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| 金正日の僕(しもべ)よど号ハイジャック犯とその妻たち | ||
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| よど号事件 | ||
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| 曽我ひとみさんの叫び 「お母さんを返して」 | ||
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| 罠に嵌った原敕晁(ただあき)さん | ||
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| 波濤の彼方に消えた3組のアベック |
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昭和53(1978)年8月15日の夕刻、富山県高岡市鳥尾の海岸を一組のカップルが歩いていた。夏の夕刻、日本中の海岸で見かける光景である。反対側から、4人の男たちが歩いてきた。白い半そでシャツにステテコ、ズック靴という異様なスタイルである。その4人組がすれ違いざま、2人に、いきなり襲いかかってきたのだ。その場に倒された男性のAさんは、後ろ手にされて手錠をかけられ、足は帯でしばられ、口にはタオルをつっこまれ、その上から、更に特性のサルグツワをはめられ、頭から、布袋をかぶせられた。女性のB子さんもほぼ同様である。4人組は2人をかついで、近くの松林に運ぶと、カムフラージュするために松の枝をかぶせた。動きはすばやく、それぞれの役目もきちんと決まっていたという。4人はそこで一言もしゃべらず、Aさんにたった一言、「静かにしなさい」と言っただけで、何かを待っていた。B子さんの体に触れるようなことも一切していない。30分ほどたったころ、近くで犬の鳴き声がした。すると4人は、2人を残したまま、あっけなくその場から姿を消した。通報を受けた高岡署は緊急配備を敷いたが、発見出来なかった。年齢は4人とも三十代半ば、赤銅色に日焼けし、たくましそうだったという。一緒に海岸にきていた家族も、当日の夕方、4人組がウロウロしていたのを目撃している。手錠、サルグツワ、布袋、ヒモなど、遺留品のほとんどは、日本では入手不可能な外国製品であった。 特異な誘拐未遂事件の発生に、警察庁は、全国の警察に類似の事件がないか、報告を求めたところ、7月7日に福井県の小浜市青井海岸で、地村保志さん・浜本富貴恵さんが、7月31日には、新潟県柏崎市の中央海岸で、蓮池薫さん・奥土祐木子さんが、8月12日には、鹿児島県日置郡吹上浜の海岸で、市川修一さん・増元るみ子さんが蒸発していることが分かった。いずれもデートに出かけた海岸から、まるで神隠しにでもあったかのように、忽然と姿を消している。全員が二十代、運転免許証や預金通帳も自宅にあり、家出や、心中の可能性はまったくなかった。水難事故の可能性も考えられるため、大規模な捜索が行われたが、遺体は見つからなかった。4件の現場は、これまでに、外国のスパイが上陸したことのある海岸に近く、事件前後に現場に不審な外国船が停泊していたという情報もあった。それに、外国を発信源とするスパイ連絡用の怪電波が急激に増えていた。 産経新聞の事件記者だった阿部雅美(現・産経スポーツ編集局長)記者が、ある人から、「日本海の方でおかしなことが起きている」と聞いたのは、事件発生から1年以上たった昭和54年の秋のことである。最初はほっておいたが、気になることがあって、日比谷図書館に日参し、日本海側にある地方紙を何年分もめくり、富山の未遂事件を発見した。 富山に飛んで、取材を始めたが、そういえば、そんなことがあったなあという雰囲気だった。だが、阿部記者は被害にあった2人の証言や4人組が残した遺留品を調べているうちに、「もしかしたら、これは、とんでもない事件なのでは」と思いはじめていた。 東京に戻ると、再び地方紙を調べまくり、地村保志さん、浜本富貴恵さんが失踪した福井を皮切りに、鹿児島、柏崎と取材した。地元では、すでに忘れられた事件だが、家族にとっては忘れられることではない。東京からの取材と聞いて驚いたが、みな、積極的に話してくれた。