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拉致の背景

金正日の僕(しもべ)よど号ハイジャック犯とその妻たち

たとえ空理空論でも、それを実行することは出来る。赤軍派が頭の中で描いた世界同時革命を実現するため、ハイジャックという卑劣な手段を講じて北朝鮮に渡った赤軍派の9人は意気軒昂であった。田宮高麿(27歳)田中義三(22歳)柴田泰弘(16歳)小西隆弘(25歳)吉田金太郎(20歳)若林盛亮(23歳)岡本武(24歳)赤城志郎(23歳)安部公博(22歳)の9人である。彼らはよど号のパイロットや山村代議士とピョンヤンで別れた数日後、滞在していたホテルからピョンヤン郊外に移動させられた。

 そこは農村地帯を見下ろす小高い丘の上で、柵があり、入り口には警備の兵が立っていた。建物はコンクリート作りの平屋が二棟、松林がそれを取り囲み、林の向こうには大同江という川が見える。労働党の招待所である。

 部屋はいくつにも分かれていて、ベッド、机なども備えられている。もう一棟には食堂や集会室、映写室などの設備があり、広間には豪華なシャンデリアが下がっていた。北朝鮮がハイジャッカーたちに与えた宮殿である。

 新居に落ち着いた田宮たちは、これからの行動指針として三つのことを決めた。

 一、生きるも死ぬもともに。
 一、過渡期世界論を防衛し発展させよう。
 一、ハイジャックの完全勝利へ、立派に準備して日本へ!

 三つのスローガンを確認しあったあと、田宮たちは朝鮮労働党に要求すべきことを決めた

 一、今年中に日本に帰れるよう条件を整えてもらうこと。
 一、経済学と哲学、抗日武装闘争の経験を講義してもらうこと。
 一、見学をさせてもらうこと。
 一、日本の新聞・雑誌を読めるようにしてもらうこと。ラジオを都合してもらうこと。

 軍事訓練については「研究してみよう」という答えだった。帰国については「無茶なことをしてきたので簡単なことではないでしょう。出来るだけのことはしますから、よく研究し、提案してください」と言われた。

 講義は直ぐに始まった。社会科学院から派遣されてきた教授たちによるもので、テキストは金日成の論文、北朝鮮の指導的な唯一政治思想である主体(チュチェ)思想の理論学習であった。田宮たちが学びたかったのはマルクス・レーニン主義である。教授たちは言った。

 「チュチェ思想は現代のマルクス・レーニン主義です。革命をやっていくときに主体をたて、自主的立場、創造的立場を堅持するというものです。チュチェ思想を学ぶということは,止揚され発展したマルクス・レーニン主義を学ぶことと同じです。ほかのものはいりません。チュチェ思想は世界の労働者階級がはじめて持ち得た唯一の今日的な指導思想体系なのです」

 日本から渡ってきたばかりのハイジャッカーたちには到底受け入れられるものではなかった。居眠りをしたり、教授と衝突したりもした。

 ハイジャッカーたちにとってはもう一つ、しなければならないことがあった。それは軍事訓練である。体を鍛えるため、早朝に「蜂起貫徹、戦争勝利」という赤軍派のスローガンを叫びながら、ランニングを始めたが、これには労働党からクレームがついた。

 「あの叫び声は農村にも聞こえるのです。スローガンを叫ぶのは止めた方がいいのではないですか」
 「聞こえたらなんであかんのですか」
 「日本人がここで何かやっている、などと周囲に漏れたらあなたたちも困るでしょう」
 「……」

 見事な殺し文句だった。 

 「いいでしょう。われわれにとっても、あまりそうしたことは外部に漏れないほうがいいですから……」

 腑に落ちないながらも彼らはその意見を受け入れた。

 禁止・強制ではなく、あくまでも自主的(主体的)に決めたと思わせる、領導思想の術中にはまったのである。彼らは早朝のデモ行進をあきらめ、主観的に「軍事訓練の要求が受け入れられるのではないか」と解釈したのである。

 テロリストたちがチュチェ思想に傾倒していくきっかけになったのは、一宿一飯の恩義からである。つまりヤクザ並みなのだ。

 身の回りのものを何一つとしてもってこなかったのだが、生活に必要なものはすべて支給された。寝具から衣服、下着、タオル、歯ブラシにいたるまでであある。食事も豪華なもので、調理も専属の料理人と接待員がついた。背広は一人一人、寸法を測って作ってくれた。彼らは次第に労働党に義理を感じるようになってくる。そして一つの言葉を発明する。「革命的義理」である。義理の対象は朝鮮労働党と「暖かい配慮」をしてくれた金日成である。

 思想教育は日課である。テーマは「チュチェ思想とは何か」「体得するためにはどのようなことが必要か」。昼食をはさんでこうした日課が延々と繰り返される。討論の時間で教授や指導員たちが求めている答えはひとつだけ。それ以外の答え方をした者にはふたたび同じ学習が繰り返される。指導員たちは決して正しい答え方を強制しない。何度でも同じ学習をして、自分が求めている答えは他にないことを知らせる。

 やがてハイジャッカーたちはそれに気付いた。際限のない反復学習から逃れるためには本心からでなくとも指導員が求めている答え方を探すことである。指導員の方も生徒たちの答えが本心からでなくともよかった。そうした積み重ねが大事だったからである。

 自ら「主体的」に答えを求めていくというこの方法は、強制されたという意識をもたらさない。そのかわり、一度自分が答えた結果の上に、次から次へと最初の答えに矛盾なく論理を積み重ねていかねばならない。途中で疑問を持つことは、それまでの自己を否定することになる。何故なら、そこにどのような矛盾があろうとも、それは「主体的」に答えたものであるからである。逃れようのない無限の循環がはじまったのである。この無限循環の罠から逃れる術はたった一つ。チュチェ思想を真理として信じることである。

 それから2年後の正月、ハイジャッカーたちは金日成に手紙を書くことを許された。それはチュチェ思想を体得したと認められたからである。


 敬愛するキム・イルソン首相同志、1972年を迎えるにあたり、一昨年「よど号」でチョソン民主主義共和国にやってきたわれわれ9人は、新年の御挨拶を申し上げたいと思います。この二年間、お手紙ひとつ差し上げることができず、申し訳ありませんでした。
 初めてお手紙を差し上げるにあたり、なによりも先にわれわれに対してめぐらしてくださった思いもよらない暖かい御配慮に対して、深い感謝の意を表したいと思います。
 (途中略)
 われわれは今、ようやく自らの極左日和見主義、無政府主義を総括し、主体思想を基礎として、日本革命勝利へ向け闘いを開始しつつある段階にあります。なににもまして、日本人民のため、日本革命のために、いつでも生命を投げ出しうる革命家へと自らを打ち鍛えていくため、首相同志とチョソン労働党の闘いを最高の手本として、自己を徹底的に革命化することから始めなければなりません。この闘いは権力との闘いはなくとも、決して容易なものではないと思います。しかしながら、首相同志の限りなく寛大で革命的な御指導と、われわれ9人の日本革命に対する情熱がある限り、必ず勝利することを確信しています。この二年間にわたる首相同志のプロレタリア国際主義に対する厚い御配慮にいま一度深く感謝し、どんな困難も乗り越えて、この闘いを最後まで貫徹することを誓いたいと思います。
 最後に今年還暦を迎えられる首相同志が、チョソンの祖国統一と社会主義、共産主義建設、そして、国際共産主義運動の御事業で、さらに一層大きな成果を得られんことをお祈りし、また首相同志の万年長寿をお祈りして筆を置きます。
チョソン民主主義人民共和国で日本革命のため訓練を受けている日本革命家一同
一九七一年一二月三一日

 ハイジャッカーたちは自己解体を経て、異型の思想チュチェ思想で武装した金日成主義者へと見事に変貌していたのである。

 チュチェ思想がどのように異型なのか、1974年に発表された「党の唯一思想体系確立の十大原則」を読んでみると、その異型ぶりがよく分かる。

1、偉大な首領金日成同志の革命思想で、全社会を一色化するために命を捧げて闘争しなければならない。

2、偉大な首領金日成同志を忠誠をもって仰ぎ奉らなければならない。

3、偉大な首領金日成同志の権威を絶対化しなければならない。

4、偉大な首領金日成同志の革命思想を信念とし、首領の教示を信条としなければならない。

5、偉大な首領金日成同志の教示を執り行うについて無条件性の原則を徹底して守らなければならない。

6、偉大な首領金日成同志を中心とする全党の思想的統一と革命的団結を強化しなければならない。

7、偉大な首領金日成同志に学び、共産主義的風貌と革命的事業の方法、人民的事業の作風を所有しなければならない。

8、偉大な首領金日成同志から授けられた政治的生命を大切にし、首領の大きな政治的信任と配慮に高い政治的自覚と技術により忠誠をもって報いなければならない。

9、偉大な首領金日成同志の唯一の領導のもと、全党、全国、全軍が変わることなく活動する強固な組織規律を確立しなければならない。

10、偉大な首領金日成同志が切り拓かれた革命事業を代を継いで最後まで継承し、完成させなければならない。

 偉大なる首領金日成の命令を理解し自主的に行動することがチュチェ(主体)思想の真髄なのである。この綱領といってもいい文書は、あまり表立って喧伝されたことや、論議されたことはなく、チュチェ思想の信奉者の間のみで、忠誠の書として諳んじられてきた。

 金正日は革命の血を告ぐ後継者であり、現在は金正日への忠誠がチュチェ思想の柱となっている。(続く)

 参考文献
 河出書房新社 久能靖著 「よど号」事件122時間の真実
 草思社 島田滋敏著 「よど号」事件三十年目の真実モ対策本部事務局長の回想モ
 文芸春秋 八尾恵著 「謝罪します」
 新潮社 高沢皓司著 「宿命」

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よど号事件

女はドアを開ると、初対面の挨拶もそこそこに、老夫婦の前に土下座した。

 「どうもすみませんでした。私が有本恵子さんを誘拐しました。本当にご迷惑をおかけしまた。本当に申し訳ございません」

 幾筋もの涙が頬を伝わっている。謝ってすむようなことではない。だが謝る以外に方法は無かった。どんなに責められても仕方ない、それで気が済むなら、殴られもしよう、蹴られもしようと思っていた。

 夫人がひざを落として、女を抱き起こそうとした。

 「もういいです。本当に顔をあげてくださいね。ようわかっていますからいいよ」
 「今までずっと黙っていて、すみませんでした」

 女は顔を上げることが出来ず、なおも泣きじゃくっている。

 夫人は「よう言ってくださいました。本当にね」と言いながら、椅子を勧め、眼鏡を外して涙を拭った。老人はそれまで何も言わずに女を見ていたが、

 「よう大きな決心をしてくださいました。わたしなりに感謝しています」

 と、一言言った。思いもかけぬ優しい心に触れ、女は今さらながらに、犯した罪の大きさを思い知った。

 老夫婦の名は有本明弘さんに嘉代子さん。拉致被害者有本恵子さんのご両親。二人の額に刻まれた皺の一本一本が、恵子さんが拉致されてからの17年の労苦を無言で物語っている。女の名は八尾恵(やおめぐみ)、よど号事件の犯人グループの一人柴田泰弘(事件当時16歳・最年少)の妻である。

