054−247−0411 

FAX 054−247−0509 

 

102-0071 東京都千代田区富士見町2−14−15

被 告    在日本朝鮮人総聯合会      

上記代表者    中央常任委員会議長 徐 萬述  

 

慰謝料請求事件

訴訟物の価額    金 11,000,000円

貼用印紙額     金     53,000円

 

請求の趣旨

1 被告は原告に対し、金11,000,000円及びこれに対する1963年10月18日から完済に至るまで年5分の割合による金員を支払え。

2 訴訟費用は被告の負担とする。

との判決並びに1項について仮執行の宣言を求める。

請求の原因

第1 本訴の目的

1.1959年12月に始まる朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」とする)への帰国事業によって、約93,000名の在日朝鮮人(日本人配偶者含む)が帰国した。

当時の日本は在日朝鮮人に対する差別や偏見が格段に強く、在日朝鮮人の多くは日本で暮らすことに困難を感じていた。そこへ、被告が「(北朝鮮は)教育も医療も無料の社会主義祖国」「地上の楽園」という猛烈なキャンペーンを繰り広げ、在日朝鮮人を「帰国」へと組織した。

このような情勢の中で日本政府は遂に在日朝鮮人の北朝鮮帰国を認めることとなり、日本赤十字社が赤十字国際委員会の協力を得て行なうことを1959年2月13日閣議了解で決定した。「基本的人権に基づく居住地選択の自由という国際通念に基づいて処理する」ことを原則とするものであった。次いで同年4月から日本赤十字社がジュネーブで北朝鮮赤十字社と交渉を行い、その結果、8月13日にカルカッタで両赤十字社の間に在日朝鮮人の北朝鮮帰還に関する協定が署名された。この協定に基づいて、同年12月以降、在日朝鮮人で北朝鮮へ帰国することを希望する者の北朝鮮帰国が実施された。

日本側で帰国事業に積極的に協力したのは在日朝鮮人帰国協力会(会長=鳩山一郎、幹事長=帆足計、幹事=政党・労組代表・文化人ら17名、各県に支部)であり、自民党も社会党も共産党も、要するにあらゆる政党がこれを支持し、推進する立場に立った。窓口になったのは日本赤十字社であり、すべては「人道上の問題」として推進されていった。

2.しかし、帰国者を待ち受けていたのは「楽園」ではなく、「地獄」にも似た現実であった。自由の拘束と経済的困窮は帰国者に限った事ではなかったが、その中でも帰国者は徹底した監視・統制・分断の下に置かれた。

北朝鮮から脱出してきた者の証言により、北朝鮮には12ヶ所程の強制収容所が存在し、推定20万人以上が収容され、人間の生活とは言えない状況に置かれていることが明らかとなった。そして収容者の中には日本からの帰国者が多数含まれていることも明らかとなった。平壌から東北へ100キロほど離れた15号管理所という強制収容所(通称「耀徳政治犯収容所」)には約5万人の政治犯が収容されていたが、その内約5千人が日本からの帰国者と言われていた。

  北朝鮮では出身階級・階層で国民(公民)を解放直後ころから「出身成分」に分けており、日本からの帰国者には非常に低い位置付けがなされている。なぜならば帰国者は、自由主義社会の空気を十分に吸った者、異質思想の持ち主、思想的動揺者、不平不満分子であり、あげくのはては日本や大韓民国(以下「韓国」という)から送り込まれたスパイもその中に含まれているとみなされているからである。日本に残り、日本で生活したことが本人の罪でないにも拘らず、この差別と監視は一生ついてまわり、密告や当局の判断で、いとも簡単に強制収容所に送られるのが実態である。

3.帰国事業が始まって間もなく、帰国者から生活の窮状を伝え、助けを求める手紙が、日本にいる親族に送られてくるようになった。表沙汰にすると帰国者に累が及ぶ為、親族は秘密裏に懸命に対応した。日本から送られてくる物資が帰国者にとっては命綱であったと言っても過言ではない。

4.本訴は原告の辿った過酷な体験を通し、帰国事業の犯罪性を裁判の場で明らかにし、今なお北朝鮮政府の人質政策に加担している被告の責任を追及するものである。

 

第2 帰国事業の犯罪性(壮大な誘拐行為)

2006年11月に「読売ウィークリー」の菊池嘉晃記者は月刊誌「中央公論」において発表した記事で、帰国事業が北朝鮮当局の主導で行なわれていた実態を明らかにした。従来は帰国を願う在日朝鮮人の強い働きかけに、北朝鮮政府が答えて彼らの受け入れを表明したとされていたが真実は違ったのである。

菊池記者は北朝鮮・韓国関連の取材を長年に亘り手がけており、2000年には韓国成均館大学大学院に留学し北朝鮮帰還事業に関する論文で修士号を取得している。

以下北朝鮮当局の動向が帰国事業の変遷にどのような影響を与えたのかを菊池記者の記事を引用しながら述べる。

 

1.帰国事業初期

1955年10月のソ連文書には、北朝鮮の南日外相が「(対韓国政策・統一問題で)日本に住んでいる朝鮮人を利用できそうである。(略)このような目的で、朝鮮政府は、在日朝鮮人に対する物質的援助が不可欠だと考えている」と記録されている。つまり北朝鮮政府は自らの政策遂行に在日朝鮮人を利用しようと考え、被告に朝鮮労働党の日本支部、北朝鮮政府の外交代表部・在外商社という多面的な顔を持たせて北朝鮮政府のために行動させたのである。このことは1956年のソ連文書が、朝鮮労働党は被告を指導するために「朝鮮人の活動の為朝鮮労働党の代表者1,2人を日本へ送る」、という方策について触れていることからも明らかである。

  北朝鮮の最高責任者であった金日成は、1955年9月朝鮮総連系の訪朝団と接見した際、帰国者の受け入れを表明しながら「このような、あらゆる問題は、日本政府とわが政府間の平和共存による外交政策に立脚して解決されるものなので、まず共和国政府は、経済文化交流を促進する事業を積極的に展開するであろう」と教示した。北朝鮮は1954年にソ連と中国が対日政策を敵対的なものから平和共存路線に転換したことを受けて、1955年2月の南日外相声明で、日本政府に貿易・文化関係や国交樹立を呼びかけており、上記金日成の教示は、帰国事業も経済文化交流などの対日関係強化や日朝往来回復といった政策の一環として位置づけていたことを示している。このため初期の帰国対象は1955年12月の南日外相声明によると「祖国に帰って教育を受けようとする学生」「事情によって帰国を希望する朝鮮公民」「大村収容所の帰国希望者」の3種類であり、一般帰国者はあくまで「事情」のある人に限られていた。特に3番目の大村収容所の帰国者に関しては、収容者の扱いを巡って日韓間で軋轢が起きており、北朝鮮は日韓間の離間を狙い、再三にわたって「大村の帰国希望者」の帰国を強く求めた。このように初期の帰国運動は、第1に北朝鮮の対日・対南政策の一環として位置づけられていた点、第2に北朝鮮側は帰国そのものを政策の重点に置いておらず、想定された帰国者も特定かつ限定された人々だった点、第3に北朝鮮側の帰国者に向けた宣伝もまだ誇大ではなかった点、第4に被告の運動は組織的ではあったが、まだ小規模で、運動の参加者には確固たる帰国意思を持つ人々が目立った点から本訴において問題としている帰国事業とは性格の異なるものであった。

 

2.帰国事業中期

それまで小規模で限定的に行なわれていた帰国運動が爆発的に拡大したのは1958年夏であった。

従来は、同年8月11日に被告の神奈川県川崎支部中留分会が集団帰国決議を行なったことで運動に火をつけたとされてきたが、実際は運動の拡大が北朝鮮当局のお膳立てによる物であることがソ連文書で確認された。

中留決議の1ヶ月前、同年7月14日、北朝鮮金日成首相は面会した北朝鮮駐在ソ連臨時大使に対し、在日同胞60万人が経済的に苦境にあることを挙げて「我々は、日本在住の全ての同胞が自らの祖国に帰ってくるよう勧めており、この問題について日本政府と合意に達したいと希望している。この点について我々は近く声明を出す。共和国に帰ってきた、すべての朝鮮人は、住居と仕事、すべての政治的・経済的な権利を得、彼等の子供たちは共和国の学校、大学で教育を受けるようになることを強調するつもりだ」と述べた。また在日朝鮮人の帰還に対する方針転換の理由を1955年の外務省声明で在日朝鮮人の生活と民主的権利の保障を日本政府に要求したことを挙げながら、「今は、彼ら全員を共和国に帰還させることが重要である。2,3年前、我々の経済状態では、日本に住む朝鮮人約10万家族(世帯)を共和国に帰還させ、住居と仕事を与えることを提起できなかった。現在、我々はある一定の期間内に、これらの家族に仕事とアパート10万室を与えることが出来る」とし、50年代半ばに比べ、経済復興がなされ、帰国者の受け入れが可能になったことを方針転換の理由に挙げた。しかし帰国者の受け入れを決めた真の理由は「平壌やその他の地方では、産業部門、特に石炭業、そして農業においても労働力の不足が感じられるが、彼らにはそうした場所で住宅建設や産業建設の仕事を与えることが出来るだろう」という言葉から読み取れる。当時の北朝鮮では第1次5カ年計画(57〜61年)の遂行のための技術者・労働者が不足していた。つまり金日成は、帰国者を当初から労働力の不足する部門で活用しようと意図していたのである。

