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Biography of Olivier Messiaen

~メシアンの生涯~



Olivier Eugène Prosper Charles Messiaen
(1908.12.10~1992.4.28)



I. 幼少期(パリ・コンセルヴァトワール入学まで)
II. パリ・コンセルヴァトワール時代~大戦前
III. 第2次世界大戦
IV. トリスタン三部作、前衛時代、鳥の時代
V. 大規模作品時代、晩年
VI. 死後


I. 幼少期(パリ・コンセルヴァトワール入学まで)


 メシアンは1908年12月10日午後11時、フランス南東部・アヴィニョン(Avignon)に生まれた。父は北方シャンパーニュ及びフランドル(-aenという綴りはその地方のものだそうだ)の血を受けた英文学教師ピエール・メシアン(Pierre Messiaen)、母は南方プロヴァンス出身(注1)の詩人セシル・ソヴァージュ(Cécile Sauvage)であった。英文学者の父はシェークスピアの翻訳家としても知られる。母ソヴァージュはメシアンを身籠った時、これに霊感を受けて「芽生える魂(L'âme en bourgeon)」を書き、彼に献呈した。その中で既に彼女は「私は私の知らない遥かな音楽の故に痛む」と書いており、生まれてくる子が芸術家になるという事を確信していた。後に彼が作品の殆どに標題をつけたり、歌詞を自ら書いたり、自作に対して饒舌に解説を加えたりした事は、こうした文学家庭に育った事が影響したと考えられる。
 メシアン家はオリヴィエの生後まもなくアンベールに引っ越し、1914年には更にドーフィネ地方のグルノーブルへと移った(メシアンはこのドーフィネの山々を生涯愛し、そこに小牧場と別荘を所有して、多数の作品をここで構想し、書いた)。ほどなく、父ピエールは召集されたため、母の兄のアパルトマンで母子三人の暮らしを数年間送った。
 グルノーブル時代、メシアンは盛んに読書に励んだ。「8歳から15歳までの間に私はほぼ4000冊の本を夢中になって読んだ筈だ」と後に述懐している。そのためか、学校のフランス語では優秀な成績を修めた(しかし、歴史はさほどでもなく、数学は嫌いだったようだ・・・)。また、父の影響を受けシェークスピアが好きだったようで、シェークスピアの全作品を弟アランの前で朗唱したり、セロファンで舞台装置の模型を作ったりしていた。

 この頃から、メシアンは学校の勉強と並行して、全く独学でピアノと作曲の勉強を始めた。すぐにその天賦の才を発揮し始めた早熟な少年は、8歳の時には処女作と言われるピアノ曲「シャロットの婦人」を完成させた。幼少のメシアンはクリスマスプレゼントには決まって楽譜をリクエストし、ベルリオーズ「ファウストの劫罰」、グルック「オルフェオ」「アルチェステ」、モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」「魔笛」、ワーグナー「ヴァルキューレ」「ジークフリート」等のスコアを買って貰った。そして一日中これらのオペラのあらゆる役を歌っては家族や隣人たちをうんざりさせていたと言う。
 1918年に父の転勤で一家はナントに移り住み(ここには半年しか住まなかったが)、ここでメシアンは初めて音楽教師に師事した。ヴェロン(Mlle Marie Véron)、ゴントラン・アルクエ(Gontran Arcouët)はピアノを、ジャン(ジェアン)・ド・ジボン(Jean または Jehan de Gibon)は和声法を彼に教えた。この年のクリスマスにはジェアン・ド・ジボンよりドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」のスコアをプレゼントされるが、この曲は彼に決定的とも言える大きな影響を与えた。