 拉致事件は金正日が己の帝国を維持するためには、日本人が必要と考えたことから発生した事件だが、その目的は三つに分けられる。

1.工作員の日本人化教育(金賢姫の教育係りの田口八重子さん、地村保志・富貴恵夫妻、蓮池薫・祐木子夫妻)
2.工作員の日本人なりすましのための戸籍取得や偽造(久米裕さん、原敕晁(ただあき)さん)
3.金日成思想(主体思想)による日本革命のための日本人部隊の結成と子作り(有本恵子さん、松木薫さん、石岡亨さん)

 1と2が工作員や総連の仕業だったのに対して、3は日本人による日本人拉致で、その舞台となったのは、日本や北朝鮮から、はるか離れたヨーロッパであった。

 金正日という極めて特異な性格をした独裁者さえいなければ、拉致事件そのものが起きなかったのだが、よど号事件がなければ、少なくとも、有本恵子さん、松木薫さん、石岡亨さんの3人は拉致されなかったのである。

 赤軍派による我が国最初のハイジャックよど号事件は今から33年前の1970年3月末日に起きた。当時、オギャアと生まれた赤ちゃんが既に32歳、よど号事件も歴史の彼方にあり、ご存知の方も記憶が薄らいでいることであろう。また離合集散を繰り返してきた極左暴力集団についての知識など、大方の人は持ち合わせていないと思う。だが拉致の背景を語ろうとするならば、この極左暴力集団について触れないわけにはいかない。赤軍派とは、東大闘争や日大闘争などの全共闘運動の敗北に続き、鉄パイプと火炎ビンによる武闘も破産した結果、1969年に共産主義者同盟(略称ブント)から分裂して誕生した武装蜂起による社会転覆を目指すことを目的としたテロリスト集団である。塩見孝也が議長で、軍事部長は、後によど号事件を起こし、平壌に飛ぶ田宮高麿である。彼等暴力集団は大阪戦争、東京戦争などと名づけて、大阪で警察署や派出所を襲い、ピストルを奪い、奪った武器を使って政府高官を殺害し、首相官邸などを襲い大衆を巻き込んだ暴動を展開するという、まともな思考の持ち主にはとうてい受け入れることの出来ない暴動計画を考えるが、大阪では交番に火炎ビンを投げ込むのが精々であった。それでも、火炎ビンで東京の本富士署を焼き討ちし、署長室を炎上させている。だが、田宮高麿ら赤軍政治局は、「ブルジョワジーとその番兵を皆殺しにする戦いではなかった」と総括し、「今後は、せん滅戦が必要である」として爆弾闘争にとりかかり、20メートル四方に殺傷力を持つ鉄パイプ爆弾の開発に成功すると、100人の暴徒による首相官邸と警視庁の襲撃を決定し、首相官邸を占拠した後、人民政府の成立を全世界に宣言すると大真面目に考えていた。しかし襲撃の軍事訓練のために大菩薩峠に結集した赤軍中枢部隊53人が、逆に凶器準備集合罪で一網打尽にされてしまい、しばらく後には議長の塩見孝也も逮捕され、最盛期には400人ほどいた組織も壊滅状態となる。逮捕された塩見孝也の手帳に<H・J>の文字があったが、公安警察はそれが「ハイジャック計画」を意味するとまでは読みとれなかった。

 1970年3月31日、羽田7時10分発福岡行きJAL351便「よど号」は定刻から遅れること10分、乗客131名を乗せてA滑走路を離陸し、順調に高度を上げ、房総半島で、旋回すると、機体右手に雪を被った富士山の姿が見えてきた。
 その時である。前方に座っていた数人の男が立ち上がると、操縦室のほうに走って行き、ドアを開けながら怒鳴った。

 「手をあげろ!」
 「進路を変えて北朝鮮のピョンヤンに行け!」

 ピルと日本刀が石田真二機長と江崎悌一副操縦士に突きつけられた。

 大菩薩峠の大量逮捕で、機能を失いかけていた赤軍派は、一国内での闘争には限界があり、労働者国家(キューバ)を根拠地として、そこで軍事訓練を行い、革命軍を各国に送って、武装蜂起を計り、世界共産主義革命を実現するという荒唐無稽な「国際根拠地論」を提唱する。

 塩見孝也を筆頭とする中央委員会はハイジャックなどの手段を含むキューバ行きの方法について、調査することにし、これを「フェニックス作戦」と名づけた。結局、船でキューバに行くのは難しいので、航空機をハイジャックし、北朝鮮を経由して、キューバに行くという案が浮上し、長征軍と名づけた部隊を編成したが、肝心要の塩見が逮捕されてしまった。だが、塩見無き後のリーダーとなった田宮は既定どおり、ハイジャックを決行すると主張し、この日、実行に及んだのである。

 参加したのは、 田宮高麿(27歳)田中義三(22歳)柴田泰弘(16歳)小西隆弘(25歳)吉田金太郎(20歳)若林盛亮(23歳)岡本武(24歳)赤城志郎(23歳)安部公博(22歳)の9人であった。

 乗っ取られたよど号は福岡の板付空港に燃料補給のため着陸し、そこで、老人、女性、子供23人だけを解放したが、夥しい数の警察官やマスコミを尻目に、5時間後の午後1時59分にはピョンヤンを目指して、飛び立ってしまった。

 38度線を越えたよど号はスクランブルしてきた軍用機の指示に従い高度を下げ、地上からの呼びかけ「ピョンヤンアプローチ(ピョンヤンに着陸せよ)」を信じて、空港に誘導されたが、そこはピョンヤンではなく、韓国の金浦空港であった。

 北朝鮮に着いたと思い込んだテロリストたちは欣喜雀躍し、ドアを開けて犯人の一人が地上の人間と話していたが、その顔が突然引き吊った。犯人の耳にジャズが聞こえ、目にアメリカの車が映ったのである。その時の犯人たちの怒りは凄まじく、乗客たちは恐怖のあまり身動き一つできなかった。

 韓国国防部の丁來赫(チョンヒョンヨク)国防部長官は乗客を乗せたままよど号がピョンヤンに行くのは、絶対に阻止しなければならないと考えていた。というのは、前年の12月、ハイジャックされて北朝鮮につれていかれた韓国の乗客乗員11人が機体も含めて。いまだに抑留されたままだったからである。もし、このままピョンヤンに飛んだら、乗客は残らず抑留されるであろう。二の舞は避けねばならない。韓国世論も同様で、「日航機を地獄にやるな!」と50人ほどの青年が空港に集まり、北朝鮮行き反対の気勢を上げた。乗客を降ろせと言う韓国側、絶対に下ろさないと言うテロリストたち、厳戒体制の金浦空港での交渉は膠着状態のままいたずらに時が過ぎていく。もちろん、韓国は手をこまねいていたわけではない。交渉をしながら、犯人逮捕の手立てはないかと、方策を立てていたが、人命尊重を第一とせよという朴正熙(パクチョンヒ)大統領の指示もあり、犯人の人数も、武器の数や種類も特定できないため、強行突入に踏み切ることが出来なかった。

 日本も、まず山村新次郎運輸政務次官を、続いて橋本登美三郎運輸大臣を韓国に派遣した。

 犯人との交渉はコントロールタワーを使って、ソウル警察の外事部長が主としてやっていたが、事件発生三日目の早朝、金山政英韓国大使と山村次官が交信し、乗客を降ろすよう犯人側を説得したが、「乗客を降ろしたら、軍隊が乗り込んできて俺たちを射殺するだろう。乗客を降ろしたら、どこへでも行かせるなどということを誰が信用するか」と言って取りつく島もなかった。

 午後2時過ぎ、マイクを握った丁長官は犯人たちに最後通告を告げた。

 「君たちが乗客を降ろしさえすれば、ここを離陸させる。君たちがどこへ行こうと勝手だ。乗客を全員降ろさなければ、われわれは絶対に離陸させない。これは朴大統領の最終決断である。いかなる理由によろうとも、この方針は変えない。これを受けるか否か、考えて返答せよ。また、今後は食事も水もエアコンも供給しないことにする。私が出した提案を君たちが受諾しない限り、今後私との交信は打ち切る。私はソウル市内に帰る」

 これまでと違って、命令に近い響きがあった。

 午後5時10分、今度は山村次官が呼びかけをはじめたが、突然、以外な提案をした。

 「私が人質の身代わりになることはどうですか」
 「考えられますね」
 「じゃあ、私が乗り込むから、乗客を降ろしてくれるんですね」
 「本当なら受け入れますよ」

 丁長官の強行発言に、このままではまずいことになるかもしれないと思っていた田宮たちテロリストにとっては、渡りに船だったのかもしれない。

 犯人側の要求で、 社会党の阿部助哉代議士が急遽日本から駆けつけ、山村新次郎運輸次官に間違いないと保証したので、山村次官と、乗客全員を交換し、3日には飛び立つことで合意した。

 山村次官の自己を犠牲にした行動は感動の嵐を呼びおこし、人々は敬意をこめて男山村新次郎とか、身代わり新次郎と呼んだ。

 4月3日の午後2時18分、前代未聞の人質交換の儀式が始まった。山村次官が白旗をつけたジープに乗ってよど号のタラップ横につくと、第1陣の乗客とスチュワーデス53人が滑走路に降り立った。

 午後2時59分、一時的に地上に降りる赤軍派の代表田中義三と山村次官の交換が始まった。田中がタラップを一段降りると、山村次官が一段上るという具合にして、二人が近づくのである。

 韓国の白善u^Y(ペクソンヨップ)交通部長は、

 「あなたは身代わりになるというけれど、一生返れないと思いますよ。返れるとしても、長い期間がかかるでしょう。命の保障さえないのですよ」

 と思いとどまるよう忠告したが、山村次官は

 「わたしは日本国民のためなら死んでもいいと思っている」

 と主張を曲げなかった。白部長はその時、この人は本当の国士だと思った。

 国士山村新次郎が、地獄に繋がっているかもしれないタラップを一段ずつ足を踏みしめながら登って行き、タラップ中央で田中と交錯して、機上に立つと、残りの乗客が次々と姿を現した。山村次官は乗客一人ひとりに「ご苦労さまでした」と言って頭を下げ、スチュワーデスには、「いろいろご苦労だったね。これでよかったね」と優しく声をかけた。

 山村次官が機内に入り、下にいた田中もタラップを登り機内に消えた。

 気象情報も運航情報もないまま、窓から差し入れられた中学生が使うような地図一枚を持って、闇の迫った金浦空港をよど号は飛びたった。有視界飛行である。乗っているのは、山村次官、石田機長、江崎副操縦士、相原航空機関士、それに犯人たち9人をあわせた13人である。

 北朝鮮領空に入ったが、地上からの応答はまったくない。日本側の安全要請に、赤十字を通じて、乗客、乗員は人道主義に基づいて安全を保障すると答えていたのに、呼びかけに対してなんの反応もしないのである。乗客を金浦空港で降ろしたのが、気にいらなかったようだ。早くしないと、視界がまったく閉ざされる。だが、ピョンヤン空港は見つからない。石田機長の判断で、小さな航空機がいくつか見えた飛行場にブレーキをいっぱいに利かせて着陸したが、その時、名も知らぬ空港は闇がすべてを支配していた。人影はない。