阿部記者は失礼な奴と怒られるのではないかと思うくらい、根掘り葉掘り失踪以前のことを尋ねた。家出や心中の可能性が少しでもあれば、記事にはならないからである。 3組のアベックには、蒸発する理由が見当たらない。溺死なら、遺体があがるはずである。その地域にいる素行不良者の行動にも、事件と結びつくようなことは何もなかった。未遂事件を最後に犯行は途絶えている。日本では見ることの出来ない遺留品、怪電波、不思議なスタイル、阿部記者は散らばっていた点を一本の線に繋げ、翌55年1月、拉致事件最初のスクープ「アベック3組ナゾの蒸発 外国情報機関が関与?」が産経新聞の紙面を飾ったのである。ところが、政府や警察、他のマスコミの態度は冷たかった。誤報・虚報扱いである。公安に踊らされたと批判するマスコミ関係者もいた。 だが、被害者の家族は違った。忽然と姿を消してから一年半、なんの手がかりもないまま、いたずらに暦は変わり、手をこまねいていた時に、ようやく情報を得ることができたのである。地獄で仏を見た思いであったろう。 あの日、地村保志さんと浜本富貴恵さんが乗っていた軽トラックは、小浜湾が望める展望台に放置されていた。ハンドルがめいっぱい切ってあり、キーはウインカーにぶら下がっている。家出や蒸発にしては不自然すぎた。行方不明から、3カ月ほどたったころから、保さんは「2人は船でどこかにつれていかれたのではないか」と思うようになっていた。能登沖などに不審船がいると新聞が報道したり、若狭湾に真っ黒な船がいたと、漁民が海上保安庁に通報する事件がおきたりしていたからである。富貴恵さんの兄浜本雄幸さんに、「ソ連にでも連れていかれたのではないか」と話をしたこともある。 産経新聞を見た保さんは、「間違いない。保志たちは外国の工作船に連れて行かれたんや」と確信を持ち、東京の検察庁まで、陳情に出向いた。応対した係官は「ソ連軍が死体の収容に使う袋だ」と説明してくれたが、捜査をするとは言わなかった。 雄幸さんは「外国工作機関が関与か」という記事を読んだとき、すっと肩の荷がおりた気になった。親子ほど歳の違う兄妹は腹違いであった。そのため、複雑な家庭が原因と噂されていたからである。富貴恵さんは10歳の時に父を失い、14歳で母親をも失うが、男ばかりの異母兄弟たちに、「ねえちゃん、ねえちゃん」と呼ばれ大切にされた。雄幸さんが父親代わりである。 蓮池薫さんと奥土祐木子さんが拉致されたのは、夏祭りの「祇園さん」の夜7月31日である。海岸にはかなりの人がいたが、少し歩くと、2人だけになった。突然、暗がりから、3.4人の男が現れ、一人が「タバコの火を貸してくれ」と言った。妙なやつらだと思った瞬間、薫さんは顔面を強打され、意識朦朧としている間に、頭から袋を被せられ、ボートに乗せられ、沖に出てから大きな船に移された。着いたところは波濤の彼方、北朝鮮の港町清津(チョンジン)である。 翌朝、一男さんと母親のシズエさんは市内の喫茶店を一軒一軒聞いて回ったが、どこにも2人が立ち寄った形跡はなかった。薫さんの自転車は待ち合わせ場所の、図書館の駐輪場に置いたままである。銀行の口座も調べてみた。引き出されてはいない。殺されたか、外国に拉致されたか、一男さんは何故かそう思った。警察には三日後に届け出た。一生懸命捜索してくれたが、何の手がかりも得られなかった。 奥土夫妻は身元不明者の死体が写っている写真を見たり、蓮池秀量・ハツイ夫婦と、家出人の公開捜査が売り物のテレビに出演したり、占い師に占ったりしてもらったが、どれも無駄足であった。 蓮池夫妻は地元で「浜茶屋」と呼ぶ海の家や民宿を残らず訪ね、柏崎から、新潟市の近郊まで、100キロの海岸を休みのたびに歩いた。東京でテレビに出たときは、情報を頼りに山谷を歩き回ったりもした。兄の透さんは、名古屋にいるという情報を聞き、名古屋市内のパチンコ屋を何百件と探し歩いた。兄弟が幼いころ、市役所に勤務するハツイさんに代わって、2人を育てた祖母のキクイさんは神仏にすがり、庭に白い観音像を祀り、朝晩の祈りを欠かさなかった。占い師のところにも足を運ぶと、不思議なことに、どこでも同じことを言われた。「死んではいない。だが、帰ってくるまでには長い時間がかかる」。 地村保志さん、浜本富貴恵さん、市川修一さん、増元るみ子さんは写真入りで実名が報道されたが、蓮池薫さんと、奥土祐木子さんは「中大3年生」、「美容師」となっていた。