さらに金日成は「在日朝鮮人の帰還」のもたらすメリットについて「我々は大きな政治的意味を見出す。実現すれば、共和国に政治的・経済的に大きな利益をもたらすだろう」と述べている。政治的意図を持っていたことは、日朝赤十字間で帰還協定が仮調印された後の1959年7月南日外相がソ連の高官ミコヤンとの会談で「帰還をめぐる問題提起は、李承晩が負けたのに対して、共和国には政治的勝利をもたらした。彼は単に南朝鮮に人々を受け入れられないどころか、逆にラテンアメリカ諸国に失業者を送り出す準備をしている」と述べたことからも分かる。

このように、表向きは「祖国への帰国を念願する在日同胞への温かい配慮」を強調していた北朝鮮政府だったが、実際には、激しい体制競争を続けていた韓国への政治的勝利と北朝鮮の優位性の宣伝、労働力の補充を通じた経済的効果など、北朝鮮側の政治的・経済的利益を冷徹に計算していたのである。

また帰国者の中に「反動人員」「スパイ」が混じってくることも想定しており「しかるべき組織がきちんと機能している限り、我々は恐れることはない」と述べている。つまり北朝鮮当局は当初から、帰国者や日本人妻らを情報機関・警察により監視することを想定していたわけである。

金日成は1958年8月12日、今後についてソ連側に「朝鮮労働党中央委員会連絡部(北朝鮮の対外工作機関)は、独自のチャンネルで、すでにある期間にわたって在日朝鮮人の間で必要な作業を行なっている。日本からの朝鮮人の帰国に関する問題提起において、イニシアティブを発揮するのは日本に住む朝鮮人自身となる。そして、朝鮮総連が日本政府と共和国政府へしかるべき要望をするのである。その後に共和国政府による声明が続くことになる」と説明している。実際、8月11日の「中留決議」に続き、9月8日金日成が帰国者歓迎と生活保障を表明し、帰国運動は爆発的に拡大するのだが、これら一連の流れは、北朝鮮当局のシナリオと工作に基づいたものであったのである。

帰国運動中期の特徴は、第1に北朝鮮当局が対日・対南戦略の一手段という位置づけから「在日朝鮮人の帰還」それ自体に伴う政治的・経済的利益にも着目して政策上の優先順位を挙げて帰国実現に向けた運動拡大を図った点、第2に以前は限定的であった帰国対象を在日朝鮮人全体に広げた点、第3に「地上の楽園」といった北朝鮮の実態とはかけ離れた誇大な宣伝が行なわれ始めた点が挙げられる。つまり、多くの帰国者を受け入れることで北朝鮮体制の優位性を誇示する政治的意図があり、不実の宣伝、誇大な宣伝は誘引手段として行なわれたと考えられる。

北朝鮮当局と被告の狙いは当たり、多くの在日朝鮮人は不実の宣伝、誇大広告を信じ帰国運動が強力に展開された。

 北朝鮮政府は同年9月16日付南日外務相声明で帰国者をいつでも受入れ帰国後の生活をすべて責任を持って保障するという立場を再び表明し、10月16日には帰国に要する旅費と船舶を祖国がすべて負担し、輸送の準備と帰国者の安定した生活と職業を保障すると表明するなど、帰国実現のための措置を次々にとった。

1959年8月に日本と北朝鮮の赤十字社の間で結ばれた「在日朝鮮人帰還協定」に基づき、同年12月14日、第1次船が975人の帰国者を乗せて新潟港から帰国専用船で北朝鮮に出航した。赤十字社の協定によったのは、日朝間に国交がなかったためであり、乗船までの費用を日本政府が負担し、帰国船の配船と帰国後の生活を北朝鮮政府が保証するというものであった。

帰還協定は、何度も継続され、67年までの間に約89,000人が帰国した(その内約6,600人の日本国籍者が含まれる。その多くは日朝二重国籍者であるが、日本単独国籍の日本人妻1,600人余りもいた)。

この集団帰国の背景には、50年代の貧困と差別にあえぐ在日朝鮮人社会の閉塞状況があった。帰国者には、日本での絶対的困窮と侮辱的な民族差別から脱出したいという消極的な選択とともに、民族的愛国心から北朝鮮の国家建設に参加したいという積極的な意思もあった。

しかし在日朝鮮人の多くは韓国の出身であったため「祖国への帰国」とは言うものの、実質は社会主義国・新天地への「移住」であり、安定した生活が確実に保障されていなければ帰国しなかったことは言うまでもないことである。つまり北朝鮮政府と被告が不実の宣伝と誇大広告で彼らを騙すことがなければ北朝鮮に帰国を決意することはなかったわけである。

社会主義の幻想に惑わされ、「地上の楽園」等の不実の宣伝に踊らされて、最初の2年間に約75,000人が殺到するというブームが起きたが、これらは全て北朝鮮政府と被告が仕組んだ壮大な誘拐行為であったのである。

 

3.帰国事業後期

 大規模な帰国団が組まれ大勢の人が帰国していった期間は開始後数年であった。

帰国者は1960年をピークに急激に減少する。それは帰国者が送ってくる手紙から、北朝鮮での生活が、被告が宣伝していた「地上の楽園」とはあまりにもかけ離れた悲惨なものであるという実態が見えてきたからである。帰国者たちは手紙を通じて日本に残った親族に対し物品を送るように要請したのである。北朝鮮は経済的に豊かであると被告は宣伝していたが、帰国者の手紙一通で北朝鮮政府と被告の嘘は明るみとなったのである。また日本において困窮していた人々が帰国を果たし、残ったのはある程度の生活が日本で出来ている人々であった。そのため現在の生活を捨ててまで帰国する必要がなかったこともあり、帰国を渋るようになった。そのため、帰国者を増やすように北朝鮮政府からの指令を受けた被告は、帰国者を増やす為に以前にもまして言葉巧みに虚言を用い、原告の養父のような構成員ですら騙して北朝鮮へと送り出したのである。

このように原告家族が北朝鮮に帰国したのは、北朝鮮政府と被告の仕組んだ「地上の楽園」である祖国への「帰国」と言う美名で巧妙に隠された誘拐行為によるものであった。

 

4.まとめ

北朝鮮政府は在日朝鮮人を「労働者」として、また「金ずる」として利用するために不実の宣伝と誇大広告で彼らを騙して北朝鮮に連れて行ったのである。正に歴史上にない壮大な誘拐であった。

北朝鮮当局は帰国者の日本への自由往来を認めなかったため、帰国者たちが北朝鮮から逃れて再び日本へ戻ることは困難となり、厳しい生活を余儀なくされた。そんな帰国者の安否を気遣う日本に残った親族は帰国者が生きていく為に、自らの生活を切り詰めてでも仕送りなどの支援をせざるを得なかった。北朝鮮政府は帰国者を「人質」に金銭や物資の献納を強いたのである。

被告は、このように北朝鮮政府が帰国者約9万人を誘拐し、人質に取ることに積極的に加担実行したのである。

3年間の中断後、1971年から1984年まで帰国事業は再開されたが、その後の帰国者は、北朝鮮政府からの要求に基づく被告幹部・有力商工人の子弟、技術集団、学生青年グループの強制的な送り込みや、政治的処分としての召喚といったものであった。帰還協定による帰国事業終了後は、親族訪問の為の短期祖国訪問事業や、祖国研修事業が万景峰号を舞台に活発に行なわれてきた。もっとも2006年7月のミサイル発射に対する経済制裁で北朝鮮籍の船の日本入港禁止措置が出されている為、交流は止まっている。

 

第3 当事者

1.原告は1960年9月23日、大阪市生野区で生まれた在日二世である。原告の父高キョン順、母金玉先(オクソン)の次女として生まれた。

原告は1963年10月18日、第111次船で家族と共に北朝鮮に帰国した。

原告は帰国者であることから来る謂われなき差別や当局の監視に耐え、苛酷な環境を生き抜いていたが、1996年当局に不当な嫌疑をかけられたことから生命の危機を感じ、2000年12月、2人の子供と共に中国に脱北するが、中国での厳しい取締りの末、2003年2月北朝鮮に強制送還され、新義州保衛部でひどい拷問による取り調べを受ける。その後、原告同様強制送還され労働鍛錬隊に送られていた息子と再会して共に追放処分となるが、2003年12月19日再び北朝鮮から脱出した。そして、韓国のキリスト教会と日本のNGOの助力により、2005年3月16日日本政府の在外公館に保護され、2005年7月28日、ついに日本に入国を果たした者である。

 