 目的地に着いたというのに、犯人たちの顔がこわばっている。江崎副操縦士が、

 「どうしたんだ。ピョンヤンに着いたんだぞ。先に降りたらどうだ」
 と声をかけると、「いやだ、怖い」と言った。

 テロリストたちは、北朝鮮に何一つ連絡しておらず、許可も得ていなかったのである。

 石田機長と江崎副操縦士が事務所によど号来訪を告げて30分以上たってから、軍隊が到着して、よど号を包囲し、全員機外に降りるよう命令され、赤軍は武装解除された。日本刀4、5本、白ザヤの短刀7,8本、自家製爆弾らしきもの、およそ20本、ピストル2丁、他にジャックナイフのようなものを腰にぶら下げていた。

 午後9時ごろ、一行はバスに乗せられ、ピョンヤン市内のホテルに連れて行かれ、軍服姿の将校のような男に日本語で尋問された。

 「なんの目的で北朝鮮に入ったのか」
 「入国したくなかったが、やむをえなかったのだ。3人の乗員も同じだ」

 山村次官が答えた。

 軍人は犯人たちにも同じ質問をした。すると田宮が「国際根拠地論」や赤軍派独自の革命論を滔々と述べ始め、軍人は途中で、「もういい」とさえぎり、「君たちには学習が必要である」と言った。

 犯人たちと顔を合わせたのは、その日の夕飯が最後であった。

 翌日、記者会見が行なわれ、山村次官とコックピットクルー3人が出席し、その途中で、朝鮮中央通信の声明として、「日航機と山村次官、ならびに乗務員を日本に送り返す」ということが発表され、山村次官は一瞬目を潤ませ、「ありがとうございました」と言って頭を下げた。

 事件が発生してから6日後の4月5日早朝、よど号は羽田に無事帰還し、ようやく一件落着を見たが、北朝鮮に亡命した犯人たちのその後の動静は長い間伝えられることはなく、人々の記憶からいつしか遠ざかっていったが、その間にトロツキズムテロ集団は、金日成・正日マンセイテロ集団へと変貌を遂げていた。それについては次回に記すことにする。
 ※今回は極めて駆け足になってしまいました。山村新次郎運輸政務次官、石田機長、江崎副操縦士、丁長官のことなど、ぜひぜひ下に挙げた参考文献をお読みになって、記憶にとどめてください。すばらしい人たちですよ。

 参考文献
 光文社 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会著「家族」
 河出書房新社 久能靖著 「よど号」事件122時間の真実
 草思社 島田滋敏著 「よど号」事件三十年目の真実”対策本部事務局長の回想”
 文芸春秋 八尾恵著 「謝罪します」

 参考リンク
 日本赤軍と東アジア反日武装戦線
 1969-1972 れんごーせきぐんと「二十歳のげんてん」

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曽我ひとみさんの叫び 「お母さんを返して」

1992年11月末。佐渡島の真野町で奇妙な葬式が行われた。骨壷は二つ、だが、どちらにも、骨は入っていない。喪主の名は曾我茂さん、14年前の1978年8月12日に突然行方不明になった奥さんのミヨシさん(行方不明当時46歳)と長女ひとみさん(19歳)の葬儀である。7年前にも勧められたが、そのときは首を縦には振らなかった。茂さんは、参列者に涙ながらにこう挨拶した。

 あしたにも帰ってくるかもしれん。あきらめてはいない。でも区切りをつけないといかん」

 二人が行方不明になった12日はよく晴れた日で、夕方6時ごろ、ミヨシさんは末娘の富美子さんに「あした朝市に連れていくから、先に寝てなさい」と言い残して、ひとみさんを連れ、近所の商店に買い物に出かけた。店にいたのは約5分、アイスクリームとお菓子を買っている。家と店の距離は歩いてわずか5分、途中、近所の老人に「おやすみなさい」と声をかけている。だが、そこでパッタリと行方が途絶えた。台所には盆の供物にする団子と赤飯が作りかけのまま残されており、家出をする条件はどこにもない。

 翌日、集落総出で山や畑を捜したが徒労に終わり、タクシー会社に問い合わせたり、汽船の乗船名簿も見たが、手がかりはなかった。ほかの拉致被害者同様、 「神隠しに遭ったかもしれん」という噂が立った。そう思うのも無理もない。海に囲まれた小さな島である。北朝鮮からの侵入者など想像外である。

 では、実際はどうだったのだろうか。ひとみさん自身が語った拉致の状況を記してみよう。

 ひとみさんは当時佐渡総合病院の准看護婦をしており、平日は病院の寄宿舎暮らしで、土曜日に家に帰り、日曜日に寄宿舎に戻るという生活をしていた。その土曜日の夕方、買い物を終えて店を出たひとみさんとミヨシさんが歩いていると、後ろの方で、何人かの足音が聞こえた。振り返ると男が3人並んでついてくるのが分かった。2、3分たってもまだついてくる。道路沿いに大きな木のある家の前に差し掛かったとき、突然、男たちが、襲いかかってきて、二人を木の下にひきずりこんだ。ひとみさんは口をふさがれ、フクロに詰められ、一人の男に担がれた。その後、どこをどう通ったかまったく分からない。ミヨシさんがどうなったかも分からない。小さな船に乗せられ川から海へ出た模様で、沖に出てから少し大きな船に乗り換えた、翌日の午後5時ごろ船から降りた。あとで考えてみると、そこは北朝鮮の清津(チョンジン)だった。

 これはとても重要な証言である。男3人は2、3分間、後をつけて来た。もし一人だけ拉致するのが、目的なら、危険性の高い二人連れを狙ったりはしないであろう。女性二人を拉致するよう命令されていたと推測できる。つまりミヨシさんも必要だったのである。拉致されるには年齢が高すぎるという説があるが、久米裕さんは52歳、原敕晁(ただあき)さんは43歳で拉致されている。、いずれも、工作員が日本人になりすますための戸籍取得が目的だった。ミヨシさんに年齢が近いj女性工作員がいたとしても不思議ではない。その女工作員がミヨシさんに当初化けるつもりだったのが、何らかの事情で中止になったということも考えられるし、工作員の日本人化教育は、重労働をやるわけではないので、47才の女性でも十分勤まる。ミヨシさんは今も北朝鮮のどこかに必ずいる。北朝鮮は日本国内の動きを常に見ており、国内の関心が薄いと、ミヨシさんの身に危険が迫る恐れがある。ミヨシさんを返せという声を一段と高めねばならない。

 ところで、北朝鮮は何故日本側が提示している拉致被害者名簿に載っていなかった曾我ひとみさんを生存者として出してきたのだろうか。それは金正日という独裁者ならではの思考の結果だと、私は思っている。北朝鮮は経済的にニッチもサッチもいかなくなっており、金正日は、たとえ拉致を認めてでも、日本からの経済援助や賠償金がほしい。だが、絶対に認めることが出来ないことが二つあった。それは、北朝鮮は日本人を拉致したが、1.拉致被害者をテロ活動に利用するようなことはしていない。2.拉致を命令したのは、金正日ではない。この2点である。そのためには、元工作員の証言はウソだとしなければならない。金賢姫や安明進さんの証言などで、何らかの情報が伝わってきていた人たちはすべて死亡したことにし、朝鮮労働党調査部所属の工作員辛光洙(シン・ガンスク)に拉致された原敕晁さんは、調査部の存在と活動を否定するために、自分の意思で北朝鮮に来て、病死したことにされてしまったのだ。久米裕さんに関しては、在日の金融業者が事件直後、久米さんが宿泊していた宿で、外国人登録法違反で逮捕されているため、存在を認めると、総連が拉致に関わったことになるので、入国そのものを否定したのである。その結果、それまで情報がまったくなかった蓮池薫さん・奥土祐木子さん夫妻、地村保志さん・浜本富貴恵さん夫妻を生存者として発表することにした。だが、そこで将軍サマは考えた。日本側の名簿に載っていない人物を一人つけよう。さすれば、日本はよくそこまで調べてくれたと感謝し、拉致事件に幕を引くことが出来るだろうと。人選の結果選ばれたのが曾我ひとみさんである。夫のジェンキンスさんは脱走兵ということになっており、帰国したら米国に引き渡され、軍法会議にかけられるので、まちがっても帰国ということにはならないはずだと。帰国が前提になっていないから、ミヨシさんのことなど、歯牙にもかけていなかったに違いない。

 だが、何事も己の意のままにしてきた独裁者は、いくつもの計算違いをしていた。日本は北朝鮮ではない。過剰とも思えるほどの情報が飛び交っている国である。発表されたことを「はい、そうですか」と簡単に認めたりはしない。曾我さんの存在は、まだまだ大勢の被害者がいることを示唆し、一生懸命作ったであろう死亡情報も、日本国民の怒りを買ったばかりか、数日のうちに、矛盾点を次々と指摘され、150項目以上に渡る質問を突きつけられた。だが、一年を経過した今も、答えることができないでいる。

 飢餓に苦しむ国である。長い人は拉致されてから25年以上の年月を経ている。一人くらいは亡くなっていたとしても決して不思議ではない。事実を事実として、発表すればいいだけである。だが、一人も亡くなっていない。そのため、二度も焼いた骨を出すなど、小細工をしすぎて、自己撞着に陥ってしまい、苦し紛れに拉致問題は解決済みなどと吼えて、虚勢を張っているのである。

  ひとみさんは人間ドックで、肺ガンを発見され、3月に手術を受けたが、幸いにして早期であった。これも帰国していたから発見されたのである。北朝鮮にいたのでは、もし、それと分かっても、きちんとした治療を受けられたか、疑問である。ガンを克服したひとみさんだが、ご主人と、二人のお嬢さんはいまだに北朝鮮におり、ミヨシさんの消息は不明である。

 拉致被害者でもあり、被害者の家族でもあるひとみさんは「お母さんの救出のためなら何でもしたい」と訴えている。その声に応えるべく、家族会・救う会はミヨシさんの救出に力を入れ始めた。われわれも更なる声を挙げよう。「曾我ミヨシさんを返せ! すべての拉致被害者を返せ!」と。

 ひとみさんが帰国して半年の記者会見の時に訴えた言葉の一部を引用して、この項の結びとしたい。

 ……この半年、家族の深い深い愛を心から感じています。1月に届いた娘の手紙の中に、こんな言葉がありました。
 「おかあさん、おかあさんとこんなに長くはなれたのは初めてだヨネ。もうすぐ冬休みです。冬休みになったらおとうさんにおいしいものを作ってあげます」と泣きながら書いてくれた手紙。それは私にとってこの世界の中で一番の宝物です。。
 私の二つの家族。お父さんとお母さんと私と妹の一つの家族、むこうにいる夫と私と娘2人の家族。この二つの家族をばらばらにしたのはだれですか?
 そしてばらばらになった家族をまた一緒にしてくれるのはだれですか? そしてそれはいつですか?
 心から喜びあえる幸せの日を一日でも早く私にかえしてください。 曾我ひとみ

 参考文献
 光文社 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会著「家族」
 恒文社発行 山際澄夫著 「拉致の海流」
 徳間書店 西岡力著 金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実
 扶桑社 週刊SPA編集部著  メデイアが黙殺した〔拉致事件〕25年間の封印を解く!!