まだ実名は出さないほうがいいと、祐木子さんの父親一男さんが判断したからである。 8月12日の昼過ぎ、ようやく目を覚ました増元照明さんは、デートに出かけようとする姉のるみ子さんを玄関で見送った。ほかの家族は出払っている。外には市川修一さんが車で迎えにきていた。市川さんの存在を聞いたのは昨日の夜である。今日は、吹上浜に夕日を見に行くと言っていた。だがその夜、2人はついに戻らなかった。母親の信子さんが、朝方、市川家に電話を入れた。修一さんは当時、お姉さんの嫁ぎ先に下宿していた。電話に出たお姉さんはあわてて別棟の部屋を見に行ったが、やはり帰っていなかった。午前中いっぱい待ってみた。だが音沙汰がない。何かあったに違いないと近所の警察に届けたが、実際に何か起きなければ事件とは見なせないと言われた。 翌朝、両家は二台の車に分譲して、吹き上げ浜に向かい、鍵がかかったまま放置されている市川さんの愛車を発見した。車内には、るみ子さんのカメラやバッグがおいてある。周辺を探すと、市川さんのサンダルが片一方だけ見つかった。事件に巻き込まれたことは間違いない。翌日から、警察による大捜索が始まった。富山県で未遂事件が起きた日である。だが、何の手がかりも得られないまま、2週間後に捜査は打ち切られた。 そして1年半後、取材に訪れた阿部記者から、北朝鮮に拉致された疑いがあると聞かされたのである。 だが、そこでまた、糸はぷっつりと切れた。北朝鮮の仕業と言っても状況証拠だけである。どこの役所に行けばいいのかも分からない。もし外務省や人権擁護局に行ったとしても、相手にされなかったであろう。有本恵子さんのように、北朝鮮にいるとの手紙が届いたり、元北朝鮮工作員の安明進さんが被害者の目撃証言をしても動かなかったのだから……。 昭和60(1985)年4月、原敕晁(ただあき)さんを拉致した北朝鮮工作員辛光洙(シンガンス)が韓国で逮捕されたが、日本の政府はピクリともしなかった。そして昭和62(1987)年、大韓航空機爆破事件がおき、逮捕された金賢姫が、翌年1月に「李恩恵(リウネ)」という教育係りの日本人女性がいたことを証言し、3人の女性の中の一人ではないかと、大騒ぎになった。中でも名前に恵の一字がついている浜本富貴恵さんではないかと、浜本家には取材陣が殺到した。だが、別人と分かると、騒ぎはすぐに収束した。それから、半月ほど後、共産党参議院議員秘書の兵本達吉さんが、6件の家を訪ねて、聞き取り調査をし、3月には橋本敦議員が兵本さんの調査資料に基づいて質問をし、答弁に立った梶山静六国家公安委員長が「昭和53年以来の一連のアベック行方不明事犯、おそらくは北朝鮮による疑いが濃厚であります」という証言をして、政府として、初めて北朝鮮の関与を認めたが、これを報道したのは、産経と日経だけであった。 敵は北朝鮮だけではなかった。与野党の国会議員や外務省、マスコミなどが、事件解明の足を引っ張ったが、阿部雅美記者、兵本達吉さん、石高健次さんらの呼びかけで、平成10年には家族会を結成し、世論に訴え、政府を動かし、昨年10月、曽我ひとみさんと共に、地村保志さん、浜本富貴恵さん、蓮池薫さん、奥土祐木子さんが25年ぶりに帰国した。だが、市川修一さん、増元るみ子さんは未だに帰国していない。2人は死亡したという発表は、他の人同様、とても信じられる内容ではない。市川さんと増元さんが提出したとされる結婚登録申請書はどちらも生年月日が違うのである。当人が本当に書いたものなら、決して間違えないであろう。市川さんが死亡したとされる昭和54(1979)年9月4日から、12年もたった91年8月に安明進氏が、市川さんを金正日軍事大学で目撃しているのである。 増元るみ子さんの父正一さんは、照明さんに「おれは日本を信じる。お前も信じろ」と言い残し、昨年10月17日、鬼籍に入った。地村さんの母と志子さんは、保志さんが拉致されてから、「やっちゃん、やっちゃん」と泣いてばかりいたが、二月ほどたったころから、わけの分からないことをつぶやきながら、家の周りを歩きまわるようになり、やがて入院し、寝たきりとなってしまった。そして事件から25年が過ぎた平成14(2002)年4月、74歳でその生涯を閉じた。あと半年生きていたら、息子に会えたのである。 蓮池薫さんの祖父、重栄さんは、昭和60(1985)年、「薫に会いたい、会いたい」と言いながら他界した。母親代わりだった祖母キクイさんは、薫さんが帰国したのを見届けて、安心したのだろうか、平成15年5月9日、92歳で黄泉の国に旅立った。 北朝鮮に絶対に戻さないと最初に決めたのは祐木子さんの兄、奥土雄幸さんである。その雄幸さんが、小泉総理が訪朝する前日に福田官房長官に言った言葉を、この項の締めくくりとしたい。 それは、小泉総理が日朝首脳会談を前にして、政治生命をかけるという発言をしたとの報道を「そんなことは言っていない」と否定したことに関してだった。 参考文献 |