2.被告は、活動目的を明らかにする綱領と、組織の構成・活動原則・会員の権利義務を定めている規約を有する。

  被告の代表者は2007年5月25、26日に開催された総連第21回全体大会で中央常任委員会議長に再選出された、徐萬述である。

  被告は法人ではないが、多数の構成員を有し、綱領規約に基づいて組織として意思決定をし、代表者によって行動し、団体の独立財産を有する、判例上の「権利能力なき社団」である。

 

第4 事実経過

1.原告は1960年9月23日、大阪市生野区で生まれた在日二世である。原告の父高キョンスン、母金玉先の次女として生まれた。

高キョンスン、金玉先は共に韓国済州島出身であり1957年結婚し、子供を3人儲けた。高キョンスンは1962年10月21日大阪で死亡した。

 

2.帰国当時原告は3歳であり、帰国を決定したのは原告の法定代理人である母金玉先(以下母とする)である。母は、被告構成員に「3人の子供を連れて、どうして生活していけるのだ、北朝鮮へ行けば心配なく生活できる、北朝鮮へ帰る方が良い」と勧められ、また「3年たてば、また日本に戻ることもできるのに、誰一人日本に戻ってきてはいないのですよ」「北朝鮮へ行けば心配なく生活できる」と説得され、その説明を信じて帰国を決断した。

帰国の為新潟に赴いた原告等は、そこで養父となる金コングゥン(以下養父とする)を紹介され、新潟で半年ほど暮らした。養父は韓国済州島出身で、青年の頃日本人を助けた縁で、その家族の援助を受けて日本の大学の法学部を卒業している。養父は被告構成員として帰国事業の仕事を担当しており、その仕事に区切りをつけて原告等と共に北朝鮮に帰国した。

 

3.原告は1963年10月18日の第111次船で北朝鮮に帰国した。共に帰国したのは、養父、母、金ビョンシ(兄、養父の連れ子)、金オクスン(姉、養父の連れ子)、金政愛(ジョンエ、実姉)、金太虎(テホ、実弟)である。

  新潟県在日朝鮮人帰国協力会が発行した「帰国事業の20年」によると第111次船で北朝鮮に帰国した在日朝鮮人は104名である。

 

4.帰国船は清津に到着した。この時金ビョンシ(以下「兄」とする)は清津の施設や風景と出迎えの人々の様子に落胆し「船から降りない、日本に帰してくれ」と言った。

  帰国者から見た当時の北朝鮮の生活水準に関しては、1960年第27次帰国船で北朝鮮に帰国し、1994年韓国へ亡命した鄭箕海の著書「帰国船」にも記されている。鄭によると清津で接した歓迎の人達はほとんどがやせており、一目見て栄養不足であることが分かったそうであり、上船時から感じていた被告の宣伝に対する違和感が決定的になったと記している。そして帰国者招待所(帰国者の配置先が決定されるまでの一時滞在用施設)では多くの帰国者が帰国したことを後悔し、日本に戻りたがっていたとも記している。

原告らは帰国船から降ろされ、清津の帰国者招待所で過ごした。その間も兄は日本への帰国を要求していたため、どこかへ連行されていった。帰国当時兄は10代半ばであり、祖国へ夢や希望を抱いて帰国したであろうことは想像に難くない。それらが一瞬にして崩されたのである。その絶望感たるやいかほどのものであったろうか。

残された原告らは新義州に配置が決定し移動させられた。希望に満ちた、祖国と被告へのゆるぎない信頼に基づく祖国への帰国は、到着した時から家族の離別という不幸に見舞われた。

 

5.原告家族の帰国当初の生活は楽なものではなかった。養父と母は北朝鮮社会の制度に従い、毎日夜遅くまで仕事に出かけていた。母は主婦として生活していたが、北朝鮮では主婦といえども家事をするだけの生活は許されず、女性同盟の指示に従って各種の労働奉仕や役割を担わなければならなかった。通常主婦は朝6時に朝期(早朝)作業に出かける。ほぼ毎日この作業があり、時には朝4時に出かけなければならないこともあった。朝期作業は世帯当たり1人出る必要があって、たいていは母親が出た。仕事は朝8時までつづき、仕事内容は道の普請、建設用の石集めなどであった。例えば、金正日がその町に来るとなれば、金正日の車が通る道路に各家からバケツを持って行き、その道路に雑巾がけまでして水をまくのである。労働動員は重労働もあり、母は土や石を入れた土嚢を担いで倒れてしまい、腰を痛めて3ヶ月ほど動けなくなったこともあった。

朝期作業が8時に終わると次は9時から12時まで女性同盟の事務所にて仕事をし、その後午後2時ごろから6時ごろまで各地の生活総和(労働者が自分の業務・生活について、相互または自己への批判を行なう)の指導に行く。

母はこのような各作業に動員されており、あまりにも忙しい毎日を過ごしていた為、原告は母と会話の時間も十分に持てず、幼かった原告は母子としての温かい心のつながりを築けない時期があった。忙しい母に代わって一番上の姉金オクスンが原告らの面倒を看ていた。

 

6.1968年5月頃、原告は家族と共に、帰国直後に引き離された兄に会いに行った。兄は第49号病院に収容されていた。第49号病院は精神病患者が入院する場所であり、北朝鮮による拉致被害者の横田めぐみさんが入院、死亡したと北朝鮮当局が発表した場所でもある。

そこは山奥で、小さな白い塀に囲まれたところであった。塀の中に平屋の建物があり、建物の中は鉄格子で仕切られていた。床は汚物だらけであり非常に劣悪な環境であった。5年ぶりに再会した兄はあまりの変わりようから父でさえも判らないほどであった。健康でたくましかった兄が、まともに立ってもいられず倒れそうな様子で、あまりにも惨めな姿に変わってしまっていた。原告らは変わり果てた兄を正視できず早々にその場を後にしたほどである。

その後、1971年頃兄の死亡通知が届いた。養父と母は兄の遺体を取り戻そうと試みたが、結局叶わなかった。また、兄が収容されていたとされる第49号病院は解体されなくなっており、実際は政治犯収容所へ送られていたことが後で分かった。

兄は「日本に帰る」と言っただけで政治犯収容所へ入れられ、惨めな最後を遂げたのである。

 

7.原告は帰国数年後日本の小中学校にあたる人民学校に通うようになる。学校で原告は「チョッパリ」(日本人の蔑称)、「パンチョッパリ」(半分日本人)と云われ大変ないじめを受けることになった。例えば、午前中の授業を終わって、午後の作業に出るため、服を着替えることになる。教服(学校の制服)から作業用の私服に着替える。原告は日本から持っていった衣類しかなく、それを着ることになるのだが、日本から持っていった衣類は北朝鮮の物に比べて質もデザインもよいもので、かっこいい。それが他の生徒に妬まれ、「チョッパリの服だ」「思想が悪い」と言われ、服を破られたりした。服を脱がされ、破られ、パンツだけにされたこともあった。そんな時原告は隠れて暗くなるまで待ってから帰宅するしかなかった。

 日本での差別から逃れてきたはずの帰国者は、同胞であるはずの北朝鮮人から差別を受けたのである。

 

8.1970年代に入ると日本からの仕送りが届くようになり、原告らの生活は安定するようになった。一家の生活は日本からの仕送りと、持ち帰った宝石その他の品物を売ることで現金を手に入れ、あるいは物々交換をして必要な品物を手に入れた。

帰国者にとって日本からの仕送りが命綱であったことは石川収編「北朝鮮の日本人妻からの手紙」からも窺える。

 

9.1976年3月はじめ、養父が突然行方不明となる事件が起こった。何の音沙汰もないまま1ヶ月が過ぎた。その間原告らは養父が行きそうなところを全て探してみたが、養父の姿を見つけることはできなかった。母は養父の職場に何度も行き、養父の行方を訊ねたが、「自分達にも何がどうなったのか全然分らない問題だから家に帰って待て」と言われるだけであった。原告の家の中はまるで葬式のように沈みこみ、ご飯も喉を通らなかった。何が起きたのか、養父はどこにいるのか、そして原告たち家族の将来はどうなるのかと不安で眠れない日々が続いた。

なんら情報が入らないまま2ヶ月、3ヶ月と歳月は過ぎていき、原告らはほとんど放心状態に陥ってしまった。

1976年7月2日、工場の幹部が家に訪ねてきて「絶対に自分から聞いたと言わないでくれ。そうする自信はあるか。バレたら自分の命もないのだ」と念を押してから「今あなたのお父さんは煉瓦工場に送られた」と言った。原告が「煉瓦工場とは何のことか。そしたらなぜ家から通えないのか、連絡はなぜ取れないのか」と畳み掛けると、その人は「帰国者達に聞いてみたら分かる話だ」と妙な言葉を残して帰って行った。

この時原告はあることを思い出した。何時だったか同じクラスの娘が、自分の親戚が煉瓦工場に送られた。再び会える日は永遠に来ないだろうと涙ながらに言っていたことを。原告はその時、あの子がなぜ涙ぐんでこの話をしたのか到底理解できなかった。工場へ行った人に何故会えないのか、おかしなことを言う子もいるなと考えていた。