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罠に嵌った原敕晁(ただあき)さん

 拉致事件の背景をこうして追っていると、いったい何の権利があって、罪もない人を拉致するのか、実行犯たちは罪の意識にさいなまれないのかと思ってしまうが、罪の意識などは、はじめから皆無なのであろう。かといって良心がないわけではない。同じ人間である。だが良心よりも上位に位置するものが彼等にはあるのだ。それは金正日将軍サマへの忠誠である。物心つく以前から、金正日将軍マンセイを叩き込まれる。着ているものも、食事も、家も、すべてが将軍サマからの贈り物であると思い込まされ、その結果将軍サマのためなら、命も捨てなければならないという歪んだ思想が形成されてしまう。そのいい現われが美女軍団であろう。彼女等にはスポーツの世界に政治を持ち込んだなどという意識は皆無である。偉大なる将軍サマの敵である日本選手と米国選手は無視し、村の人がせっかく飾ってくれた横断幕を「将軍様を木の間に飾るとは、雨が降ったら、ずぶ濡れになってしまう」と、引きおろしてしまう。すべては純粋な行為なのである。私の友人が、彼女等は芝居をやらされていると言ったが、違う。彼女等は、自分たちの行動は祖国統一に繋がるすばらしい行為なのだと、心から信じているのである。決して芝居ではない。では成長期に普通の教育を受けていれば大丈夫かというと、そうでもない。オウム真理教の信者がいい例である。

 北朝鮮工作員辛光洙(シン・ガンスク)は今年74歳。昭和4年、静岡県で生まれたが、終戦後北朝鮮へ帰国し、昭和48(1973)年に筋金入りの工作員として日本に密入国し、夫と別居していた在日の朴春仙さんに言葉巧みに近づいて、彼女の家に入り込み、北朝鮮から送られる指令に従い、日本や韓国の軍事情報を集めていたが、昭和51(1976)年に「外国に行く」とだけ言って朴さんの前から忽然と姿を消し、それから4年後の昭和55(1980)年に再び彼女の前に姿を現した。そのとき辛は北朝鮮の最高首脳から、「日本人を拉致して本人になりすまし、在日工作をせよ」という指令を受けていたのである。

 辛が目をつけたのが、在日が経営する大阪の中華料理店でコックとして働いていた身寄りの少ない原敕晁(ただあき)さん(当時43歳)である。辛は「よい職場を世話する」と言って、昭和55(1980)年6月、原さんを宮崎県青島の海水浴場に連れだし、配下の工作員4人と共に、原さんの手足を縛り、袋に入れ、8人乗りのゴムボートで、沖に待機していた工作船に移した。まんまと拉致に成功した辛は、原さんの経歴や家族構成、過去の生活から、中華料理の技術まで習得し、原敕晁名義のパスポート、運転免許証を取得して、原さんになりすまし、日本で工作活動を続けるが、それから5年後の昭和60(1985)年、原さん名義のパスポートで韓国に潜入しようとして、情報当局に逮捕され、拉致を供述したのである。

 このとき、日本の報道各社は、特派員電や共同電で報じたが、もっとも詳細な報道をしたのは、なんと、あの朝日であった。

 「日本人拉致、身代わりスパイ 宮崎から北朝鮮に」という大見出しで、拉致に関与したとされる在日の中華料理経営者、在日朝鮮人大阪府商工会会長らの談話や、アベック連続蒸発事件も紹介している。

 中華料理店の経営者は、「寝耳に水で驚いている。私にはなんのことか分からない、原という人物は確かに数年前まで働いていた。しかし『体がもたない。やめたい』と言いだしたので、仕事ぶりもまじめでなかったのでやめてもらった」と述べ、 商工会の会長は、「宮崎へは一度だけ行ったことがあるが、原という日本人はもちろん知らない、南北の対話に水をさすひどいでっちあげだ」と語っている。

  朝日放送のプロデジューサー石高健次氏は、地上の楽園と言う宣伝を信じて北朝鮮に帰国した人たちがひどい目にあっており、行方不明者も多いということを、ソウルに亡命している男性から偶然聞いたのが発端で、北朝鮮帰国者の行方不明者を追った「楽園から消えた人々」というドキュメント番組を作ったが、その中に北朝鮮に帰国した兄が銃殺されたという女性が登場する。その女性から、突然会いたいという電話が入り、喫茶店であったが、そこで驚くべき話を聞かされた。

 「実は私の兄が殺されたのは、私が辛光洙という北朝鮮の工作員と同棲していたのが原因なんです」

 女性は朴春仙さんである。兄の安復さんは、北朝鮮に帰国後、平壌で日本語放送のアナウンサーをしていたが、辛光洙の逮捕から半年後の昭和60(1985)年8月、銃殺刑に処せられた。辛光洙が韓国で逮捕されたため、スパイ容疑をかけられたのだ。

 日本人拉致事件の存在を知った石高氏はその後、辛光洙の裁判記録を調べ、韓国の斉州島に渡り、、共犯者の一人から、拉致行為を認めさせ、平成7(1995)年11月にドキュメンタリー番組「闇の波濤から〜北朝鮮発・対南工作」を発表したが、北朝鮮はでっち上げだと非難した。その北朝鮮に迎合して、雑誌「世界」に、ドキュメンタリーはでっち上げだと受け取れる論文(?)を書いたのが、元東大教授の和田春樹氏である。石高氏は数十箇所のまちがいを「世界」の編集長に指摘したが、今日に至るも訂正されていない。その一例を紹介しよう。

 「長い間日朝交渉にはいくつかの障害があった。今日最大の障害とされているのは、国民感情である。拉致事件も一般には北朝鮮が公式に認めるはずのないことである。レバノンから拉致した人を帰した例があるが、正面の日本には、仮に拉致した人がいても返すことはありえない。拉致された人がいるとすれば、その人を危険にさらさず、生きていてもらうことである」平成11(1999)年世界4月号

 拉致被害者を侮辱した表現もあり、これが東大教授だった男の論文かと目を疑ってしまう箇所まである。
 スパイ容疑で逮捕された辛光洙は昭和60(1985)年11月30日に、韓国のソウル刑事地方法院で、国家保安法違反の罪で、死刑を宣告された。上訴したが、控訴・上告とも棄却され、死刑判決が確定したが、なんと釈放を求める嘆願書が日本から送られたのである。嘆願書は「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」と題され、平成元(1989)年に提出されたが、当時の国会議員128人が署名している。土井たか子、村山富一、山口鶴男、田辺誠、上田哲など、旧社会党議員が中心で、菅直人(社民連)、田英夫(同)、青島幸男(二院クラブ)の諸氏も名前を連ねている。公明党は6人である。同胞を拉致した男に、日本の国会議員が救いの手を差し伸べたのである。

 辛光洙はその後、無期懲役に減刑され、太陽政策で北との融和を計る金大中大統領の政治的配慮で釈放され、さながら凱旋将軍のごとく、北朝鮮に帰国したのである。被害者の原敕晁さんは今だに戻れないというのに。

 下記が家族会、救う会が出した悲鳴にも似た要請書である。

 救う会全国協議会ニュース より抜粋
 ■辛光洙の身柄引き渡しについて再度要求

<河野外務大臣・田中警察庁長官宛の要請書>
 要請書
 原敕晁さん拉致事件の犯人である辛光洙が「非転向長期囚」として 北朝鮮に送還されようとしています。すでに日本政府は辛光洙の身柄 引き渡しを韓国政府に要請され、韓国政府から拒否の回答が来たこと は存じておりますが、辛光洙による拉致事件は未だ解決していません 。原さんは消息すらつかめていないのに、日本には送ることができず 、北朝鮮には送還できるという韓国政府の姿勢は到底理解できません 。辛光洙の日本での取り調べができるように再度韓国政府に申し入れ ていただきたく、要請する次第です。
平成12年7月10日
 「北朝鮮による拉致」被害者家族連絡会 代表 横田 滋
 北朝鮮に拉致された日本人を救出する地方議員の会 会長 土屋敬之
 北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会  会長 佐藤勝
<崔相龍韓国大使宛の要請書>
 要請書
 南北頂上会談の合意に基づき、原敕晁さん拉致事件の犯人である辛 光洙が「非転向長期囚」として北朝鮮に送還される可能性があると聞 きました。すでに日本政府は辛光洙の身柄引き渡しを要請しましたが 、貴国政府は国内法を根拠として拒否の意志を明らかにしております。  私たちは、辛光洙を北朝鮮に送還するなら少なくともその前に日本 での取り調べを認めていただきたく、正式に要請する次第です。  原敕晁さんは現在、消息すらつかめていません。この事件の解決に は辛光洙の日本での証言が必要不可欠であります。しかるに辛光洙を 日本には送ることができず、北朝鮮には送還できるという韓国政府の 姿勢は到底理解できません。  金大中大統領閣下はご自身が拉致事件の被害者でもあり、この問題 については韓国の「拉北者」救出とあわせ、格別のご理解をいただけ るものと確信しております。 私どもはこの問題によって日韓関係が損なわれることを憂慮するもの です。大使におかれましても本国政府によって実現するよう何卒ご協 力をお願い申し上げます。
2000年7月10日
(要請者名は上と同じ)

 原さんは久米さんと同じく、日本には家族がいない。だから、我々同胞が一段と声を張り上げて叫ばねばならない。

 「北朝鮮は原敕晁さんを返せ」と!

