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Chronology of Olivier Messiaen

オリヴィエ・メシアン年表



ENGLISH


1908 12月10日、南フランスのアヴィニョン(Avignon)に生まれる。母は詩人セシル・ソヴァージュ(Cécile Sauvage)、父は英文学者ピエール・メシアン(Pierre Messiaen)
1914 ドーフィネ地方のグルノーブル(Grenoble)に引っ越す。この土地をメシアンは後まで非常に好んだ。
1914 メシアンの父ピエールが第1次世界大戦のため召集される。
1916 クリスマスプレゼントにベルリオーズ「ファウストの劫罰」、グルック「オルフェオ」「アルチェステ」、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」のスコアを貰う。
1917 処女作「シャロットの貴婦人」を作曲。
1918 父ピエールが第1次世界大戦より帰還したのに伴い、ナント(Nantes)に引っ越す。ここで初めて音楽教師がつくことになり、ピアノをヴェロン&ゴントラン・アルクエ(Véron & Gontran Arcouët)に、和声をジェアン・ド・ジボン(Jehan de Gibon)に師事する。
1918 誕生日プレゼントとして、和声法教師ジェアン・ド・ジボンよりドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のスコアを貰う。
1919 パリに引っ越す。
1919 パリのコンセルヴァトワールに入学。
1924 1月20日、パリ郊外セーヌ=エ=ワーズ県のウーユ(Houilles)でイヴォンヌ・ロリオ(Yvonne Loriod)が生まれる。
1924 和声法2等賞(ジャン・ガロン Jean Gallonのクラス)。
1926 対位法・フーガ1等賞(ジョルジュ・コーサード Georges Caussadeのクラス)。
1927 ピアノ伴奏1等賞(César Abel Estyleのクラス)。
1928 オルガンと即興演奏1等賞(マルセル・デュプレ Marcel Dupréのクラス)、音楽史1等賞(モーリス・エマニュエルMaurice Emmanuelのクラス)
1929 作曲1等賞(ポール・デュカ Paul Dukasのクラス)。この時1等賞を得た作品は"Trois Mélodies"。
1930 コンセルヴァトワールを卒業。
1931 2月19日、パリのシャンゼリゼ劇場で「忘れられた捧げもの」初演。彼の作品がオーケストラで演奏されたのはこの時が初めてであり、彼は初めて自作で大勢の聴衆と接した。
1931 9月、サン・トリニテ教会のオルガニストになる。
1932 6月22日、ヴァイオリニスト・作曲家のクレール・デルボス(Claire Delbos, 1906-1959)と結婚。
1935 パリに新しく誕生した作曲家のグループ「ラ・スピラール(La Spirale)」のメンバーとなる。この団体は室内楽運動を推進しつつフランスの現代作品と諸外国のそれとの交歓を計ろうという趣旨の下に結成された。リーダーはGeorges Migotで、メシアンの他、アンドレ・ジョリヴェ(André Jolivet)、ダニエル・ルジュール(Jean Yves Daniel-Lesur)、クレール・デルボス(Claire Delbos;メシアン夫人), Paul Le Flem(ジョリヴェの師), Edouard Sciortino, Jules Le Febvreの計8名が参加。12月に初の演奏会を行い、1937年5月まで活動した。
1935 5月18日、作曲の師ポール・デュカ死去。
1936 「若きフランス(La Jeune France)」を結成。メシアンの他、アンドレ・ジョリヴェ(André Jolivet)、ダニエル・ルジュール(Jean Yves Daniel-Lesur)、イーヴ・ボードリエ(Yves Baudrier)が参加。
1936 エコール・ノルマル・ド・ミュジック(Ecole Normale de Musique)とスコラ・カントールム(Schola Cantorum)の教授になる(1939年まで)。
1937 7月14日、息子パスカル(Pascal)が誕生。
1939 召集され、従軍。
1940 6月、捕虜となり、現在のポーランド、シレジア(Silesia)地方にあるゲルリッツ(Görlitz)収容所に移送される。ここで「世の終りのための四重奏曲」が作曲された。
1941 1月15日、収容所VIII-A棟内で「世の終りのための四重奏曲」初演
1941 パリに送還される。
1942 クロード・デルヴァンクール(Claude Delvincourt)によってパリ・コンセルヴァトワールの和声法の教授に任命される。
1943 友人ギィ・ベルナール=ドラピエール(Guy Bernard-Delapierre)邸で個人的に作曲と楽曲分析の講議を行う(1947年まで)。生徒にはピエール・ブーレーズ、セルジュ・ニグ、イヴォンヌ・ロリオ、ジャン・ルイ・マルティネ、モーリス・ル・ルーらがおり、このグループは「矢flèches」と呼ばれた。
1944 「わが音楽語法」を出版(執筆は1942年)
1945 4月21日、パリのプレイヤード演奏会において「神の降臨のための3つの小典礼」初演。一大スキャンダルを巻き起こす。
1947 パリ・コンセルヴァトワールの美学の教授に任命される(この講座は彼の為新たに創設されたもので、その後、音楽分析、音楽哲学、そして再び分析、と何度か名前を変えた)。
1949 米国タングルウッド(Tanglewood)のバークシャー・ミュージク・センター(Birkshire Music Center)で作曲法講義。
1950 ダルムシュタットでリズム分析の講義。
1953 ザールブリュッケンでリズム分析の講義。
1959 4月、妻クレール・デルボスが長い闘病の末に病死。
1962 ピアニストのイヴォンヌ・ロリオと再婚
1962 イヴォンヌ・ロリオと共に来日。トゥーランガリラ交響曲の初演に立ち会った他、日本の鳥の歌を採譜し、「7つの俳諧」の着想を得る。
1966 パリ・コンセルヴァトワールの作曲科の教授に任命される。
1967 フランス学士院(l'Institut de France)会員に任命される。
1967 ロワイヤン音楽祭の一部としてメシアン・ピアノ・コンクールが設立される。
1969 グルベンキアン賞(Calouste Gulbenkian Prize)受賞。
1971 エラスムス賞(Erasmus Prize)、シベリウス賞(The Wihuri Sibelius Prize)、ラインランド芸術大賞受賞。
1972 春、米国ユタ州を旅行し、「峡谷から星たちへ…」の着想を得る。
1975 エルンスト・フォン・シーメンス賞(Ernst von Siemens-Musikpreis)受賞。「アッシジの聖フランチェスコ」作曲開始。
1975 ベルギー王立科学・文学・芸術アカデミー (l'Académie Royale des Sciences, des Lettres et des Beaux-Arts de Belgique)の準会員となる。
1977 レオニー・ソニング賞(The Léonie Sonning Music Prize)受賞。
1978 定年のため、パリコンセルヴァトワールの教授を退職。
1982 ウォルフ賞(Wolf Prize)受賞
1983 8年の歳月をかけて「アッシジの聖フランチェスコ」を書き上げる。
1985 第1回京都賞(精神科学・表現芸術部門)受賞。
1988 パオロ6世国際賞 (Premio Internazionale Paolo VI) 受賞(実際の授賞式は1989年)。
1992 4月27日、パリ郊外Hauts-de-SeineのClichyで死去。83歳。




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