とにかく母にその話をしたところ、母は急いで帰国者の友達の家に行った。しばらくして帰ってきた母の顔色は真っ白だった。母は「直ちに荷造りをしなければならない、誰かが来て何を聞いても絶対に今のことを話すんじゃない」といい、原告に「姉と弟、妹全部を探して連れて来なさい」と指示した。原告には事態の意味が理解できなかった。母は何をすればよいかも考えられないのか、興奮した様子で家の中を行ったり来たりしていた。原告も外に出たものの頭が動かず、自分が何をしようとしているか分らず、しばらくぼんやりと立っていた。兄弟たちを探して来いと言われたのを思い出し、探そうとするもののどこにいるか全然思いつかない。しかたなく家に戻ってみると正に修羅場で、母は家にある貴金属などを荷造りしようとしているようであったが、手に取ったものをおいてはまた取ったりと混乱の極みであった。

混乱状態は兄弟が戻ってくるまで続き、要領を得ない母と原告の説明から事態を察した姉が事態を収拾し、母はようやく現状を語り始めた。母は「今日聞いてきたのよ。家族の誰かが煉瓦工場に送られて5ヶ月の間に戻ってこられない場合、家族全員が連れて行かれるんですって。何時連れて行かれるか分らないみたい。そして、いいものは全部奪って、いくつかのものだけトラックに詰めて、永遠に出られない政治犯収容所に送るんですって。そこに入ったら生きて帰る人はいないと言うよ。私たちどうしたらいいかしら。これからはどんなことがあっても、どこにも、学校にも行かないで良いから、家に必ずいるのよ」原告は、学校にも行かなくていいと言う母の言葉を始めて聞いた。いつも学校、学校、勉強、勉強と口にしていた母のこのような発言に、原告は理解ができずただただ震えていた。

そんな原告に姉が別室に行くように合図をした。別室に行った原告と弟に対し姉は「あんたたち、良く聞くのよ。このごろ帰国者達に何かが起きているの。ある家はお母さんだけ残して全部どこかに連れて行かれたし、また、ある家は家族全員が消えてしまったらしいのよ。財産も、全部持っていかれるそうよ。我が家もお父さんが帰ってこないから何かが起こったと思ったの。お母さんも誰かに聞いたみたいね。私たちも準備しておくのよ。もしトラックが来ても絶対泣かないで荷物をまとめるのよ。分かった。」と言った。目の前が真っ暗になり、話す気力もなくなってしまった。原告らはまんじりともしないで夜を明かした。

同年8月30日夜11時30分、だれかがドアをたたき「父を連れてきた」と言った。母がドアを開けると背の高い痩せた男の人が何か風呂敷包みを持って立っており、その後ろに首をがっくりと垂らした人が見えた。手前にいた男が「この間ご苦労様でした。お家でゆっくりくつろぐ様にして下さい。そして、これは生活用品です。」こういいながら、体が良くなったらすぐに報告するようにと念を押して帰って行った。

残された人は養父であった。あまりにも凄惨な姿だった。白髪の老人になってしまい、痩せこけた養父の姿には、昔の力強さは跡形もなかった。身に着けているものも肌着のみであり、しかもそれはしらみと蚤だらけであり、家に入る前に着替えなければならなかった。再会の喜びに浸る間も無く、やっと解放され家に帰れた安心感からか養父は倒れてしまい、原告らは養父がこのまま逝ってしまうのではないかとひどく怯えた。

 

10.養父の体調が回復してきた頃、原告は他に誰もいない時に養父に何があったのか訊ねた。養父は原告に誰にもしゃべらないと約束させていくつか話してくれた。以下はその時の内容である。

帰国事業は北朝鮮の政治的、経済的目的で行なわれた。当局者たちは帰国者の運命など、最初から眼中になかった。そして、今は自分達の偽善的な行為の目撃者、体験者となった帰国者があやうくなった。だから、大々的な帰国者狩りに乗り出したと言うわけだった。

「自分達の野心の為なら、人の命など虫けらほどにも思わないのが北の為政者達だ。わしは今度全面否定して奇跡的に釈放されたけれど、多くの人がひどい拷問に耐えられなくて、やってもいないことをやったと認めてしまった。この半年の間、わしは、いままで想像したこともない一生忘れられない体験をした。帰国者たちは、北朝鮮為政者たちの釣の餌に過ぎなかった。」続けて養父は「日本にいる子供たちはわしより賢明だった。これからも総連の誘いに乗らず、自分なりに生きていくことを望むだけだ。わしはもう日本の子供たちに何も要求しないことにした。お前たちも理解してくれるだろうと思っている」と言った。

養父が拘束された理由は朝鮮労働党の入党を拒否した為であった。入党を拒否したことでスパイではないかという疑いを掛けられ拷問を受けたのである。養父は帰国後体験をとおして労働党に対し騙されたという思いを抱いていたため入党を拒否したと思われる。養父は原告らの入党にも反対していた。

その後父は1977年まで家で療養していた。その後仕事をするか引退して家にいるかの選択を求められ、養父は元の製紙機械工場に戻ることを選択し、1980年、67歳まで働いた。その後は羊を飼い、その毛や肉を売ることで生活していた。養父は一人でいるとき、被告に騙されて大勢の人を北朝鮮に帰国させたことを自分の罪として羊に語っているようなことがあった。養父はそのことを考え続けて晩年を過ごしていた。

 

11.1970年代には、養父の例以外にも帰国者一家が数多く拘束され、夜中に突然いなくなって追放されてしまうことがよく起こっていた。それはマグジャビと呼ばれていた。マグジャビとは朝鮮語で手当たり次第の拘束、つまり粛清を意味する。原告の近所では、一家の主人だけがいなくなったのが40世帯、家族みんながいなくなったのが25世帯あった。

「平壌の水槽」の著者姜哲煥もマグジャビの被害者である。姜は1977年に被告京都支部で指導的立場にあった祖父が容疑不明のまま拘束されると、家族と共に耀徳政治犯収容所に収監された。

他にも元被告新潟県本部副委員長であった張明秀著の「裏切られた楽土」にもマグジャビに関する記述がある。以下同書を要約し記す。

1988年に被告新潟県本部副委員長の康東勲が共和国の当局者からマグジャビに関して「ジナンシギヌン(すぐる時期は)、マグジャビをやったが、今は慎重にやっている」という極めて重要な証言を引き出している。「すぐる時期」とは大量の行方不明者が出ている1967年以降を指しており、80年代に入ってからも行方不明者が継続している状況は「今は慎重にやっている」という証言に符合する。

マグジャビは1967年5月に開かれた北朝鮮労働党中央委員会の第4期第15次総会において、金正日が「唯一思想体系の確立(首領金日成の絶対化及び唯一指導体制の確立(金正日主導権の確立))」を唱え、党最上層部を含む幹部の大部分を粛清し、各地の不満分子を一掃する過程で、共和国のあり方に不満を持っていた帰国者のインテリも「害毒的影響」を問われ粛清されたと考えられる。

粛清対象は、被告活動家、学者などのインテリと芸術家、商工人であった。中でも最も多かったのが被告活動家であった。被告活動家、つまりかつて在日同胞の帰国事業を推し進めたその当事者たちが特に粛清されたのである。

当初はインテリ層に吹荒れた粛清の嵐は他の帰国者にも及び、相当広範囲にわたってこの狂気の“人狩り”が行なわれた。帰国者にとっては恐怖の日々が続いた。

 

12.このようなことがありながらも、帰国者の中では、原告一家は恵まれた生活を送れたほうであった。それは原告の日本の親族が北朝鮮に国家的支援をしていた為であり、また北朝鮮にいる親族にも党幹部などが多くいた為である。

原告は1976年新義州第1師範大学に進学し、1980年大学卒業後、1980年から1982年まで新義州第2師範大学体育学部球技講座で、また1985年から1996年まで平安北道新義州市体育大学芸術体操講座(現在の平安北道体育団)で講師を務めた。

 

13.また1980年に原告は平安北道新義州市医学大学病院医師であった李ヨンホンと結婚し1982年には長女(以下「娘」とする)を1984年には長男(以下「息子」とする)を儲けた。

  李ヨンホンは1978年父母と共に帰国した在日朝鮮人である。

このように北朝鮮にいながらも原告の生活は穏やかであった。そのため当時の原告は、北朝鮮の政治・社会に染まり、いつかは金正日がアメリカを打ち倒して世界最強国になるという期待まで抱いていたほどであった。

 

14.そんな原告の考えが変化し始めたのは、新義州市体育大学芸術体操講座講師をしていた1995年5月の出来事からであった。いつもどおり平壌で行事や競技に参加していた原告は、選手選抜の為にしばらくのあいだ故郷に戻っていた。そんなある日、大学からの緊急連絡を受け、飢え死にした人達の死体の処理を35日間に亘って行なった。北朝鮮当局は事実が外に漏れないように厳格な統制を布き、動員された人達は党と保衛部、安全部の幹部たちの前で「この作業に動員されたことについては絶対に秘密を守ることを誓います」という内容の誓約書に署名・拇印をさせられた。作業は核心学生と力の強い学生を選んで4班に別れて行なわれた。昼のうちにあちこちの死体を駅前旅館のある部屋に運んでおいて、夜になるとその死体を教育部管理下の教習林に埋めた。