 参考文献
 恒文社発行 山際澄夫著 「拉致の海流」
 扶桑社 週刊SPA編集部著  メデイアが黙殺した〔拉致事件〕25年間の封印を解く!!
 朝日新聞社 石高健次著 金正日の拉致指令
 光文社 石高健次著 これでもシラを切るのか北朝鮮

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波濤の彼方に消えた3組のアベック

昭和53(1978)年8月15日の夕刻、富山県高岡市鳥尾の海岸を一組のカップルが歩いていた。夏の夕刻、日本中の海岸で見かける光景である。反対側から、4人の男たちが歩いてきた。白い半そでシャツにステテコ、ズック靴という異様なスタイルである。その4人組がすれ違いざま、2人に、いきなり襲いかかってきたのだ。その場に倒された男性のAさんは、後ろ手にされて手錠をかけられ、足は帯でしばられ、口にはタオルをつっこまれ、その上から、更に特性のサルグツワをはめられ、頭から、布袋をかぶせられた。女性のB子さんもほぼ同様である。4人組は2人をかついで、近くの松林に運ぶと、カムフラージュするために松の枝をかぶせた。動きはすばやく、それぞれの役目もきちんと決まっていたという。4人はそこで一言もしゃべらず、Aさんにたった一言、「静かにしなさい」と言っただけで、何かを待っていた。B子さんの体に触れるようなことも一切していない。30分ほどたったころ、近くで犬の鳴き声がした。すると4人は、2人を残したまま、あっけなくその場から姿を消した。通報を受けた高岡署は緊急配備を敷いたが、発見出来なかった。年齢は4人とも三十代半ば、赤銅色に日焼けし、たくましそうだったという。一緒に海岸にきていた家族も、当日の夕方、4人組がウロウロしていたのを目撃している。手錠、サルグツワ、布袋、ヒモなど、遺留品のほとんどは、日本では入手不可能な外国製品であった。

 特異な誘拐未遂事件の発生に、警察庁は、全国の警察に類似の事件がないか、報告を求めたところ、7月7日に福井県の小浜市青井海岸で、地村保志さん・浜本富貴恵さんが、7月31日には、新潟県柏崎市の中央海岸で、蓮池薫さん・奥土祐木子さんが、8月12日には、鹿児島県日置郡吹上浜の海岸で、市川修一さん・増元るみ子さんが蒸発していることが分かった。いずれもデートに出かけた海岸から、まるで神隠しにでもあったかのように、忽然と姿を消している。全員が二十代、運転免許証や預金通帳も自宅にあり、家出や、心中の可能性はまったくなかった。水難事故の可能性も考えられるため、大規模な捜索が行われたが、遺体は見つからなかった。4件の現場は、これまでに、外国のスパイが上陸したことのある海岸に近く、事件前後に現場に不審な外国船が停泊していたという情報もあった。それに、外国を発信源とするスパイ連絡用の怪電波が急激に増えていた。

 産経新聞の事件記者だった阿部雅美(現・産経スポーツ編集局長)記者が、ある人から、「日本海の方でおかしなことが起きている」と聞いたのは、事件発生から1年以上たった昭和54年の秋のことである。最初はほっておいたが、気になることがあって、日比谷図書館に日参し、日本海側にある地方紙を何年分もめくり、富山の未遂事件を発見した。

 富山に飛んで、取材を始めたが、そういえば、そんなことがあったなあという雰囲気だった。だが、阿部記者は被害にあった2人の証言や4人組が残した遺留品を調べているうちに、「もしかしたら、これは、とんでもない事件なのでは」と思いはじめていた。

 東京に戻ると、再び地方紙を調べまくり、地村保志さん、浜本富貴恵さんが失踪した福井を皮切りに、鹿児島、柏崎と取材した。地元では、すでに忘れられた事件だが、家族にとっては忘れられることではない。東京からの取材と聞いて驚いたが、みな、積極的に話してくれた。阿部記者は失礼な奴と怒られるのではないかと思うくらい、根掘り葉掘り失踪以前のことを尋ねた。家出や心中の可能性が少しでもあれば、記事にはならないからである。

 3組のアベックには、蒸発する理由が見当たらない。溺死なら、遺体があがるはずである。その地域にいる素行不良者の行動にも、事件と結びつくようなことは何もなかった。未遂事件を最後に犯行は途絶えている。日本では見ることの出来ない遺留品、怪電波、不思議なスタイル、阿部記者は散らばっていた点を一本の線に繋げ、翌55年1月、拉致事件最初のスクープ「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」が産経新聞の紙面を飾ったのである。ところが、政府や警察、他のマスコミの態度は冷たかった。誤報・虚報扱いである。公安に踊らされたと批判するマスコミ関係者もいた。

 だが、被害者の家族は違った。忽然と姿を消してから一年半、なんの手がかりもないまま、いたずらに暦は変わり、手をこまねいていた時に、ようやく情報を得ることができたのである。地獄で仏を見た思いであったろう。

 あの日、地村保志さんと浜本富貴恵さんが乗っていた軽トラックは、小浜湾が望める展望台に放置されていた。ハンドルがめいっぱい切ってあり、キーはウインカーにぶら下がっている。家出や蒸発にしては不自然すぎた。行方不明から、3カ月ほどたったころから、保さんは「2人は船でどこかにつれていかれたのではないか」と思うようになっていた。能登沖などに不審船がいると新聞が報道したり、若狭湾に真っ黒な船がいたと、漁民が海上保安庁に通報する事件がおきたりしていたからである。富貴恵さんの兄浜本雄幸さんに、「ソ連にでも連れていかれたのではないか」と話をしたこともある。

 産経新聞を見た保さんは、「間違いない。保志たちは外国の工作船に連れて行かれたんや」と確信を持ち、東京の検察庁まで、陳情に出向いた。応対した係官は「ソ連軍が死体の収容に使う袋だ」と説明してくれたが、捜査をするとは言わなかった。

 雄幸さんは「外国工作機関が関与か」という記事を読んだとき、すっと肩の荷がおりた気になった。親子ほど歳の違う兄妹は腹違いであった。そのため、複雑な家庭が原因と噂されていたからである。富貴恵さんは10歳の時に父を失い、14歳で母親をも失うが、男ばかりの異母兄弟たちに、「ねえちゃん、ねえちゃん」と呼ばれ大切にされた。雄幸さんが父親代わりである。 

 蓮池薫さんと奥土祐木子さんが拉致されたのは、夏祭りの「祇園さん」の夜7月31日である。海岸にはかなりの人がいたが、少し歩くと、2人だけになった。突然、暗がりから、3.4人の男が現れ、一人が「タバコの火を貸してくれ」と言った。妙なやつらだと思った瞬間、薫さんは顔面を強打され、意識朦朧としている間に、頭から袋を被せられ、ボートに乗せられ、沖に出てから大きな船に移された。着いたところは波濤の彼方、北朝鮮の港町清津(チョンジン)である。

 翌朝、一男さんと母親のシズエさんは市内の喫茶店を一軒一軒聞いて回ったが、どこにも2人が立ち寄った形跡はなかった。薫さんの自転車は待ち合わせ場所の、図書館の駐輪場に置いたままである。銀行の口座も調べてみた。引き出されてはいない。殺されたか、外国に拉致されたか、一男さんは何故かそう思った。警察には三日後に届け出た。一生懸命捜索してくれたが、何の手がかりも得られなかった。

 奥土夫妻は身元不明者の死体が写っている写真を見たり、蓮池秀量・ハツイ夫婦と、家出人の公開捜査が売り物のテレビに出演したり、占い師に占ったりしてもらったが、どれも無駄足であった。

 蓮池夫妻は地元で「浜茶屋」と呼ぶ海の家や民宿を残らず訪ね、柏崎から、新潟市の近郊まで、100キロの海岸を休みのたびに歩いた。東京でテレビに出たときは、情報を頼りに山谷を歩き回ったりもした。兄の透さんは、名古屋にいるという情報を聞き、名古屋市内のパチンコ屋を何百件と探し歩いた。兄弟が幼いころ、市役所に勤務するハツイさんに代わって、2人を育てた祖母のキクイさんは神仏にすがり、庭に白い観音像を祀り、朝晩の祈りを欠かさなかった。占い師のところにも足を運ぶと、不思議なことに、どこでも同じことを言われた。「死んではいない。だが、帰ってくるまでには長い時間がかかる」。
 兄弟が小学生のころまで、キクイさんの左右のおっぱいを一つずつ口に含んで、川の字になって寝ていたそうである。

 地村保志さん、浜本富貴恵さん、市川修一さん、増元るみ子さんは写真入りで実名が報道されたが、蓮池薫さんと、奥土祐木子さんは「中大3年生」、「美容師」となっていた。まだ実名は出さないほうがいいと、祐木子さんの父親一男さんが判断したからである。

 8月12日の昼過ぎ、ようやく目を覚ました増元照明さんは、デートに出かけようとする姉のるみ子さんを玄関で見送った。ほかの家族は出払っている。外には市川修一さんが車で迎えにきていた。市川さんの存在を聞いたのは昨日の夜である。今日は、吹上浜に夕日を見に行くと言っていた。だがその夜、2人はついに戻らなかった。母親の信子さんが、朝方、市川家に電話を入れた。修一さんは当時、お姉さんの嫁ぎ先に下宿していた。電話に出たお姉さんはあわてて別棟の部屋を見に行ったが、やはり帰っていなかった。午前中いっぱい待ってみた。だが音沙汰がない。何かあったに違いないと近所の警察に届けたが、実際に何か起きなければ事件とは見なせないと言われた。

 翌朝、両家は二台の車に分譲して、吹き上げ浜に向かい、鍵がかかったまま放置されている市川さんの愛車を発見した。車内には、るみ子さんのカメラやバッグがおいてある。周辺を探すと、市川さんのサンダルが片一方だけ見つかった。事件に巻き込まれたことは間違いない。翌日から、警察による大捜索が始まった。富山県で未遂事件が起きた日である。だが、何の手がかりも得られないまま、2週間後に捜査は打ち切られた。

 そして1年半後、取材に訪れた阿部記者から、北朝鮮に拉致された疑いがあると聞かされたのである。

 だが、そこでまた、糸はぷっつりと切れた。北朝鮮の仕業と言っても状況証拠だけである。どこの役所に行けばいいのかも分からない。もし外務省や人権擁護局に行ったとしても、相手にされなかったであろう。有本恵子さんのように、北朝鮮にいるとの手紙が届いたり、元北朝鮮工作員の安明進さんが被害者の目撃証言をしても動かなかったのだから……。

 昭和60(1985)年4月、原敕晁(ただあき)さんを拉致した北朝鮮工作員辛光洙(シンガンス)が韓国で逮捕されたが、日本の政府はピクリともしなかった。そして昭和62(1987)年、大韓航空機爆破事件がおき、逮捕された金賢姫が、翌年1月に「李恩恵(リウネ)」という教育係りの日本人女性がいたことを証言し、3人の女性の中の一人ではないかと、大騒ぎになった。中でも名前に恵の一字がついている浜本富貴恵さんではないかと、浜本家には取材陣が殺到した。だが、別人と分かると、騒ぎはすぐに収束した。それから、半月ほど後、共産党参議院議員秘書の兵本達吉さんが、6件の家を訪ねて、聞き取り調査をし、3月には橋本敦議員が兵本さんの調査資料に基づいて質問をし、答弁に立った梶山静六国家公安委員長が「昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、おそらくは北朝鮮による疑いが濃厚であります」という証言をして、政府として、初めて北朝鮮の関与を認めたが、これを報道したのは、産経と日経だけであった。

 敵は北朝鮮だけではなかった。与野党の国会議員や外務省、マスコミなどが、事件解明の足を引っ張ったが、阿部雅美記者、兵本達吉さん、石高健次さんらの呼びかけで、平成10年には家族会を結成し、世論に訴え、政府を動かし、昨年10月、曽我ひとみさんと共に、地村保志さん、浜本富貴恵さん、蓮池薫さん、奥土祐木子さんが25年ぶりに帰国した。だが、市川修一さん、増元るみ子さんは未だに帰国していない。2人は死亡したという発表は、他の人同様、とても信じられる内容ではない。市川さんと増元さんが提出したとされる結婚登録申請書はどちらも生年月日が違うのである。当人が本当に書いたものなら、決して間違えないであろう。市川さんが死亡したとされる昭和54(1979)年9月4日から、12年もたった91年8月に安明進氏が、市川さんを金正日軍事大学で目撃しているのである。

 増元るみ子さんの父正一さんは、照明さんに「おれは日本を信じる。お前も信じろ」と言い残し、昨年10月17日、鬼籍に入った。地村さんの母と志子さんは、保志さんが拉致されてから、「やっちゃん、やっちゃん」と泣いてばかりいたが、二月ほどたったころから、わけの分からないことをつぶやきながら、家の周りを歩きまわるようになり、やがて入院し、寝たきりとなってしまった。そして事件から25年が過ぎた平成14(2002)年4月、74歳でその生涯を閉じた。あと半年生きていたら、息子に会えたのである。