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子供を除けば、横田めぐみさんの名前と顔を知らない日本人はおそらくいないであろう。僅か13才で拉致され、愛する父母と青春を奪われためぐみさんは,拉致事件のシンボル的存在として、今も私たちに語りかけている。「私を一日も早く取り戻しに来てください」と。 いつもの帰宅時間を過ぎても、めぐみさんが帰って来ないので、心配になった早紀江さんが学校に行ってみると、クラブ活動の生徒はとっくに帰ったと言う。あちらこちらを捜し回ったが、見つからない。急ぎ帰宅した滋さんや、駆けつけた学校の先生も加わって探したが、どこにも見当たらない。まるで神隠しである。届け出を受けた警察は、二頭の警察犬を連れてきた。めぐみさんと友達が別れた交差点から、海の方に歩き始めた二頭のシェパードは自宅へ曲がる角までくると、立ち止まり、くるくると回るだけで、それ以上進もうとしない。そこで匂いが消えてしまったのである。車で拉致されたのだ。自宅まで距離にして、僅か250メートルである。警察の必死の捜査にも関わらず、手がかりが掴めぬまま一週間が過ぎ、公開捜査に踏み切ったが、進展は見られず、それから21年後に、突然、「お嬢さんは北朝鮮にいる」という知らせが飛び込んでくるのである。この間のご一家の辛苦については、早紀江さんがお書きになった「めぐみ、お母さんがきっと助けてあげる」をお読みください。 1997(平成9)年1月21日、既に定年退職した滋さんの元に、日銀のOB会から、参議院議員の橋本敦氏(共産党)の秘書をしている兵本達吉(ひょうもとたつきち)さんに連絡をして下さいとの電話が入った。もしやめぐみのことかと、電話をすると、「お宅のお嬢さんが北朝鮮で生きているという情報が入りました。」と兵本氏は言った。それまで、めぐみさんと北朝鮮を結びつけて考えたことなどなかった滋さんの驚きはいかばかりであっただろうか。わたしには想像もつかない。 現代コリアには大阪「朝日放送」のプロデューサーだった石高健次(いしだかけんじ)氏の一文が載っていた。氏は1981年、在日コリアンへの差別を告発した「ある手紙の問いかけ」でJCJ奨励賞を受賞し、1992(平成4)年に制作した「楽園から消えた人々」〜北朝鮮帰国者の悲劇〜をきっかけにして、拉致問題に関わって行くようになり、「闇の波濤から」〜北朝鮮発・対南工作〜・「空白の家族たち」〜北朝鮮による日本人拉致疑惑〜という二つの作品を制作し、拉致事件は北朝鮮による組織的犯罪であることを解明した。兵本氏や石高氏、又救う会の方たちのことは、稿を改めて、いずれ記すつもりである。 〔現代コリア掲載「私が『金正日の拉致指令』を書いた理由」より抜粋〕 双子は、めぐみさんではなく、弟さんなのだが、拉致された少女の件は取り調べた工作員から情報を得た複数の国家安全企画部のメンバーから聞いた話なので、いつの間にか、「双子の弟がいる」が、「わたしは双子の妹」に変化したのかもしれない。 そして元北朝鮮工作員安明進氏が、めぐみさんの写真を見て、工作員を養成する「金正日政治軍事大學」に在学していた1988(昭和63)年から1991(平成3)年にかけて、よく似た女性を大學の中で何度か見かけたと証言した。その後、横田夫妻は韓国で、安氏に直接会い、安氏は涙ながらにめぐみさんを見かけたことを告白したのである。 だがそこで、めぐみさんに関する情報はパッタリと途絶えてしまい、それから5年後の日朝会談で、拉致被害者13人のうち一人は、北朝鮮内に入国しておらず、めぐみさんをはじめとする8人の被害者は既に死亡し、生存しているのは、日本側の拉致リストに入っていなかった曽我ひとみさんを入れて5人との発表が、北朝鮮側からなされたのである。