死体には身元を証明できるものが何一つなかった為、初めのうちはどこの誰か分からなかったが、住民調査によってこの地の人ではなく、飢餓がより酷かった北方の人達だと言うことが判明した。

同年6月に入り死体が少しずつ減ってきたがそれは北方の人達が中部地方に行けば餓死は免れるだろうという幻想から抜け出し、北方の地に留まったからである。そのためそれ以後北方での深刻な飢餓現象が始まった。

この体験を通じて平壌と地方、そして人と人との格差について原告は考えるようになった。何故北方の人々は平安北道にまで来て飢え死にしなければならなかったのか、何かが間違っているそんな思いを原告は抱いたのである。しかしこの時点では脱北をしようとまでは思っていなかった。

 

15.原告は日本から援助が無い帰国者の男性に同情してお金を貸していた。1996年、その男性が外貨稼ぎで問題を起こした為に処罰される際、北朝鮮当局は原告にまで連帯責任を負わせ、大学講師の職を解任した。しかも原告と2人の子供を山奥に追放しようとした。

この時初めて原告は金日成政権に対して反発と嫌悪の感情を抱いた。ただ同情心から金銭を貸したことが罪に問われ、何のかかわりの無い子供たちまで巻き込まれたのである。当時娘は大学入試の準備をしており、息子は国家的体操競技の候補選手に選抜され、選手団で訓練を始めたばかりであった。そのような穏やかな生活が理不尽な理由により破壊されてしまったのである。

原告は決定を撤回してもらうべく、道党や法機関に抗議をしたがだらだらと問題を引き延ばされるばかりで決定が覆る見込みはなかった。

そのため原告は党中央委員会の1号庁告訴室や、国家保衛司令部15処(民間部)にも行き、抗議した。すると道党の幹部は自分達の軽率な処理を指摘されるのが不安になったのか、道党執行委員会で原告を危険分子に仕立て上げ、早期の追放を決定した。その内容を道党の幹部として働いていた伯父を通じて知った原告は唖然とし、「こんなところでは生きていけない、もううんざりだ。」と考え、子供たちの将来を守る為に脱北の決意を固めるに至った。

 

16.原告は子供等の同意を得て脱北を決意したが、当時原告がいた地方は、地理的にも警備の面でも咸鏡北道や両江道より国境を超えることが難しかった。また監視を受けている為、不用意に行動できない状態で、結局脱北ルートを探すことはできなかった。仕方が無く、「これ以上騒がないから問題が解決するまで新義州でそのまま住めるようにして欲しい」と道党の申訴部長に事情を訴えながら機会を窺った。そして1年半余りの準備の末、新義州から鴨緑江(アムノッカン)を越えて脱出することを計画した。

 

17.2000年11月29日原告と2人の子供は脱北計画を実行に移した。アムノッカンに辿り着いた原告らは葦原に潜み、12月1日5時30分頃凍ったアムノッカンを渡り、電気鉄条網の近くで監視している銃を担いだ軍人の目を避け、潮が引いた川を走って渡った。こうして原告らは命がけで中国丹東とトンガンの間にあるデタザというところに辿り着いたのである。

 

18.原告はデタザで遭った中国朝鮮族の人にお金を払い瀋陽まで行き、瀋陽でその人の知人の女性に出会い、その助けで宿に身を落ち着けることができた。原告はすぐに韓国領事館に亡命できるものと考えていたが、それができないことを知り、領事館行きを断念した。

原告は中国当局に捕まらないためにも中国公民証が必要と言われ、手元のお金を全部払い頼んだが、結局それは詐欺であり、原告は子供と引き離されてどこかへ売られることになった。しかし原告は売られていく途中隙を見て逃げ出すことに成功した。そこは山東省煙台市であった。

そこで朝鮮語を手がかりにさまよっていた原告は朝鮮語の書かれた食堂で大学へ行く道を尋ねた。大学にたどり着くと原告の予想通り韓国からの留学生に会うことができた。原告は彼らの世話で留学生用の食堂で働き、お金をため、2人の子供を呼び寄せることができた。

 

19.(1)2002年5月19日息子の足取りが分からなくなり、原告は娘まで失ってしまうのではないかと戦々恐々とした日々を過ごしていた。その頃、一緒に働いている朝鮮族の人から韓国あるいは日本に行けるように力になってくれる韓国人を知っているという話を聞いた。原告はその人に会わしてくれるよう繰り返し頼み、一日千秋の思いでその日を待った。

(2)そして2002年12月中旬ついにその韓国人チェ・ヨンフンに会うことができた。チェは煙台から船で脱北者達を日本と韓国へ脱出させる計画を進めていた。原告もその計画に合流して、安全な地へ脱出することを決意した。

(3)2003年1月、煙台で合流する為の連絡を待っていた原告は、中国の報道を通じて、船に乗って日本と韓国に脱出しようとした脱北者が、中国公安に逮捕されたことを知り、計画が失敗したことを知った。

同年1月20日、中国外務省は、まだ捕まっていない人も必ず逮捕して、法律に従って処理するという声明を発表した。その時原告は各国からの抗議もあることだし、中国側も100人近い人達を、想像を絶する酷い処罰が待っている北朝鮮に送り返すことは無いだろう、また中国外務省が発表したとおり捜索作戦を繰り広げたら、原告が逮捕されるばかりでなく、娘や今まで助けてくれた学生たちや朝鮮族の人達にも被害が及ぶかもしれないと考えた。

(4)そして1月21日正午に原告は中国山東省煙台市開発区公安局に出頭した。しかし原告の期待は裏切られ、中国公安員は原告を殴りながら縄で縛り留置場に監禁した。原告は公安員の話から北朝鮮へ送還されることを覚悟し、死をも意識した。公安員は煙台事件の関係者の名簿や写真を見せ、「知っているか」と尋ねられたが原告は知らないと言い通した。

 

20. 最悪の想定、北朝鮮への送還

2003年1月23日夜12時、原告や他の送還者を乗せたバス3台は公安局を出発し、煙台港へ向かった。バスの中で原告は、靴に貼り付けておいたアクセサリーや指輪、そして留置場で手に入れた箸や針金、プラスチックのかけらを飲み込んだ。原告は苦痛を訴えたが、そのまま出発したため、大連へと向かう船の中で公安員が見ている前でコートのボタンを取り出して飲み込んだ。公安員は原告が他にも何か持っているのではないかとあわてて調べ、入れ歯を飲み込むかもしれないとペンチで無理やり抜き取ったが、その時他の歯まで抜かれ血だらけとなった。原告は、病人が発生したため船を戻すという船内放送を聴きながら気を失った。

気がついたとき原告の周囲にはたくさんの人が取り囲んでいた。原告の意識が戻ったことを知った公安員がテープで原告の体をベッドに括り付けた。その後近づいてきた公安員がはさみを持っているのに気がついた原告、はありったけの力で右手のテープをちぎり、はさみを奪い取り、自らの左肩を刺した。血は傷口から噴水のように噴出し、公安員の顔にまで飛び散った。慌てた公安員が医者を呼び止血をしようとするのに対し「どうせ殺されるんだから止血は必要ない。今すぐあんた達の幹部を連れて来い。」と叫んだところまでは覚えている。

出血の為か意識を失っていた原告が体全体が揺れるような、そして何かに刺されるような衝撃を受けて目が覚め時、原告は中国丹東と北朝鮮の新義州とを結ぶ橋の上にいた。おぼろげな意識の中で新義州の税関が見えた。その後夫が死亡した病院でレントゲン検査をしたようだが意識が朦朧としており良く覚えていない。

 

21.新義州保衛部に引き渡された原告は1ヶ月ほど独房に入れられ、その後10人ほどの雑居房に移された。

看守達は毎日1時間ほど廊下で送還されてきた脱北者たちを前に「アメリカの操縦の下、韓国と日本が結託して北朝鮮の人達を誘拐拉致し、船に乗せていく途中に全員殺す。そして朝鮮人民軍の襲撃を受けて死んだと宣伝する。このような反共和国謀略作戦に巻き込まれて、お前達は将軍様の威信と名誉を甚だしく毀損した。それにもかかわらず、将軍様は広い度量でたくさんの党資金と貴重な国家資源を出して、お前たちを救って下さった。よってお前達は正直に自分の過ちを批判し、許しを請わなければならない。」と言っていた。原告はばかげたことであると思った。

最初看守達は一日一回生死の確認のために出入りする程度であったが、原告が少し回復してきたことが分かると拷問した。原告が気絶するまで蹴ったり殴ったり、ありとあらゆる暴行が加えられた。看守達は「煙台事件の一員ではないか」「外国人と連絡を取っていたのではないか」「宗教関係者と繋がりがあるのではないか」と尋問したが原告は最後まで「違う」「中国公安に聞いてみろ、私はあの人達とは何の関係も無い」と一貫して言い張った。原告は他の人達に申し訳ないと思ったが、生きる為にはやむを得ない状況であった。

 