 蓮池薫さんの祖父、重栄さんは、昭和60(1985)年、「薫に会いたい、会いたい」と言いながら他界した。母親代わりだった祖母キクイさんは、薫さんが帰国したのを見届けて、安心したのだろうか、平成15年5月9日、92歳で黄泉の国に旅立った。

 北朝鮮に絶対に戻さないと最初に決めたのは祐木子さんの兄、奥土雄幸さんである。その雄幸さんが、小泉総理が訪朝する前日に福田官房長官に言った言葉を、この項の締めくくりとしたい。

 それは、小泉総理が日朝首脳会談を前にして、政治生命をかけるという発言をしたとの報道を「そんなことは言っていない」と否定したことに関してだった。
 「私は一介の漁師でありますが、海へ行ったら舟板一枚底地獄、命がけの仕事をしています。私たちだけでなく、一般庶民はみんな毎日食うために命がけで仕事をしています。一国の総理が政治生命を賭けていない、命がけでないとは、いったいどういうことやッ。政治家とは、そんな楽な商売なのか。しかも大事な日朝首脳会議に行くのに、行く前からすでに金正日になめられ、見透かされているではないか。そんなことでええのかッ。もっと命がけでやってもらうよう総理に伝えてもらいたい」

 参考文献
 光文社 北朝鮮による拉致被害者家族連絡会著「家族」
 恒文社発行 山際澄夫著 「拉致の海流」
 徳間書店 西岡力著 金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実
 扶桑社 週刊SPA編集部著  メデイアが黙殺した〔拉致事件〕25年間の封印を解く!!


消えし子が戻るまで

子供を除けば、横田めぐみさんの名前と顔を知らない日本人はおそらくいないであろう。僅か13才で拉致され、愛する父母と青春を奪われためぐみさんは,拉致事件のシンボル的存在として、今も私たちに語りかけている。「私を一日も早く取り戻しに来てください」と。
 父親の滋さんは日銀マンの転勤族で、新潟に来たのは、めぐみさんが小学6年生の1976(昭和51)年7月のことである。一家は、ご夫妻とめぐみさん、四つ年下の双子の弟たちの5人暮らし。日本のどこにでもいる平凡な家族である。翌年、中学生になっためぐみさんは、バドミントン部に所属し、放課後は夕方になるまで、練習に明け暮れていた。
 運命のその日は、既に冬が訪れている北国にしては暖かい朝で、母親の早紀江さんが、登校するめぐみさんに、コートを渡そうとすると、「今日は置いていくわ」と断り、友人と二人で家を後にした。その時めぐみさんが言った「行ってきます」が、早紀江さんが聞いた最後の言葉である。

 いつもの帰宅時間を過ぎても、めぐみさんが帰って来ないので、心配になった早紀江さんが学校に行ってみると、クラブ活動の生徒はとっくに帰ったと言う。あちらこちらを捜し回ったが、見つからない。急ぎ帰宅した滋さんや、駆けつけた学校の先生も加わって探したが、どこにも見当たらない。まるで神隠しである。届け出を受けた警察は、二頭の警察犬を連れてきた。めぐみさんと友達が別れた交差点から、海の方に歩き始めた二頭のシェパードは自宅へ曲がる角までくると、立ち止まり、くるくると回るだけで、それ以上進もうとしない。そこで匂いが消えてしまったのである。車で拉致されたのだ。自宅まで距離にして、僅か250メートルである。警察の必死の捜査にも関わらず、手がかりが掴めぬまま一週間が過ぎ、公開捜査に踏み切ったが、進展は見られず、それから21年後に、突然、「お嬢さんは北朝鮮にいる」という知らせが飛び込んでくるのである。この間のご一家の辛苦については、早紀江さんがお書きになった「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」をお読みください。

 1997(平成9)年1月21日、既に定年退職した滋さんの元に、日銀のOB会から、参議院議員の橋本敦氏(共産党)の秘書をしている兵本達吉(ひょうもとたつきち)さんに連絡をして下さいとの電話が入った。もしやめぐみのことかと、電話をすると、「お宅のお嬢さんが北朝鮮で生きているという情報が入りました。」と兵本氏は言った。それまで、めぐみさんと北朝鮮を結びつけて考えたことなどなかった滋さんの驚きはいかばかりであっただろうか。わたしには想像もつかない。
 兵本氏は現代コリア(平成8年10月号)とめぐみさんの行方不明を報じた「新潟日報」のコピーを用意していた。

 現代コリアには大阪「朝日放送」のプロデューサーだった石高健次(いしだかけんじ)氏の一文が載っていた。氏は1981年、在日コリアンへの差別を告発した「ある手紙の問いかけ」でJCJ奨励賞を受賞し、1992(平成4)年に制作した「楽園から消えた人々」〜北朝鮮帰国者の悲劇〜をきっかけにして、拉致問題に関わって行くようになり、「闇の波濤から」〜北朝鮮発・対南工作〜・「空白の家族たち」〜北朝鮮による日本人拉致疑惑〜という二つの作品を制作し、拉致事件は北朝鮮による組織的犯罪であることを解明した。兵本氏や石高氏、又救う会の方たちのことは、稿を改めて、いずれ記すつもりである。
 めぐみさんのことを石高氏が知ったのは、北朝鮮の工作員安明進(アンミョンジン)氏の取材の際に、韓国政府高官から、「アベック拉致事件の人も気の毒だが、もっとかわいそうなケースもある」と、新潟から拉致された少女の話を聞いたのが最初である。当時はそれを裏付けるだけの資料がないため、自身が書いていた単行本の「金正日の拉致指令」には掲載せず、「現代コリア」に寄稿したのだ。


 〔現代コリア掲載「私が『金正日の拉致指令』を書いた理由」より抜粋〕
 少女は学校のクラブ活動の帰りに、海岸からまさに脱出しようとしていた北朝鮮工作員を目撃したため拉致された。少女は賢い子で、一生懸命勉強した。「朝鮮語を習得するとお母さんのところへ帰してやる」といわれたからだ。そして十八になった頃、それがかなわぬこととわかり、少女は精神に破綻をきたしてしまった。病院に収容されていたときに、件の工作員がその事実を知ったのだった。少女は双子の妹だという。


双子は、めぐみさんではなく、弟さんなのだが、拉致された少女の件は取り調べた工作員から情報を得た複数の国家安全企画部のメンバーから聞いた話なので、いつの間にか、「双子の弟がいる」が、「わたしは双子の妹」に変化したのかもしれない。
 その夜、滋さんから話しを聞いた早紀江さんは、半信半疑ながらも、めぐみさんの生存情報にほっと胸をなでおろしたとのことである。それが親心というものであろう。
 それから二ヶ月後、現代コリア研究所が、韓国の当局に問い合わせ、石高氏の書いたことに間違いはないと確認し、平成9年の1・2月号の「現代コリア」に『身元の確認された少女』という記事を載せ、国会では西村真悟議員(新進党・現自由党)が質問趣意書を提出、週刊誌のアエラ(朝日新聞)とニューズウィーク誌、産経新聞が横田家を取材に訪れ、夫妻の了解の元に、アエラ、産経共に実名で報道することとなり、産経の一面トップと社会面にめぐみさんの写真が大きく報じられたのであった。

 そして元北朝鮮工作員安明進氏が、めぐみさんの写真を見て、工作員を養成する「金正日政治軍事大學」に在学していた1988(昭和63)年から1991(平成3)年にかけて、よく似た女性を大學の中で何度か見かけたと証言した。その後、横田夫妻は韓国で、安氏に直接会い、安氏は涙ながらにめぐみさんを見かけたことを告白したのである。

 だがそこで、めぐみさんに関する情報はパッタリと途絶えてしまい、それから5年後の日朝会談で、拉致被害者13人のうち一人は、北朝鮮内に入国しておらず、めぐみさんをはじめとする8人の被害者は既に死亡し、生存しているのは、日本側の拉致リストに入っていなかった曽我ひとみさんを入れて5人との発表が、北朝鮮側からなされたのである。くわえて、めぐみさんには娘さんがおり、平壌で暮らしていることも明かにされた。だが、北朝鮮側の発表は矛盾に満ちたもので、到底信用出来るものではなかった。めぐみさんは1993年3月にうつ病のため入院していた病院で自殺したとなっているが、病院の裏に埋葬した遺骨は、めぐみさんの夫が、その後、別の場所に移してしまったので、行方不明だという。夫は平壌に住んでいる。当局が聞けば、どこにあるか、直ぐに分かる話である。他の人の遺骨も、大洪水やダム決壊などによって墓ごと流出したという。唯一、松木薫さんの遺骨と称するものだけが存在していたが、ご丁寧に二回も火葬されていた。日本に持ち帰られた遺骨は、DNA鑑定の結果、60代の女性であると判明した。二度焼けば、鑑定は不可能だろうと北朝鮮は読んだのであろう。まさに浅知恵である。気の毒なのは、骨になってから、はるばる異国に送られてきた女性だ。彼女もまた金正日独裁政権の被害者と言っても過言ではあるまい。

 死亡と伝えられた8人は、平壌会談以前に、断片的ながらも、消息が伝えられた人たちばかりで、その大部分は安氏や金賢姫の証言である。金正日はこれらの証言を否定する必要があったのだ。安明進証言を認めれば、金賢姫のことも認めることになり、それは大韓航空機爆破というテロを認めることに繋がってしまうからだ。
 北朝鮮からの亡命者に南光植(ナムガンシク)という人物がいる。彼は、めぐみさんが死亡したはずの1993年から3年後の1996年から1999年まで、主席府財政経理部高麗貿易部に勤めていて、その事務室はビルの高い階にあり、隣にある鞍山招待所を見ることが出来た。招待所には、小さな子供とともに、5〜6人の日本人女性が生活しており、その中に奥土裕木子さんと、横田めぐみさんがいたと、鹿児島放送のインタビューで、氏は、はっきり証言している。横田めぐみさんは生きているのだ。ちなみにその招待所は、子供たちを日本化するのが目的で、日本の歌も流していたという。現在南氏は韓国内にいるが、まったく表に出て来ない。これも太陽政策の影響であろうか。

 北朝鮮の工作員は何故、まだ13歳の少女を拉致したのであろうか。安氏が工作員から聞いた話しによると、海岸から脱出しようとした時、めぐみさんに姿を見られたからだという。だが早紀江さんの推理は違う。相手は誰でも良かった。たまたま遭遇したのが、めぐみさんだったのである。わたしもそう思う。夜道だったので、13歳の少女とは気づかなかっただけである。

 孫のヘギョンちゃんに会いに、平壌に行きたいと一時は考えた滋さんも、今は悩みが吹っ切れ、家族会の会長として、日本どころか、米国や韓国にも飛んで行き、全ての拉致被害者救出のために奮闘しておられる。お母さんの早紀江さんは、講演の折り、必ず、飢えに苦しむ北朝鮮の人たちのことにも言及し、金正日を倒すことが、拉致問題の解決と、北朝鮮2000万の人々を解放することだと説き、多くの人々に感銘を与えている。双子の弟さんたちも津々浦々で、拉致問題の解決を訴えている。

 「行って来ます」と出掛けためぐみさんが、ヘギョンちゃんと手を繋いで、「只今ァ!」と帰宅するまで、横田家の戦いは続く。

  消えし子よ 残せるサボテン花咲けり 
   かく小さくも生きよと願う
           横田早紀江

 次回はアベック連続拉致事件の背景を追ってみます。

 参考文献
 草思社 横田早紀江著 「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」
 現代コリア研究所 雑誌「現代コリア」平成8年10月号
 恒文社発行 山際澄夫著 「拉致の海流」
 徳間書店 西岡力著 金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実
 扶桑社 週刊SPA編集部著  メデイアが黙殺した〔拉致事件〕25年間の封印を解く!!