くわえて、めぐみさんには娘さんがおり、平壌で暮らしていることも明かにされた。だが、北朝鮮側の発表は矛盾に満ちたもので、到底信用出来るものではなかった。めぐみさんは1993年3月にうつ病のため入院していた病院で自殺したとなっているが、病院の裏に埋葬した遺骨は、めぐみさんの夫が、その後、別の場所に移してしまったので、行方不明だという。夫は平壌に住んでいる。当局が聞けば、どこにあるか、直ぐに分かる話である。他の人の遺骨も、大洪水やダム決壊などによって墓ごと流出したという。唯一、松木薫さんの遺骨と称するものだけが存在していたが、ご丁寧に二回も火葬されていた。日本に持ち帰られた遺骨は、DNA鑑定の結果、60代の女性であると判明した。二度焼けば、鑑定は不可能だろうと北朝鮮は読んだのであろう。まさに浅知恵である。気の毒なのは、骨になってから、はるばる異国に送られてきた女性だ。彼女もまた金正日独裁政権の被害者と言っても過言ではあるまい。 死亡と伝えられた8人は、平壌会談以前に、断片的ながらも、消息が伝えられた人たちばかりで、その大部分は安氏や金賢姫の証言である。金正日はこれらの証言を否定する必要があったのだ。安明進証言を認めれば、金賢姫のことも認めることになり、それは大韓航空機爆破というテロを認めることに繋がってしまうからだ。 北朝鮮の工作員は何故、まだ13歳の少女を拉致したのであろうか。安氏が工作員から聞いた話しによると、海岸から脱出しようとした時、めぐみさんに姿を見られたからだという。だが早紀江さんの推理は違う。相手は誰でも良かった。たまたま遭遇したのが、めぐみさんだったのである。わたしもそう思う。夜道だったので、13歳の少女とは気づかなかっただけである。 孫のヘギョンちゃんに会いに、平壌に行きたいと一時は考えた滋さんも、今は悩みが吹っ切れ、家族会の会長として、日本どころか、米国や韓国にも飛んで行き、全ての拉致被害者救出のために奮闘しておられる。お母さんの早紀江さんは、講演の折り、必ず、飢えに苦しむ北朝鮮の人たちのことにも言及し、金正日を倒すことが、拉致問題の解決と、北朝鮮2000万の人々を解放することだと説き、多くの人々に感銘を与えている。双子の弟さんたちも津々浦々で、拉致問題の解決を訴えている。 「行って来ます」と出掛けためぐみさんが、ヘギョンちゃんと手を繋いで、「只今ァ!」と帰宅するまで、横田家の戦いは続く。 消えし子よ 残せるサボテン花咲けり 次回はアベック連続拉致事件の背景を追ってみます。 参考文献 |
| 取り返せたかもしtれない久米裕(ゆたか)さん | ||
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| 田口八重子さんを見捨てた日朝国交正常化交渉 |
| 大韓航空機爆破事件が起きる2年前の1985年2月に、韓国安企部が原敕晁(ただあき)さんの旅券を所持していた北朝鮮工作員辛光洙(シンガンス)を逮捕し、北朝鮮による拉致事件が初めて発覚(1977年の久米裕さん拉致事件は在日Aを処分保留のまま釈放)しているのだが、何故か日本政府は動こうとしなかった。(辛光洙は2000年に、大統領恩赦を受け北に帰国するが、釈放嘆願書に、土井たか子社民党委員長や渕上貞雄副党首、村山富市元首相、民主党の菅直人代表、江田五月元科学技術庁長官、複数の公明党議員などが署名している) 1988年1月に、金賢姫が、自分の日本化教師李恩恵は北朝鮮によって拉致された日本女性であると証言してから二月後、梶山静六国家公安委員長が、拉致事件に北朝鮮が関与していることが濃厚であると国会で答弁し、政府が初めて北朝鮮の関与を認めた(記事にしたのは産経と日経だけ、他紙は黙殺)。ところが2年後に平壌を訪れた金丸・田辺訪朝団は、首魁金日成と会談したにもかかわらず、拉致のらの字も持ち出さず、マスゲームに鼻の下を伸ばし、北に対する戦後補償という不思議な土産を持って帰国したのである。 かくて4ヶ月後の1991年1月、第1回日朝国交正常化交渉が開催されたが、両国主席代表の演説に拉致の二文字は見あたらない。代わりに出てきたのが、北へ帰還した日本人妻の帰国問題である。互いが人道という単語を連発し、自ら望んで北朝鮮に渡った人たちの一時帰国に焦点が合わされてしまった。両国代表団は拉致問題を隠蔽する事に見事成功したのである。 