22.2003年4月末頃、拷問と栄養失調で生ける屍となり、肛門が開き、舌が伸びた状態となった原告は安全部の病院へ移送された。そこで治療を受け少し動けるようになった同年5月20日、原告はひとまず釈放された。

釈放されしばらくたったある日、原告を拷問していた保衛部指導員が区域担当保衛指導員と共に訪ねてきた。彼らは、「お前はすごい悪質分子だ」と皮肉りながら、「もう釈放されたんだから本当のことを言ってもいいじゃないか」としつこく迫った。「本当に煙台事件の脱北者達とは何の関係もなかったのか、もう正直に話してもいいじゃないか」などと、にやにや笑いながら丸め込もうとする彼らに、原告は「本当に何の関係も無い。中国で噂は聞いたけど、何のことだか未だにさっぱり解らない」と答えた。すると保衛指導員たちは殺気を帯びた嘲笑を浮かべ、「奴等は永遠に戻れないところへ送った。そうなりたくなかったらお前も気をつけるんだぞ。」と脅して帰って行った。

煙台事件で捕まって送還された人達は皆政治犯収容所に送られ、結局殺されるだろうという話を聞きながら、原告は改めて留置場で看守たちが宣伝していたのは真っ赤な嘘で、将軍様は救う為ではなく殺す為に中国に沢山のお金と物資を納めて、脱北者たちを連れてきたのだということを確信した。恨み骨髄に達する思いで、原告は死んでも北朝鮮から脱出しようと決意した。

 

23.原告の息子は2002年に北京で拘束され、同年6月北朝鮮に送還され、保衛部、安全部、労働鍛錬隊と移されていた。原告が釈放された少し後、2003年6月10日頃に労働鍛錬隊を釈放され、安全部に送られた。その日に安全部から呼び出された原告は息子との再会を果した。健康であった息子は体重が40キロに及ばないぐらい痩せこけ、誰かの肩を借りなければ歩けない状態であった。

再会の翌日原告は息子と共に、安全員に護送され追放区域である平安北道塩州(ヨンジュグン)トボン里に追放された。

 

24.北朝鮮では2003年8月3日に選挙があり、それまで原告には監視がついていた。選挙が終わった翌日、原告はいくつかの問題を解決するために新義州に行きたいと申出たところ幸いにも許可を貰うことができた。しかし交通証は発行されなかった為、検問所を避けて行かなければならず、遠回りをして3,4日で新義州にたどりついた。原告はそこで中国国境に近い田舎の町で中国と貿易する仕事が見つかったと偽装をして移動の書類を作成し、移動に必要なその他の書類もうまく確保した。

追放先の地で原告はいつも脱北のことだけを考えていた。息子が留置場で聞いた話によって、国境警備がそんなに厳しくない地方の見当をつけていた。原告らは計画通り誰かに尋ねられたら北部鉄道建設突撃隊員の親戚に会いに行くと答えながら、中国との国境に向かって進み、鉄道の堤防の下に隠れて国境警備員の隙を窺った。そして2003年11月末、息子と共についに凍った鴨緑江を渡って中国長白山に辿りつき再び脱北に成功した。

その後中国にいた娘と連絡を取り、再び煙台で暮らすことができたのは同年12月20日頃であった。

 

25.2004年、原告はあちこちの情報から韓国のキリスト教会に辿りつき、日本のNGOと連絡を取って支援を受け、日本に戻ってこられる方法を見つけた。2005年3月16日原告と子供たちは日本在外公館に保護され、同年7月28日ついに原告と息子が、そして11月末に娘が日本に入国を果した。

 

第5 被告の法的地位・性格

1.(1)被告の性格の一番目として、被告は前述のとおり在日同胞の権利を守る大衆団体として結成された。在日同胞の民族問題、生活と権利についての協助組織、あるいは外向けには差別撤廃のための運動体としての役割を有している。被告の綱領は八条よりなっており、「八大綱領」と云われているが、その三条は「われわれは、在日朝鮮同胞の居住、職業、財産及び言論、出版、集会、結社、信仰などすべての民主的民族権益と自由を擁護する」と規定する。

(2)従って、内向け即ち在日同胞に対し被告は構成員の「自由」の擁護を責務とする団体と位置付けられる。

    構成員の立場からみると、被告は構成員の「自由」を侵害する勢力(日本政府であれ、日本の社会勢力であれ、北朝鮮政府であれ何であれ)から擁護する責務を負担している。

(3)「民主的自由」と謳っているのであるから、上記「自由」には、人間存在の根源である帰国者たる構成員又はその家族の「生命・身体の自由」を始めとしてあらゆる基本的人権を享受する自由が、当然のことながら含まれる。具体的には被告は帰国者たる構成員又はその家族に対し、生命・身体の安全確保の責務・抑圧と隷属から人権を擁護すべき責務を負うというべきである。

2.(1)被告の性格の二番目は被告の規約六条には「本会は、祖国統一民主主義戦線に加盟する」と定めてあり、被告は結成のころより、同戦線に加盟していた。

(2)祖国統一民主主義戦線とは、1949年6月25日から28日まで平壌で開かれた会議によって結成された。1946年に南北朝鮮のそれぞれの地域に別々に組織されていた民主主義民族統一戦線を単一の組織に一本化したものである。これは1949年3月から朝鮮戦争の準備の為に各方面に手を打っていた金日成が、戦争勃発に当たってその手足に使う為に南北両地域の大衆組織を一本化したものである。戦争準備のきわめて重要な一環である。この祖国戦線の結成大会で中央役員に日本から韓徳銖ただ一人が抜擁された。

同戦線は北朝鮮において、立法機構である最高人民会議の代議員選出資格を認められている。

(3)1949年8月15日に平壌特別市・朝鮮民報社で印刷され、祖国統一民主主義戦線中央常務委員会書記局によって発行された『祖国統一民主主義戦線結成大会文献集』(朝鮮語版)によると、中央委員の99人の名簿一覧があり、韓徳銖は81番目に位置している。82番目は朝鮮民主主義人民共和国の副首相の洪命熹であり、韓徳銖はそれより一つ上位である。

(4)被告においては7名が、72年12月の選挙で代議員として当選しており、以後も7名の選出がなされている。

(5)従って、被告幹部の実力は北朝鮮政府の中でも上位にあり、発言力影響力を十分有している。

3.被告は北朝鮮政府の駐日外交代表部である。

  北朝鮮は日本と国交がなく、日本に在外公館(大使館・領事館)がない。したがって、北朝鮮は日本の政府や民間に対する正式の窓口を持たないわけであるが、その窓口を実質的に代行しているのが被告である。

また、北朝鮮の海外公民(国民のこと)である在日朝鮮人に対して、北朝鮮政府に代わって領事事務をしているのも被告である。在日朝鮮人が北朝鮮を訪問するとき、被告の許可が北朝鮮政府の入国許可となる。それに被告の中央常任委員会が北朝鮮のパスポートを発行している。もっとも、日本では未承認国のパスポートは正式の旅券として認められないので、その北朝鮮のパスポートは北朝鮮の入出国時に使用する。

このように被告の中央本部・地方本部が北朝鮮政府の大使館・領事館の役目を果しているのであるが、それはあくまでも事実上のことであって、被告の本部役員に外交官特権があるわけでもなく、本部事務所が治外法権の場であるわけでもないが、本国政府の出先であり、本国政府に対してはそれなりの影響力を有している。

4.被告は、北朝鮮の在外経済部(在外商社)である。

  極端に閉鎖的な社会主義経済構造の北朝鮮にとって、資本主義社会との経済交流のためのパイプとなり、西側の先進科学技術の導入の窓口になっているのも被告である。

また、様々な名目の献金を在日朝鮮人から吸い上げて北朝鮮に送金し、北朝鮮の経済建設に必要な資材・機械などを、身銭を切って調達している。被告は、北朝鮮政府の資本主義世界の中の『出島』である。

5.被告の実体に関しては元朝鮮総連中央本部財政局副局長の韓光熙の著書「わが朝鮮総連の罪と罰」に詳しく記されている。

  韓は命令により北朝鮮の工作船の接岸ポイントをつくったり、日本に留学している韓国人留学生に接近して工作員教育をした後韓国で工作活動させたり、在日朝鮮人から集めた金品を北朝鮮に送ったと記している。このことからも被告が北朝鮮政府の一機関であったことは間違いのない事実である。

 

第6 帰国者の地位

以下は鄭箕海の「帰国船 楽園の夢破れて三十四年」の記述を参考に述べる。

1.北朝鮮では「出身成分」分類、即ち北朝鮮全人民を(1)金日成政権に忠実な核心階層、(2)監視対象=動揺分子、(3)特別監視階層=敵対分子に分け、それを更に51に分類し〔(1)核心階層は13に、(2)監視対象は27に、(3)特別監視階層は11に細分化されており、1980年には更に(2)と(3)に13分類を追加し、成分分類は64となっている〕、動揺分子以下に分類された人々を徹底的に差別し抑圧する、独特の恐怖システムを有している。父の出身成分は子や孫にも受け継がれる。