取り返せたかもしtれない久米裕(ゆたか)さん

警備員の帽子を被った久米さんの写真を見ていると、わたしは郵便屋さんを連想する。そう、あの町この町、どこにでもいそうな郵便配達のおじさんである。 

 そのどこにでもいそうな久米裕さん(当時52歳)が拉致された1977(昭和52)年9月19日の僅か10日後に、ダッカ事件が起きている。日本赤軍の西川純・板東國夫等がインドの上空で日航機をハイジャックし、バングラデシュのダッカ空港に強制着陸させ、乗客・乗員151人の人質と引き替えに、既に逮捕されている仲間の釈放と、現金を要求し、福田総理が「人の命は地球より思い」という迷セリフを吐いて、6人のテロリストたちに600万ドルの持参金まで持たせて、世界に放したのである。だが、北朝鮮工作員に拉致された警備員久米裕さんは、捜査当局からも、政府からも一顧だにされなかった。久米さんだけではない、全ての拉致被害者が、何かと言うと、命が大切とか、人命第一という我が国の為政者に、顧みられたことがなかったのである。

 久米さんは「別れた妻と復縁する」と言って休暇を取り、同僚に「能登半島にいる」と電話したのを最後に、行方を絶ち、その翌日、旅館から不審者がいるとの通報を受けて駆けつけた警察官が、東京の田無市に住む金融業の在日Rを、外国人登録証を持っていなかったのでその場で逮捕した。

 Rは当時、東京都三鷹市役所で警備員をしていた久米裕さんに、北朝鮮工作員で対外情報調査部上級幹部(当時)の金世鎬(キム・セホ)等二人と近づき、「密貿易で儲け話しがある」と戸籍謄本をとらせてから、能登半島の宇出津(うしつ)の旅館に誘いだし、海岸で北朝鮮工作員に引き渡したのである。

 逮捕されたRは、金世鎬から、50才前後の身よりのいない男性を、戸籍謄本をとらせてから拉致するように指示されたと自白した。拉致の目的は明かだ。拉致した男性に、工作員がなりすますことである。(逮捕されなければ、Rが久米さんに化ける予定だったようだ)

 当局はRの自宅から乱数表、暗号解読表等の証拠も多数押収したが、「出国時の意思」を本人から確認できないからと起訴を見送り、Rは外国人登録法違反も不処分のまま釈放された。外国に拉致された人間の意志が確認出来ないから釈放するなどと言う、こんなバカな話しが果たしてあるだろうか。スパイ活動防止法がないので、乱数表も暗号表も証拠にはならない、ただの紙切れなのである。当時、能登半島付近には正体不明の怪電波が無数に飛び交っていたというのに。

 警察庁と石川県警は、今年の1月になって、ようやく金世鎬の逮捕状を取り、国際手配したが、佐藤英彦・警察庁長官は記者会見で、「警察はまだあきらめてはいないということだ」と胸を張ったとか。

 私は問いたい。何故あの時、石川県警は事件を公表しなかったのかと。もし発表していたら、世論を喚起し、政府を動かして、久米さんを奪還出来たかもしれないし、金日成・正日父子は、拉致というギャング行為を断念し、その後の拉致事件が起きなかったかもしれないのである。それだけではない、北朝鮮という犯罪国家の姿が世界中に知れ渡り、金王朝はとうの昔に崩壊していた可能性もあったのだ。もし、何らかの意図を持って、事件を世間の目に触れないようにした者がいたとしたら、万死に値する行為と言わねばなるまい。

 尚、主犯の金世鎬は、田口八重子さん拉致事件にも関与していた疑いが強いとのことである。横田めぐみさんが遭遇した怪しげな男たちの中に、金世鎬もいたかもしれない。

 では、警察庁や石川県警は事件を過小評価していたのであろうか? 否である。何故なら、公表もしなかったし、政府に報告もあげなかった事件なのに、地元警察は警察庁長官表彰を受けているのだ。これは事件の重大さゆえであろう。遅きに失したとは言え、やる気になったことはいいことである。犯人の一人、在日Rは今も東京で自由の身を満喫しているが、久米さんの消息は途絶えたままであり、昨年9月の日朝会談の発表では、「入国の記録なし」となっている。何故だろうか? これは私見だが、久米さんの入国を認めると、日本国内にも拉致組織があったことを認めることになり、「一部の冒険主義者による行為」という金正日の言い逃れが崩れると判断したからではないのだろうか。それともう一つ、久米さんの名を騙って、世界のどこかで、諜報活動をした(している)者が必ずいる筈なので、その発覚を恐れたのかもしれない。

 ところで、この事件を当局は発表しなかったが、それを知っていたマスコミが一社あった。その名は朝日新聞。

 1985(昭和60)年、韓国の情報当局に逮捕された北朝鮮工作員辛光洙(シンガンス)が原敕晁(ただあき)さんの拉致を供述し、マスコミもこれを報じたが、その時朝日は、関連した事件として、1979(昭和54)年、工作員が、山谷で知り合った小住健蔵さん(当時51才・拉致の疑いが強いが未確認)になりすまし、日本の治安当局の動きを探っていた「西新井事件」に続けて、「昭和52年にもら致?」という見出しで、久米さんの名前は仮名だが、事件の経過を報じているのである。つまり知っていたのである。何故、朝日は事件が起きたとき、この大特ダネを報道しなかったのか? もし、報道をしていたら、先に言ったように、その後の拉致事件は起きなかったかもしれないのである。マスコミの使命を忘れた朝日新聞社も又、万死に値すると言わざるを得ない。

 どこにでもいる郵便配達のおじさんを思わせる久米裕さんも既に77才、いまではどこにでもいるおじいさんになっていることだろう。生まれ育った日本の地で、静かな余生を過ごさせてあげたい。他の被害者と違って久米さんには家族がいない。だから、我々同胞が一段と声を張り上げて叫ばねばならない。

 「北朝鮮は久米裕さんを返せ」と!

 次回は、まだ中学生だった横田めぐみさんが拉致された背景に迫って見るつもりです。

 参考文献
 恒文社発行 山際澄夫著 「拉致の海流」
 徳間書店 西岡力著 金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実
 扶桑社 週刊SPA編集部著  メデイアが黙殺した〔拉致事件〕25年間の封印を解く!!

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田口八重子さんを見捨てた日朝国交正常化交渉
 大韓航空機爆破事件が起きる2年前の1985年2月に、韓国安企部が原敕晁(ただあき)さんの旅券を所持していた北朝鮮工作員辛光洙(シンガンス)を逮捕し、北朝鮮による拉致事件が初めて発覚(1977年の久米裕さん拉致事件は在日Aを処分保留のまま釈放)しているのだが、何故か日本政府は動こうとしなかった。(辛光洙は2000年に、大統領恩赦を受け北に帰国するが、釈放嘆願書に、土井たか子社民党委員長や渕上貞雄副党首、村山富市元首相、民主党の菅直人代表、江田五月元科学技術庁長官、複数の公明党議員などが署名している) 

1988年1月に、金賢姫が、自分の日本化教師李恩恵は北朝鮮によって拉致された日本女性であると証言してから二月後、梶山静六国家公安委員長が、拉致事件に北朝鮮が関与していることが濃厚であると国会で答弁し、政府が初めて北朝鮮の関与を認めた(記事にしたのは産経と日経だけ、他紙は黙殺)。ところが2年後に平壌を訪れた金丸・田辺訪朝団は、首魁金日成と会談したにもかかわらず、拉致のらの字も持ち出さず、マスゲームに鼻の下を伸ばし、北に対する戦後補償という不思議な土産を持って帰国したのである。

 かくて4ヶ月後の1991年1月、第1回日朝国交正常化交渉が開催されたが、両国主席代表の演説に拉致の二文字は見あたらない。代わりに出てきたのが、北へ帰還した日本人妻の帰国問題である。互いが人道という単語を連発し、自ら望んで北朝鮮に渡った人たちの一時帰国に焦点が合わされてしまった。両国代表団は拉致問題を隠蔽する事に見事成功したのである。

 だがその頃、警察庁は日本人李恩恵を特定するため、金賢姫に接触していた。捜査官は、日本海の海岸で行方不明になった奥土祐木子(現姓蓮池)さん、浜本富貴恵(現姓地村)さん、増元るみ子さん、ホームステイ先のロンドンで消息を絶った有本恵子さんを初め、大勢の行方不明者の写真を見せたが、そのどれにも、彼女は首を縦に振ろうとはしなかった。

 そして5月14日、捜査官が差し出した最後の一枚を手にした時、金賢姫の大きな瞳は一瞬凝固し、次の瞬間には、大粒の涙が零れていた。

 数日後、埼玉県警は匿名を条件に、李恩恵は田口八重子さんである可能性が高いと発表した。

 田口さんは1955年8月10日生まれで、拉致された当時は22歳、東京都豊島区に居住し、飲食店店員をしていたが、高田の馬場のベビーホテルに3歳と1歳のお子さんを預けたまま行方不明になっていたのである。

 彼女が拉致されたのは、新潟か、宮崎の青島海岸の可能性が高いが、どちらと断定するには至っていない。二人の子供をベビーホテルに預けて出かけており、たまたま海岸にいたため拉致されたアベック蒸発事件とは情況が明らかに違っている。田口さんを拉致組織が最初からターゲットに選んで接触し、言葉巧みに誘い出して拉致したものと推定できる。つまり、日本国内に拉致をする、又は幇助する組織が存在しているのである。

 李恩恵が、日本人田口八重子さんであると判明した以上、それまで拉致問題を棚上げにしていた日本政府も、交渉の席で取りあげざるを得なくなり、5月20日に北京で行われた3回目の交渉で、日本側代表中平立代表は田
口八重子さんについて発言した。

 「貴国についての情報不足により生じている日本国内の不安感は解消されていない。貴国がさらに透明度を高めていくように強く希望する」(朝日新聞・5月20日)

 田口八重子も、李恩恵という名も口から出ていない。拉致問題で北朝鮮を深追いしないというのが、我が国の方針だったからである。これでは提起したことにはならない。北の代表が李恩恵の問題は出なかったと言ったのも当然であろう。

 翌日、日本側は再びこの問題を提起するが、これまた固有名詞抜きで、「金賢姫の教育係りをしていた日本女性の身元が分かったので、消息を調査してほしい」と及び腰で言っただけである。北朝鮮は「共和国を信用出来ない国であるとする企みで、断固拒否し、撤回を求める」と反発したまま3回目の交渉は終わった。

 4回目に入る前に、李恩恵問題をどうするかという事前協議が行われ、北朝鮮が消息調査に応じるということで、話しがついたが、北は会談直前になって、身元調査には応じられないと態度を豹変した。その結果、本交渉は開けず、2日目の実務交渉で、まことに奇妙な合意をしたのである。

 「李恩恵問題は本交渉とは切り離し、日本側は身元確認の調査を求める立場を確保する代わりに、北朝鮮からの調査の約束は求めない」

 分かり安く言えば、田口八重子さんのことは本交渉の議題にはしない。実務協議で日本側が要求するが、北朝鮮側はそれに答える必要はないということである。

 かくて日本人田口八重子さんは、祖国の政府から見捨てられた。

 何故、政府は田口さんを見捨てたのであろうか?