だがその頃、警察庁は日本人李恩恵を特定するため、金賢姫に接触していた。捜査官は、日本海の海岸で行方不明になった奥土祐木子(現姓蓮池)さん、浜本富貴恵(現姓地村)さん、増元るみ子さん、ホームステイ先のロンドンで消息を絶った有本恵子さんを初め、大勢の行方不明者の写真を見せたが、そのどれにも、彼女は首を縦に振ろうとはしなかった。 そして5月14日、捜査官が差し出した最後の一枚を手にした時、金賢姫の大きな瞳は一瞬凝固し、次の瞬間には、大粒の涙が零れていた。 数日後、埼玉県警は匿名を条件に、李恩恵は田口八重子さんである可能性が高いと発表した。 田口さんは1955年8月10日生まれで、拉致された当時は22歳、東京都豊島区に居住し、飲食店店員をしていたが、高田の馬場のベビーホテルに3歳と1歳のお子さんを預けたまま行方不明になっていたのである。 彼女が拉致されたのは、新潟か、宮崎の青島海岸の可能性が高いが、どちらと断定するには至っていない。二人の子供をベビーホテルに預けて出かけており、たまたま海岸にいたため拉致されたアベック蒸発事件とは情況が明らかに違っている。田口さんを拉致組織が最初からターゲットに選んで接触し、言葉巧みに誘い出して拉致したものと推定できる。つまり、日本国内に拉致をする、又は幇助する組織が存在しているのである。 李恩恵が、日本人田口八重子さんであると判明した以上、それまで拉致問題を棚上げにしていた日本政府も、交渉の席で取りあげざるを得なくなり、5月20日に北京で行われた3回目の交渉で、日本側代表中平立代表は田口八重子さんについて発言した。 「貴国についての情報不足により生じている日本国内の不安感は解消されていない。貴国がさらに透明度を高めていくように強く希望する」(朝日新聞・5月20日) 田口八重子も、李恩恵という名も口から出ていない。拉致問題で北朝鮮を深追いしないというのが、我が国の方針だったからである。これでは提起したことにはならない。北の代表が李恩恵の問題は出なかったと言ったのも当然であろう。 翌日、日本側は再びこの問題を提起するが、これまた固有名詞抜きで、「金賢姫の教育係りをしていた日本女性の身元が分かったので、消息を調査してほしい」と及び腰で言っただけである。北朝鮮は「共和国を信用出来ない国であるとする企みで、断固拒否し、撤回を求める」と反発したまま3回目の交渉は終わった。 4回目に入る前に、李恩恵問題をどうするかという事前協議が行われ、北朝鮮が消息調査に応じるということで、話しがついたが、北は会談直前になって、身元調査には応じられないと態度を豹変した。その結果、本交渉は開けず、2日目の実務交渉で、まことに奇妙な合意をしたのである。 「李恩恵問題は本交渉とは切り離し、日本側は身元確認の調査を求める立場を確保する代わりに、北朝鮮からの調査の約束は求めない」 分かり安く言えば、田口八重子さんのことは本交渉の議題にはしない。実務協議で日本側が要求するが、北朝鮮側はそれに答える必要はないということである。 かくて日本人田口八重子さんは、祖国の政府から見捨てられた。 何故、政府は田口さんを見捨てたのであろうか? 拉致問題に固執しすぎて、交渉が決裂すると、北東アジアの安定が脅かされるからといった説もあるが、そうではない。北朝鮮に諸々の賠償や援助をすることによって、利権を得られる連中が圧力を掛けたからである。 自民党の実力者金丸信氏と共に訪朝した田辺誠社会党委員長は、次のような発言をしている。 「交渉の議題に直接かかわりのない問題を持ち出したのは日本だ。議題とすることが、今日の国際的慣行にかなうかどうかは常識でわかる。北朝鮮の堅い態度は理解できる」(1991年9月2日・読売新聞) 常識の尺度が常人とは違うようである。 見捨てられたのは、田口さんだけではなかった。3年前に梶山国家公安委員長が北朝鮮による拉致の疑いが濃厚であると言及した3組のアベック、地村保志さん・浜本富貴恵さん、蓮池薫さん・奥土祐木子さん、市川修一さん・増元るみ子さん、それに大阪のコック原敕晁さんも、顧みられることはなかったのである。 その後の実務交渉で、日本側は李恩恵の調査を要求することにより、さも言うべきことを言っているかのように、表面を糊塗してきたが、第8回目の実務者協議の冒頭、北朝鮮側は「ありもしない日本人女性の問題を持ち出すのは、共和国の尊厳を傷つけるものだ」と言って、席を蹴り、交渉は決裂した。 