2.そして日本からの帰還者は(2)監視対象=動揺分子に分類されており、常に監視の対象、密告の対象となっている。帰国者と同じ監視対象27種類の中には、党の除名者(任務遂行中過ちを犯し、党員資格を失った者)や、党の免職者、逮捕・投獄者家族や経済事犯などの犯罪者レベル、及び知識人(8.15以後外国に留学した者またはそれ以前に高等教育を受けた者)や労働者(今は労働者であるが8.15以前に中小企業者、商工業者、知識人であった者)などが含まれている。  

3.また帰国者にも階層分けがされていて、

@帰国者本人かその家族が被告幹部である

A日本に残る親族が被告幹部である

B海外に親族がいる

C日本で技術(工業技術など)を取得している

D日本人配偶者がいる

Eその他

と概ね分類されていた。@、Aの条件に当たる人は平壌に住まいを構える事を許されそこで就職もできる。Bの条件の人は軍に配属、Cの条件の人は工場へ配属、D、Eの条件の人は農村へ送られると決まっていた。

つまり、被告の基本組織服務者のみが同じ帰国者でも監視対象から外され、特権を得たのである。

戦慄すべきこの出身成分分類こそ、兵営国家、監獄国家と云われる恐怖統治を端的に示している。

 

第7 請求の根拠

1.請求の原因その一(不法行為)

(1)北朝鮮政府の誘拐行為

本件帰国事業において、北朝鮮政府は在日朝鮮人を「労働者」「金ずる」「人質」として利用するために、不実の宣伝と誇大広告で騙して北朝鮮に連れて行ったのであり、このような北朝鮮政府の行為は誘拐に該当する悪質な違法行為である。

よって北朝鮮政府が被告と共謀して本件帰国事業を企画推進したものであり、北朝鮮政府は共謀共同正犯の首謀者として民法719条の責任がある。

(2)被告の実行行為

被告は北朝鮮政府の指示命令に従い、上記北朝鮮の誘拐とも云うべき在日朝鮮人帰国事業計画を積極的に実行し、北朝鮮が被告が宣伝したような「地上の楽園」ではないと知りながら、正反対の虚偽の事実を宣伝するなどして、帰国者を地獄のような環境に送り込む誘拐行為を実行正犯として実行したものである。

(3)被告の責任

よって被告は民法709条の不法行為責任を負う。

 

2.(請求の原因その一が認容されない場合)

請求の原因その二(帰国契約又は参画契約の債務不履行)

一 原告(以下各契約における原告の決定は原告の母が原告の法定代理人として下したものであるが原告と記載する)と被告との法律関係 

(1)帰国契約

@被告は日本国内において北朝鮮政府の指示の下、北朝鮮への帰国運動を発案提起し、全国の在日朝鮮人に対する帰国運動を企画宣伝推進し、帰国希望者を登録し、在日朝鮮人に帰国の為の学習を行なうなど、北朝鮮への帰国事業を行なった当事者である。

被告は本書面第五被告の法的地位・性格に記載したとおり、被告幹部の北朝鮮での地位は高く、北朝鮮の在日朝鮮人に対する領事事務を行い、在日朝鮮人の人権を擁護するなど、組織力、実行力、権限は強く、北朝鮮についての正確な情報を即時に調査報告できる力量及び北朝鮮政府に対し帰国者の窮状を訴え改善する力量を備えているものである。

A原告と被告との間には1963年上半期頃「帰国契約」と言うべき契約関係(その法的性質は準委任契約)が成立した。被告は北朝鮮への帰還事業を実質的に取り仕切っており、宣伝をして帰国希望者を募り、直接勧誘して帰国の意思決定をさせた当事者であるから、帰国契約の内容(債務)は、被告は帰国希望者に対し北朝鮮の生活実態についてその政治的・経済的・社会的な環境全てを帰国希望者らに正確に説明することであり、更に被告が帰国希望者等に保証した帰国後生命・身体を脅かされる不安がなく、抑圧や隷属もなく生活することができるように擁護することである。

(2)被告組織への参画契約

@被告は在日朝鮮人をその構成員(会員)とし組織を形成しているものであり、構成員と被告との間には参画契約と言うべき契約関係が成立している。

帰国直前に原告の養父となった金コングゥンは被告の構成員である。構成員は被告の決定に従い被告の目的遂行の為に協力する義務を負い、被告は被告綱領三条に基づき、被告構成員及びその家族について、「居住、職業、財産及び言論、出版、集会、結社、信仰などすべての民主的民族権益と自由を擁護する」義務がある。これら義務は参画契約上の債務である。そして上記被告の義務は「自由」を侵害する勢力全てに対し被告が負う義務(債務)であり、北朝鮮政府であろうと例外ではない。

A被告はピーク時より激減していた帰国者数を確保するため、特に被告構成員及びその家族等に対しては参画契約上の被告の地位を利用して構成員に強い圧力をかけることで帰国せざるを得ない状況を作り上げ、構成員及びその子弟らを積極的に帰国させた。原告の養父もまた被告らの説得により帰国を決めたものである。

 

二 帰国契約又は参画契約における被告の説明・保護(人権擁護)の各義務違反

1.はじめに

(1)被告は日本国内における北朝鮮への帰国運動の発起者であり、全国の在日朝鮮人に対し北朝鮮が「地上の楽園」であることを宣伝して帰国を勧誘し、希望者を募り、帰国希望者を帰国に向けて教育したものであり、日本国内における帰国事業について強大な主導権をもって企画推進しこれを実行してきたことは明白である。

   被告は在日朝鮮人にとって未知なる国である北朝鮮を紹介し、帰国を強引に、あるいは積極的に勧誘した。帰国希望者は単身、あるいは家族と共に日本における生活の全てを捨てて移住するものであるから(日本における財産、特に現金は協定により持ち出しが制限されていた)、帰国勧誘に当っては社会主義国家である北朝鮮の政治体制、社会体制、経済体制、教育体制等生活に直接関わりのある全ての事案に対し、正確かつ最新の情報を提供しなければならない義務があり、これが出来るのは日本国内においてまさに被告だけであった。よって、被告には本債務として原告に対し北朝鮮の正確な情報を原告に説明する義務、及び帰国後の原告の生活に対しこれを保護する各義務があったものであり、日本における全ての生活を捨てて帰国するという重大事を決意させる情報提供責任者である被告の責任は重い。

(2)仮にしからずといえども、被告には帰国契約締結における信義則上の義務として、北朝鮮の正確な情報を正しく説明する義務、及び帰国した原告の基本的人権を擁護する保護義務があったものである。

(3)仮に然らずとするも、被告は被告組織への参画契約上の義務として、被告構成員及びその家族等に対し基本的人権の擁護義務があったものであり、帰国させる構成員ないしその家族に対し北朝鮮の実態に対する説明義務及び帰国した原告を擁護する義務があったものである。

2.北朝鮮における帰国者及び一般労働者(人民)の実態についての説明義務違反

(1)説明義務違反

前述のとおり被告は、帰国希望者を募り、帰国希望者に帰国契約を締結させるに当たり、帰国希望者に対し北朝鮮のありのままの正確な情報と、帰国後の生活について説明する義務を負っていた。即ち、一般労働者は奴隷的労働力として人権及び自由を著しく制限されている事実、党の命令に従って働くだけの生活を強制されている事実を正確に説明しなければならなかったものである。

  しかし被告は一人でも多くの在日朝鮮人を帰国させるために、北朝鮮の正確な情報及び帰国者の実状を知っていながら故意に秘匿したものであり、説明義務違反は明らかである。仮に被告に故意がなかったとしても、日本において北朝鮮に関わる情報を正確に得ることが出来るのは被告しかなく、帰国者の生命・自由すら脅かされる実態を説明せず帰国者を帰国させたことは、被告の重大な善管注意義務違反である。

(2)不実の告知

また、被告が在日朝鮮人に与えた北朝鮮の情報は著しく偏り、実際に帰国した者にとっては虚偽と言える情報ばかりであった。例えば一般の帰国者は絶対に居住できない平壌市内の近代的アパートや家屋の写真を提示して、あたかも北朝鮮国内全てが近代化され、帰国者が快適な住居にみな居住できるかのように欺罔し、しかもごく一部の労働党員が特権として与えられた生活水準をして、あたかも帰国者らに与えられる生活水準であるかのごとく欺罔するものであった。被告が日本において原告ら帰国希望者に与えた情報は、北朝鮮のごく一部の特権階級にとっては真実の情報と言えるかもしれないが、帰国者が強制される一般労働者及び農民らの生活とは全く関わりのないものであり、北朝鮮における帰国者の真の生活情報は皆無であった。