 拉致問題に固執しすぎて、交渉が決裂すると、北東アジアの安定が脅かされるからといった説もあるが、そうではない。北朝鮮に諸々の賠償や援助をすることによって、利権を得られる連中が圧力を掛けたからである。

 自民党の実力者金丸信氏と共に訪朝した田辺誠社会党委員長は、次のような発言をしている。

 「交渉の議題に直接かかわりのない問題を持ち出したのは日本だ。議題とすることが、今日の国際的慣行にかなうかどうかは常識でわかる。北朝鮮の堅い態度は理解できる」(1991年9月2日・読売新聞)

 常識の尺度が常人とは違うようである。

 見捨てられたのは、田口さんだけではなかった。3年前に梶山国家公安委員長が北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であると言及した3組のアベック、地村保志さん・浜本富貴恵さん、蓮池薫さん・奥土祐木子さん、市川修一さん・増元るみ子さん、それに大阪のコック原敕晁さんも、顧みられることはなかったのである。

 その後の実務交渉で、日本側は李恩恵の調査を要求することにより、さも言うべきことを言っているかのように、表面を糊塗してきたが、第8回目の実務者協議の冒頭、北朝鮮側は「ありもしない日本人女性の問題を持ち出すのは、共和国の尊厳を傷つけるものだ」と言って、席を蹴り、交渉は決裂した。

 1994年に村山内閣が発足し、翌年訪朝した「自社さ」訪朝団(渡辺美智雄団長)は、「前提なしの国交正常化交渉」に合意し、米支援へと進んで行くのである。

 大韓航空機爆破事件をいまだに韓国の陰謀と言い張り、金賢姫の存在を認めない北朝鮮から、田口八重子さんを奪還するのは容易なことではない。兄の飯塚繁雄さんは、テレビのインタビューでこう言った。「わたしも花束を持って、いつの日か、羽田に妹を迎えに行きたい」。二人のお子さんも立派に成長なされたとのこと。田口八重子さんが、政府専用機のタラップを降りて、花束に包まれるその日まで、戦いは続く。

 最後に金賢姫が李恩恵先生に教わった歌をご紹介しよう。

 ドナドナ
 作曲 SECUNDA SHOLOM SHOLEM
 作詞 安井かずみ

 ある晴れた昼下がり 市場へ続く道
 荷馬車がゴトゴト子牛を乗せてゆく
 可愛い子牛 売られてゆくよ
 悲しそうな瞳で観ているよ
 ドナ・ドナ・ドナ・ドーナ 子牛を乗せて
 ドナ・ドナ・ドナ・ドーナ 荷馬車が揺れる

 この童謡の奥底には、民族をバラバラにされたユダヤ人の悲しみが潜んでいるという。
 次回は、表面化した中では最も古い、久米裕さん拉致事件を紐解いてみるつもりだ。

 参考文献
 恒文社発行 山際澄夫著 「拉致の海流」
 文芸春秋社発行 金賢姫著 「忘れられない女(ひと) 李恩恵先生との二十ヵ月」
 徳間書店 西岡力著 金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実
 扶桑社 週刊SPA編集部著  メデイアが黙殺した〔拉致事件〕25年間の封印を解く!! 

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大韓航空機爆破事件
1987年11月。28日から29日へと日付が代わる前後にバグダットを飛び立った大韓航空機858便は、アブダビ空港へ午前3時に到着、15人の客が降り、新たな乗客を乗せて、1時間後に飛び立ったが、座席の上のロッカーに、持ち主の手を離れたショッピングバッグが放置されていることを、誰一人気づいてはいなかった。バッグの中には,爆薬が仕掛けられたラジオと、ウィスキーに似せた液体の爆発物が入っていた。時限爆弾である。客のほとんどは韓国人で、行き先はソウル。どの荷物も家族への土産でふくれ上がっている。だが、彼らはついに故郷の土を再び踏むことは出来なかった。土産ももちろん届かない。韓国時間午後2時5分、858便はアンダマン海域の上空で、砕け散ったのである。乗客乗員あわせて115人、助かった者は一人もいない。

 アブダビ空港で降りた乗客の中に父子を名乗る二人連れがいた。パスポートに記された名前は、男が蜂谷新一、69歳。頭髪は真っ白で、頬がこけたどす黒い顔には、精気というものがまるで感じられない。胃に腫瘍が出来ていて、時折襲ってくる激痛に悩まされていたのである。
 女は真由美、27歳。男とは対照的に、健康美に溢れ、吸い込まれるような瞳は、青く輝く湖を思わせ、適度に陽に焼けた肌は、太陽の光を独り占めしているかのようであった。
 空港を出た二人は、何喰わぬ顔をして、市内のホテルにチェックインし、夜が明けると、乗客たちの運命に思いを馳せることもなく、悠然と市内見物に出掛けた。だが、二人は確実に包囲されていた。ホテルに戻ると、支配人と日本大使館から、パスポートナンバーの照会を求める電話が相次いで入り、一息する間もなく、韓国大使館員がやってきたのである。大使館員には、日本人で押し通して、辛うじて追求を逃れたが、翌日、空港のパスポート・コントロールを過ぎたところで、職員に取り囲まれ、別室に連れていかれ、そこにいた日本大使館員に、二人のパスポートは偽造されたものであり、日本に連行すると告げられた。万事休すである。「真由美」はフィルターに青酸カリが入っているタバコの箱を、バッグから、上着のポケットに移した。

 別々の部屋で身体検査を受けたのち、二人は再び一緒になったが、ソファアに深々と腰を落とした男は、胸から取り出したタバコをくわえると、一呼吸置くこともなく、そのフィルターをかみ切った。女もそれに続こうとしたが、異変を知った警官が「真由美」のそれを払い落としたため、全部を飲むことが出来なかった。男は即死したが、意識を失い救急車で病院に運ばれた「真由美」は、辛うじて一命を取り止めた。 

 男の名前は金勝一、67歳。北朝鮮のベテラン工作員であった。

 「真由美」はソウルへ護送される飛行機の中で、今度は舌をかみ切ろうとしたため、口の中にプラスチックをはめこまれ、上から、太い絆創膏で固定された。そして見るも哀れな姿のまま、女性捜査官に抱きかかえられるようにして、ソウル空港に姿を現したのである。
 最初は日本人、次には中国人だと言い張っていた「真由美」だが、8日目にして、本当のことをようやく語り始め、自分の名は金賢姫ですと本名を明かした。もし捕まると、それは凄い拷問を受けると教えこまれてきたのに、そんなことは一度もない。誰もが優しく接して、厳重に閉ざした心の扉をノックしてくれる。捜査官たちに車で連れ出されて眺めたソウルの町には、あらゆる商品が並び、大勢の人々が、ショッピングを楽しんでいる。南はアメリカ帝国主義という悪魔に支配され、皆、貧しく奴隷のような生活を送っていると、幼い頃から教え込まれてきたが、今、目の当たりに見る南は、自分が住んでいた北より、はるかに豊で、人々の表情も明るい。彼女の中で、これまで信じていたものが、音をたてて崩れ始めたのである。

 更にそれを決定的にしたのは、テレビで見せられたニュースで、自分に関する北朝鮮の発表を聞いた時であった。

 「金賢姫は実在しない名前で、北朝鮮に住んだこともなく、日本在住の北朝鮮系の女性が、写真(七才の時、韓国の外交官に花束を贈った時のもの)に写っているのは自分だと名乗り出た……」

 忠誠を誓った祖国から、まるで雑巾のように捨てられたことを知ったのだ。

 外交官の家庭に生まれた彼女は、子供の時から、エリートとしての道を歩き、工作員としての厳しい訓練を受けてきた。そして、こたびの任務にあたり、偉大なる首領様の息子で、親愛なる指導者金正日様から、親書まで頂戴した。それは大韓航空機を爆破し、韓国の威信に打撃を与え、1988年に開催されるオリンピック参加国に恐怖心を植え付けるという内容で、全ては秘密裏に行われなければならないと結ばれていた。

 親書を読み終えた賢姫は、感動で胸が打ち震えるのを覚え覚えた。雲の上の人から手紙を貰えるとは、まるで夢のようである。彼女はなんとしても、この任務を成し遂げようと心に誓った。

 計画は見事に成功したが、囚われの身となったため、祖国から見捨てられたのである。
 年が替わった1月15日、賢姫は会見で衝撃的な告白をした。日本語や日本の習慣を教えてくれた李恩恵(リウネ)先生は、北朝鮮工作員によって拉致された日本人ですと。

 この驚くべきニュースは世界中を駆けめぐり、人々は、我が目、我が耳を疑った。国家が拉致という恥じずべき犯罪行為をしていたとは、にわかに信じがたいことだったのである。だがこれが初めてではなかった。それ以前に最少でも二件、久米祐さん、横田めぐみさんが拉致されていたのである。

 警察庁は、全国の警察に行方不明者のリストを洗い出し、李恩恵に該当する人物がいないか調査するよう指示をしたが、埼玉県川口市の田口八重子さんと判明するのは、それから3年後の1981年5月まで待たねばならなかった。

 金賢姫は自著『忘れられない女(人) 李恩恵先生との二十ヵ月』で、二人で過ごした日々のエピソードを記しているが、こんな件がある。

 「李恩恵こと田口八重子さんが、山道にあった墓前に線香代わりのタバコをさして泣いていた」

 肉親か、親しい方の命日だったのかもしれない。

 田口さんの悲しみの涙は今だに乾いていない。喜びの涙に変わるのは、政府特別機で羽田に降り、お帰りなさいの花束を受け取った時である。

 金日成・金正日父子は、大韓航空機爆破で115人の尊い命を奪ったばかりか、二人の女性の人生をも弄んだのだ。

 自国民が拉致されたなら、政府は全力で奪還に取り組まねばならないのは自明の理である。だが、北朝鮮による拉致が明らかになったこの時、日本政府の取った態度は……。

 次回は、田口さんを見捨てた日朝国交正常化交渉にスポットを当ててみたいと思う。

 参考文献
 恒文社発行 山際澄夫著「拉致の海流」
 文芸春秋社発行 金賢姫著「忘れられない女(ひと) 李恩恵先生との二十ヵ月」
 新潮社発行 アイリーン・マクドナルド著・竹林卓訳「テロリストと呼ばれた女たち」  

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