1994年に村山内閣が発足し、翌年訪朝した「自社さ」訪朝団(渡辺美智雄団長)は、「前提なしの国交正常化交渉」に合意し、米支援へと進んで行くのである。 大韓航空機爆破事件をいまだに韓国の陰謀と言い張り、金賢姫の存在を認めない北朝鮮から、田口八重子さんを奪還するのは容易なことではない。兄の飯塚繁雄さんは、テレビのインタビューでこう言った。「わたしも花束を持って、いつの日か、羽田に妹を迎えに行きたい」。二人のお子さんも立派に成長なされたとのこと。田口八重子さんが、政府専用機のタラップを降りて、花束に包まれるその日まで、戦いは続く。 最後に金賢姫が李恩恵先生に教わった歌をご紹介しよう。 ドナドナ 作曲 SECUNDA SHOLOM SHOLEM 作詞 安井かずみ ある晴れた昼下がり 市場へ続く道 荷馬車がゴトゴト子牛を乗せてゆく 可愛い子牛 売られてゆくよ 悲しそうな瞳で観ているよ ドナ・ドナ・ドナ・ドーナ 子牛を乗せて ドナ・ドナ・ドナ・ドーナ 荷馬車が揺れる この童謡の奥底には、民族をバラバラにされたユダヤ人の悲しみが潜んでいるという。 次回は、表面化した中では最も古い、久米裕さん拉致事件を紐解いてみるつもりだ。 参考文献 恒文社発行 山際澄夫著 「拉致の海流」 文芸春秋社発行 金賢姫著 「忘れられない女(ひと) 李恩恵先生との二十ヵ月」 徳間書店 西岡力著 金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実 扶桑社 週刊SPA編集部著 メデイアが黙殺した〔拉致事件〕25年間の封印を解く!! Copyright (C) 2004. RACHII-NO-HAIKEI. All Rights Reserved. |
| 大韓航空機爆破事件 |
| 1987年11月。28日から29日へと日付が代わる前後にバグダットを飛び立った大韓航空機858便は、アブダビ空港へ午前3時に到着、15人の客が降り、新たな乗客を乗せて、1時間後に飛び立ったが、座席の上のロッカーに、持ち主の手を離れたショッピングバッグが放置されていることを、誰一人気づいてはいなかった。バッグの中には,爆薬が仕掛けられたラジオと、ウィスキーに似せた液体の爆発物が入っていた。時限爆弾である。客のほとんどは韓国人で、行き先はソウル。どの荷物も家族への土産でふくれ上がっている。だが、彼らはついに故郷の土を再び踏むことは出来なかった。土産ももちろん届かない。韓国時間午後2時5分、858便はアンダマン海域の上空で、砕け散ったのである。乗客乗員あわせて115人、助かった者は一人もいない。 アブダビ空港で降りた乗客の中に父子を名乗る二人連れがいた。パスポートに記された名前は、男が蜂谷新一、69歳。頭髪は真っ白で、頬がこけたどす黒い顔には、精気というものがまるで感じられない。胃に腫瘍が出来ていて、時折襲ってくる激痛に悩まされていたのである。 女は真由美、27歳。男とは対照的に、健康美に溢れ、吸い込まれるような瞳は、青く輝く湖を思わせ、適度に陽に焼けた肌は、太陽の光を独り占めしているかのようであった。 空港を出た二人は、何喰わぬ顔をして、市内のホテルにチェックインし、夜が明けると、乗客たちの運命に思いを馳せることもなく、悠然と市内見物に出掛けた。だが、二人は確実に包囲されていた。ホテルに戻ると、支配人と日本大使館から、パスポートナンバーの照会を求める電話が相次いで入り、一息する間もなく、韓国大使館員がやってきたのである。大使館員には、日本人で押し通して、辛うじて追求を逃れたが、翌日、空港のパスポート・コントロールを過ぎたところで、職員に取り囲まれ、別室に連れていかれ、そこにいた日本大使館員に、二人のパスポートは偽造されたものであり、日本に連行すると告げられた。万事休すである。「真由美」はフィルターに青酸カリが入っているタバコの箱を、バッグから、上着のポケットに移した。 別々の部屋で身体検査を受けたのち、二人は再び一緒になったが、ソファアに深々と腰を落とした男は、胸から取り出したタバコをくわえると、一呼吸置くこともなく、そのフィルターをかみ切った。女もそれに続こうとしたが、異変を知った警官が「真由美」のそれを払い落としたため、全部を飲むことが出来なかった。男は即死したが、意識を失い救急車で病院に運ばれた「真由美」は、辛うじて一命を取り止めた。 