被告は北朝鮮における生活を「地上の楽園」と称し、在日朝鮮人らにこれを誤認させたものであり、これは不実の告知である。

(3)帰国者の地位及び立場についての重要事項の不告知

更に、帰国者が北朝鮮においては監視対象=動揺分子として密告の対象とされていること、少しでも体制に不満を持ったり日本での生活を口にしたと密告されれば、突然内務署員に拉致され消息を絶たれ、「管理所」と呼ばれる政治的懲罰労働集落からなる強制収容所や、「教化所」と言われる監獄内で労働させる施設において監禁・拷問、果ては処刑されてしまうような厳しい監視と迫害の下に置かれるという重大な事実を、被告は帰国希望者に対し一切告知していない。北朝鮮には出身成分で人間を区別する制度が厳然として存在している事実、北朝鮮において唯一人間らしい生活を営むことのできる特権階級たる労働党員に帰国者はなれない事実(但し、87年以降の門戸開放政策により、党が認めた帰国者にのみ党員への道が開かれた。しかし、監視対象であることに変わりはない)、帰国者が監視対象として位置づけられ、それが何を意味し、どのようなものであるかを知らせることは、帰国者が北朝鮮で生存していくための最も重要な点であり、まさに生死の問題であるが、被告は一切これを告知していない。被告は在日朝鮮人をして北朝鮮の奴隷的労働力とするため、あるいは人質として日本に残る在日朝鮮人から情報と資産を搾取する為の帰国事業でありながらこれを隠して帰国希望者を募った。重大な重要事項の不告知である。

3.帰国者に対する保護義務違反

また、北朝鮮へ帰国した帰国者の基本的人権の侵害、果ては生存権の侵害に至るあらゆる権利侵害に対し、被告は被告綱領3項による帰国者の権利を擁護する義務があり、これを行使する力量を備えているにもかかわらず被告はこれを怠り、帰国者を恐怖と危険にさらし続けたものであり、被告には帰国者に対する重大な保護義務違反がある。

  北朝鮮では人民の基本的人権はもとよりあらゆる権利・自由が侵害されている。思想、表現、学問の自由、居住、移転、職業選択の自由、更に外国移住・国籍離脱の自由などは全くない。それどころか、婚姻や国内移動の自由も著しく制限され、労働者はひたすら命令された職場で働きその日の食料を得る(その日を生きる)ことのみ全精力を注がねばならない生活である。「地上の楽園」は「生き地獄」であり、囚人や奴隷と何ら変わりない生活状況である。帰国者はこの地獄から抜け出る術はなく、原告のように奇跡的に脱出し日本へ戻ることができた者は、9万人を超える帰国者の中で約100人(2005年12月末現在)とほんの一握り程度である。そして、この僅かな人々による証言で、北朝鮮における帰国者及び一般人民の実態がようやく明らかとなっているのであるが、被告は当然に北朝鮮国内における実態及び状況を即時に把握でき、北朝鮮における帰国者の悲惨な迫害生活を熟知していたものであるが、これを黙殺し、帰国者らの権利を擁護する義務を怠ったものである。

 

三 被告の原告に対する債務不履行責任

1.帰国契約上又は参画契約上の被告の債務としての原告に対する説明義務違反

  帰国後養父が騙されたと話していたことからも、帰国に際して正確な情報提供は為されなかったことは想像に難くない。被告構成員であった養父ですら真実は告げられず、錯誤に基づく帰国の意思決定をした。被告は契約の主たる債務として原告の親権者母に対し説明義務及び重要事項を告知する義務があったにもかかわらず、これを怠ったものである。

2.帰国契約上又は参画契約上の被告の債務としての原告に対する保護義務違反

  北朝鮮帰国後の原告の生活については、原告が受けた様々な抑圧や権利の侵害、例えば兄や養父が抑留されたことにより恐怖の日々を過ごしたことや帰国者という理由で差別を受けたこと等に対し、被告は参画契約に基づき、被告綱領三条により原告の権利(自由)を擁護する義務があった。しかし被告は政治的にも経済的にも本国政府に働きかけて帰国者の人権擁護を遂行するだけの十分な力量を有していたにもかかわらず、何の働きかけもしないまま推移した。

また、原告と被告との契約関係(帰国契約)に基づき、帰国前に被告が原告側に約束した、人間らしく扱われ差別されない生活を送るという約束の実現に助力すべき保護義務があるが、被告はこれを一切行なっておらず、原告に対する保護義務違反は明白である。

3.信義則上の説明義務・保護義務違反

帰国の勧誘を受けた当時、原告の母は夫を亡くした直後であり将来への不安を抱いていた。被告幹部はそこに付け込んで原告らに帰国を決意させたのである。

また、原告家族が帰国した1963年10月は、既に帰国ブームが下火となっており、被告は帰国者数を揃えるためなりふりかまわず奔走していたものであり、実体のない北朝鮮の「地上の楽園」での暮らしを吹聴することで原告家族を帰国へと駆り立てたのである。

被告は原告家族が北朝鮮に帰国さえすればよかったのであり、原告の親権者母に帰国を決意させるべく(被告との帰国契約を結ばせるべく)被告は原告の母に対し、帰国後の原告や家族の生活、果ては生死に関わる真の情報を与えることなく、北朝鮮に行けば心配なく生活できると誤信させ、原告の母に帰国を決意させたものであり、これは前記2項に記載の説明義務を懈怠したものであり、不実の告知であり重要事項の不告知である。原告の母は北朝鮮の実情を伝えられていれば絶対に帰国を決意しなかったのであり、被告が説明義務を尽くしていれば、原告の母は被告との帰国契約を締結することはなかった。よってこれら被告の説明義務違反は信義則上の義務に違反するものである。また、被告には同じく信義則上の義務として原告の保護義務も存する。しかも生死に関わる問題であり、人の一生の問題を決定付けるような重要な事項の説明義務違反並びに保護義務違反は損害賠償の原因となり得る。

4.以上のとおり、被告には原告との「帰国契約」締結における債務として、又は「参画契約」上の債務として原告の帰国に対し未知なる国・北朝鮮における帰国後の原告の生活にかかわる社会体制及び政治経済体制等、原告が北朝鮮で生きる為に必要な全ての正確な情報の説明義務を有していたが、これを懈怠した。

更に、被告には原告との「帰国契約」又は養父との「参画契約」の本債務として、原告が人間として生活するに最低限の人権擁護を行う保護義務があったものであるが、被告はこれを懈怠した。

よって、原告と被告間の「帰国契約」又は「参画契約」について、被告には上記の通り契約上の本債務たる説明・保護の各義務があったが、被告はこれらに違反した債務不履行責任がある。

又、しからずといえども、被告の帰国者の生活実態に対する説明義務違反及び保護義務違反は人の生死に関わる問題であり、重大な信義則違反の債務不履行責任がある。

 

(請求の原因その一、その二共通)

四 原告の損害

1.原告の受けた精神的苦痛

原告の親権者母は被告の不法行為、説明義務違反ないし重要事項の不告知等の各行為により、北朝鮮へ行けば心配なく暮らせると誤信し、原告を連れて帰国した。

当時原告は実父が死亡した直後であり、母は今後の生活の不安を抱えていた。そのような時に被告構成員は北朝鮮での薔薇色の生活を謳い、母を帰国へと駆り立てたのである。しかしそれは地獄へと導く悪魔の囁きに他ならなかったのである。原告は母がこの時の被告構成員に会うことができれば復讐すると語っていたのを覚えている。

帰国直後の兄の抑留と死、学校での帰国者であることからのいじめ、養父の抑留と凄惨な姿での帰還。それらがまだ幼かった原告の心に深い傷を刻んだ。一時期抱いていた北朝鮮礼賛の心理状態は、幼い頃の恐怖体験により思考停止状態になってしまったことによるものである。当時の北朝鮮は子供が成長するにはあまりにも劣悪な環境であったと言わざるを得ない。

 体制に疑問を抱きながらも生きてきた原告だが、不当な嫌疑を掛けられ山奥へ追放の憂き目に遭いそうになり、子供の将来のため脱北を決意するのだが、安住の地である日本に到達するまでには長い年月を要した。

日本政府に保護されるまでに原告は、一度目の脱北の際に潜伏していた中国から北朝鮮に強制送還され、北朝鮮の国家保衛部に拘留された。そこで苛烈な拷問を受けた原告は、言葉に尽くせぬ肉体的、精神的抑圧、苦痛、損害を蒙ったのである。

2.慰謝料

原告は被告の不法行為もしくは帰国契約(仮に然らずとするも参画契約)における被告の債務不履行により、上記のとおり北朝鮮で人として当然あるべき人権を著しく侵害された。

よって、それに対する慰謝料は金1000万円を下ることはない。

3.弁護士費用

 弁護士費用として慰謝料の1割に相当する金100万円が相当である。

4.合計

 よって、原告が蒙った損害合計は1100万円である。

 

第8 遅延損害金の始期

 原告における遅延損害金の始期は、原告が日本から出国した1963年10月18日とする。

 

第9 結論

 よって、請求の趣旨記載の通りの判決を求める。

 

証拠方法

追って提出する。

添付書類

1.訴訟委任状     1通

2.(1)被告が権利能力なき社団であることを示す綱領と規約等(被告の機関紙朝鮮新報HPより)

                

  (2)綱領と規約の抜粋(被告が開設しているHPより)

  (3)徐萬述を総連第21回全体大会で総連中央常任委員会議長に再選した報道記事(2007年5月28日付、朝鮮新報HPより)

3.原告代理人の上申書

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