II. パリ・コンセルヴァトワール時代~大戦前

 翌1919年には再び父の転勤に伴い、一家はパリへ引っ越す。ここでメシアンはわずか10歳にしてコンセルヴァトワール(パリ音楽院)へ入学を認められた。11年間を過ごしたコンセルヴァトワールで彼は和声法をジャン・ガロン(Jean Gallon)に、対位法・フーガをジョルジュ・コーサード(Georges Caussade)に、ピアノ伴奏をCésar Abel Estyleに、オルガンと即興演奏をマルセル・デュプレ(Marcel Dupré)に、音楽史をモーリス・エマニュエル(Maurice Emmanuel)に、そして作曲をポール・デュカ(Paul Dukas)に師事し、和声法を除く5つは全て1等賞という極めて優秀な成績をおさめた。成績から推察するには気侭に行動する芸術家というよりはまじめで勤勉な学生であったらしい。この時代に彼はギリシャやインドのリズム(これに取り組むきっかけを与えたのはマルセル・デュプレとモーリス・エマニュエルであった)、鳥の声、旋法等に対する探究を深め、彼独自の音楽語法の基礎を築いて行った。在学中に「天上の宴」「前奏曲集」などの初期の傑作を完成させており、そこには早くも「移調の限られた旋法」の使用や、色彩を意識した和音など、彼独自の書法が見られる。

 1930年から1931年(注2)にかけて彼はローマ賞に二度応募するが、一年目は予選落ち、二年目は決勝まで残るも賞を逃した。「明らかに、過去においても現在においても、アカデミーは最良の者たちを取り逃がしている」(マリ/矢内原・広田訳「メシアン」)。

 1930年にコンセルヴァトワールを卒業すると、1931年には22歳の若さでパリのサン・トリニテ教会のオルガニストとなった。そして彼はこの職を彼の最期まで、60年以上に渡って勤める事となる。当時、彼の演奏はミサに集う保守的な老婦人たちには大変な驚きを与えたが、教会側は一貫して彼の味方だった。そしてほどなく彼の演奏はパリ中に知られる事となった。このオルガンで彼は数々の即興演奏を行い、また多数の宗教作品の作曲を手掛けた。
 1932年、彼はヴァイオリニストにして作曲家でもあったクレール・デルボス(Claire Delbos)と結婚した。同年にはヴァイオリンとピアノのための「主題と変奏」が作曲され、夫婦で初演を行った。メシアンは妻を「ミ」という愛称で呼んだ。1936年に作曲された「ミのための詩」とはまさに妻に捧げられた曲であり、結婚の秘蹟を歌った作品である。1937年には息子パスカル(Pascal Messiaen)が生まれ、私生活は非常に幸福な時期であったと思われる。それは創作活動にも反映され、「永遠の教会の出現」「聖体秘蹟への賛歌」「昇天」「主の降誕」「ミのための詩」など、初期の重要な作品(その多くは宗教作品)が次々と生み出された。

 この時期、1935年に彼はパリに新しく誕生した作曲家のグループ「ラ・スピラール(La Spirale)」のメンバーとなった。この団体は室内楽運動を推進しつつフランスの現代作品と諸外国のそれとの交歓を計ろうという趣旨の下に結成されたもので、リーダーはGeorges Migot、メンバーとしてメシアンの他、アンドレ・ジョリヴェ(André Jolivet)、ダニエル・ルジュール(Daniel-Lesur)、クレール・デルボス(Claire Delbos;メシアン夫人), Paul Le Flem(ジョリヴェの師), Edouard Sciortino, Jules Le Febvreの計8名が参加。1935年12月に初の演奏会を行い、1937年5月まで活動した。次いで1936年6月には音楽における人間性への回帰を掲げてアンドレ・ジョリヴェ(André Jolivet)、ダニエル・ルジュール(Daniel-Lesur)、イーヴ・ボードリエ(Yves Baudrier)と「若きフランス(La Jeune France)」を結成し、1940年代半ばまで活動した。

 また、1936年にはエコール・ノルマル・ド・ミュジック(Ecole Normale de Musique)とスコラ・カントールム(Schola Cantorum)の教授となり、前者ではピアノの初見演奏、後者ではオルガンの即興演奏の講座を担当した。ここにブーレーズ、シュトックハウゼン、クセナキスらを育て上げる教育者メシアンとしてのキャリアが始まった。