男の名前は金勝一、67歳。北朝鮮のベテラン工作員であった。 「真由美」はソウルへ護送される飛行機の中で、今度は舌をかみ切ろうとしたため、口の中にプラスチックをはめこまれ、上から、太い絆創膏で固定された。そして見るも哀れな姿のまま、女性捜査官に抱きかかえられるようにして、ソウル空港に姿を現したのである。 最初は日本人、次には中国人だと言い張っていた「真由美」だが、8日目にして、本当のことをようやく語り始め、自分の名は金賢姫ですと本名を明かした。もし捕まると、それは凄い拷問を受けると教えこまれてきたのに、そんなことは一度もない。誰もが優しく接して、厳重に閉ざした心の扉をノックしてくれる。捜査官たちに車で連れ出されて眺めたソウルの町には、あらゆる商品が並び、大勢の人々が、ショッピングを楽しんでいる。南はアメリカ帝国主義という悪魔に支配され、皆、貧しく奴隷のような生活を送っていると、幼い頃から教え込まれてきたが、今、目の当たりに見る南は、自分が住んでいた北より、はるかに豊で、人々の表情も明るい。彼女の中で、これまで信じていたものが、音をたてて崩れ始めたのである。 更にそれを決定的にしたのは、テレビで見せられたニュースで、自分に関する北朝鮮の発表を聞いた時であった。 「金賢姫は実在しない名前で、北朝鮮に住んだこともなく、日本在住の北朝鮮系の女性が、写真(七才の時、韓国の外交官に花束を贈った時のもの)に写っているのは自分だと名乗り出た……」 忠誠を誓った祖国から、まるで雑巾のように捨てられたことを知ったのだ。 外交官の家庭に生まれた彼女は、子供の時から、エリートとしての道を歩き、工作員としての厳しい訓練を受けてきた。そして、こたびの任務にあたり、偉大なる首領様の息子で、親愛なる指導者金正日様から、親書まで頂戴した。それは大韓航空機を爆破し、韓国の威信に打撃を与え、1988年に開催されるオリンピック参加国に恐怖心を植え付けるという内容で、全ては秘密裏に行われなければならないと結ばれていた。 親書を読み終えた賢姫は、感動で胸が打ち震えるのを覚え覚えた。雲の上の人から手紙を貰えるとは、まるで夢のようである。彼女はなんとしても、この任務を成し遂げようと心に誓った。 計画は見事に成功したが、囚われの身となったため、祖国から見捨てられたのである。 年が替わった1月15日、賢姫は会見で衝撃的な告白をした。日本語や日本の習慣を教えてくれた李恩恵(リウネ)先生は、北朝鮮工作員によって拉致された日本人ですと。 この驚くべきニュースは世界中を駆けめぐり、人々は、我が目、我が耳を疑った。国家が拉致という恥じずべき犯罪行為をしていたとは、にわかに信じがたいことだったのである。だがこれが初めてではなかった。それ以前に最少でも二件、久米祐さん、横田めぐみさんが拉致されていたのである。 警察庁は、全国の警察に行方不明者のリストを洗い出し、李恩恵に該当する人物がいないか調査するよう指示をしたが、埼玉県川口市の田口八重子さんと判明するのは、それから3年後の1981年5月まで待たねばならなかった。 金賢姫は自著『忘れられない女(人) 李恩恵先生との二十ヵ月』で、二人で過ごした日々のエピソードを記しているが、こんな件がある。 「李恩恵こと田口八重子さんが、山道にあった墓前に線香代わりのタバコをさして泣いていた」 肉親か、親しい方の命日だったのかもしれない。 田口さんの悲しみの涙は今だに乾いていない。喜びの涙に変わるのは、政府特別機で羽田に降り、お帰りなさいの花束を受け取った時である。 金日成・金正日父子は、大韓航空機爆破で115人の尊い命を奪ったばかりか、二人の女性の人生をも弄んだのだ。 自国民が拉致されたなら、政府は全力で奪還に取り組まねばならないのは自明の理である。だが、北朝鮮による拉致が明らかになったこの時、日本政府の取った態度は……。 次回は、田口さんを見捨てた日朝国交正常化交渉にスポットを当ててみたいと思う。 参考文献 恒文社発行 山際澄夫著「拉致の海流」 文芸春秋社発行 金賢姫著「忘れられない女(ひと) 李恩恵先生との二十ヵ月」 新潮社発行 アイリーン・マクドナルド著・竹林卓訳「テロリストと呼ばれた女たち」 Copyright (C) 2004. RACHII-NO-HAIKEI. All Rights Reserved. |