III. 第2次世界大戦

 しかし、間もなく欧州は暗黒の時代へと突入してゆく。「栄光に輝く身体」を完成させたばかりの1939年、仏英はドイツに対して戦線布告し、第二次世界大戦が始まった。メシアンも召集され、ドイツ戦線に赴いた。もっとも初め半年以上は小規模な小競り合い以外は全く戦闘が起こらず、「奇妙な戦争」と呼ばれた。彼には戦地で特定の日にオルガンを演奏する機会まで与えられていたようだ(そしてそこから雑誌「オルガン」に手紙を寄せている)。しかし1940年5月にドイツの大攻勢が始まると連合軍は瞬く間に敗北した。メシアンはヴェルダンから歩いてナンシーに到着し、タイヤのない古い自転車を借りて逃げようとしたが、ここでナチスに捕らえられてしまった。そして他の捕虜たちと共に、ポーランドのシレジア(Silesia)地方にあるゲルリッツ(Görlitz)収容所に移送された。
 有刺鉄線の中で極度の飢えと寒さに耐えながらも尚、彼は精神の自由を失わず、作曲を続けた。幸運な事に、収容所VIII A棟にはたまたまチェロ奏者のエティエンヌ・パスキエ(Étienne Pasquier)、ヴァイオリン奏者のジャン・ル・ブーレール(Jean le Boulaire)、クラリネット奏者のアンリ・アコカ(Henri Akoka)が居合わせた。この偶然の組み合わせから「時の終わりのための四重奏曲」が生まれ、1941年1月15日、収容所内で初演された。フランス人、ベルギー人、ポーランド人の捕虜たち5000人が集まり、最前列には病院の患者たちがストレッチャーに横たわったまま並んでいた。彼らは零下30度の極寒の中、3本しか弦のないチェロや、鍵盤を押さえると元に戻らない、ひどく調律の狂ったピアノの音色にじっと聴き入ったと言う。

 その後釈放され、パリに送還されたメシアンは翌1942年には母校コンセルヴァトワールの教授となった。当時、他の科目のスタッフは講師しかおらず、彼がコンセルヴァトワールでの唯一の教授だった。
 依然ナチスの占領下にあり、困窮を極めていたパリでも、彼の創作活動は休まなかった。送還された直後の1941年にも「あるジャンヌ・ダルク劇のための合唱曲」を書き、1942年には「あるオイディプス劇のための場面の音楽」を書いた他、「わが音楽語法」でそれまでの彼の作曲手法を解説してみせた(但し出版は1944年)。また、この頃、メシアンはコンセルヴァトワールの学生であったイヴォンヌ・ロリオ(Yvonne Loriod)と出会い、その卓越したピアノ演奏に大変驚かされた。1943年にコンセルヴァトワールの試験課題曲として書かれた「ロンドー」で、彼女は1等賞を獲得した(同時に1等賞をとったのはジャン・ミシェル・ダマーズJean-Michel Damase)。
 同じ年、2台ピアノのための「アーメンの幻影」が誕生するが、これはメシアンのピアノ曲にとっての大きな転換点であった。この変化はまさしくイヴォンヌ・ロリオの驚異的な演奏に接したためであり、これより後の彼のピアノ作品は全て彼女によって演奏される事を想定して書かれるようになった。「アーメンの幻影」はイヴォンヌ・ロリオに捧げられ、彼女とメシアン自身のピアノで初演された。
 しかし当時、ナチスの占領下でこうした新しいフランス音楽をコンサートホールで演奏する事は固く禁じられていた為、演奏は秘密裏に行われた。ラ・プレイアード(La Pléiade)の演奏会と呼ばれる一連のシリーズである。この演奏会はDenise TualとGaston & Jeanne Gallimardによって1943年に始められ、とあるギャラリー(Galerie Charpentier)を会場に、完全に招待客のみで行われた。

 また、作曲と並行して教育活動にもますます力を入れ、その活動は学外にも及んだ。1943年から1947年にかけて、捕虜収容所内で知り合ったギィ・ベルナール=ドラピエール(Guy Bernard-Delapierre;注3)から個人的に私邸の提供を受け、ここでメシアンは作曲と楽曲分析の講義を行った。ここでの生徒にはピエール・ブーレーズ、セルジュ・ニグ、イヴォンヌ・ロリオ、ジャン・ルイ・マルティネ、モーリス・ル・ルーらがおり、このグループは「矢(flèches)」と呼ばれた。

 このように戦時下にも関わらず非常にアクティヴな活動を続けていた彼に、一つの悲劇が襲った。第二次大戦の終わり近く、妻クレール・デルボスは病を煩い(病名不詳)、手術を受けた(注4)。ところが、「術後のショックから」完全な記憶喪失となってしまう。更には精神異常も来たすようになり、この為、彼女は介護療養施設に入らざるを得なくなってしまった(そして、遂に最期までそこを出る事は叶わなかった)。メシアンは当時まだ小学校低学年だった息子パスカルを一人で育てることとなり、彼の為に毎朝5時に起きて朝食を用意していたと言う。

 1944年、ノルマンディー上陸作戦を機に反攻に転じた連合軍によって、パリは解放された(8月25日)。この時メシアンは「神の現存の三つの小典礼」の作曲を終え、「みどり児イエスに注ぐ二十のまなざし」に取り組んでいる最中だった。
 ようやく自由に音楽が演奏出来るようになったパリで、翌1945年3月26日、「みどり児イエスに注ぐ二十のまなざし」が初演された。これは後に見られるようになる大規模作品のさきがけであり、そのスケールにおいて、また書法においてメシアンのピアノ音楽のひとつの頂点をなす作品である。演奏に約2時間を要する大作であるにもかかわらず、今日でも頻繁に演奏されている。
 (余談ながら日本ではこの頃、東京が大空襲で焼け野原にされ(3/10)、沖縄に米軍が上陸し始めており(3/25)、音楽どころではない状況だった)。

 次いで4月21日、「神の現存の三つの小典礼」が初演されたが、この演奏会は「春の祭典」以来となる一大スキャンダルを引き起こした。「メシアン事件」あるいは「典礼論争」などと呼ばれるが、ともかく罵倒と称賛の声が入り乱れて演奏会場は大変な騒ぎであったと言う。


IV. トリスタン三部作、前衛時代、鳥の時代


 1945年以降、彼はそれまで続けて来たカトリック信仰を題材にした作品から一時遠ざかる。

 1945~1948年にかけてはトリスタンとイゾルデの伝説に基づいた三部作が生み出された。これらの三部作、「ハラウィ(愛と死の歌)」「トゥランガリーラ交響曲」「五つのルシャン」において、彼は現世での運命的な愛について高らかに歌い上げた。中でも「トゥランガリーラ交響曲」は今日、メシアンの作品群の中でも「時の終わりのための四重奏曲」「みどり児イエスにそそぐ二十のまなざし」と並んで、最も演奏頻度の高いものとなっている。しかし、硬派なブーレーズにはこうした世俗的な曲はお気に召さなかったようで「売春宿の音楽」と切って捨てた(プーランクも「この作品は好きではない」と述べている)。

 1949年、現代音楽に重要な影響を与えた作品、「音価と強度のモード」が作曲された。この曲では音高にのみ音列を用いた十二音技法を更に発展させ、「音高」「持続」「強度」「アタック」の四要素においてそれぞれに関連づけたパラメーター用いられ、後のブーレーズの「構造 I」を初めとする「総音列(セリー)音楽」への入口を開いた。メシアン本来の作風とはかけ離れた実験的性格の強い作品ではあるが、その後の現代音楽に与えた影響ははかり知れない。
 また、1952年には当時開発されて間もなかったミュージック・コンクレート(Musique concrète;注5)の手法も試み、「音色—持続」(ピエール・アンリとの共作)を作った。但し、この作品は後にメシアン自身によって撤回された。

 1953年以降は、こうした前衛的なアプローチからは遠ざかり、本格的に鳥の歌の時代に入る。1940年代の作品にも鳥の歌は登場するが、単旋律のシンプルなものが多かった。50年代以降はその書法を飛躍的に発展させ、旋律には和声づけがなされ、多くの鳥たちのポリフォニーが聴かれるようになる。1953年に発表された「鳥たちの目覚め」は、全ての音が一音残らず鳥の歌で構成されるという作品であった(楽譜には「この譜面には鳥の歌声しかない。すべては森できいた完全な本物である。」と記されている)。更に1956年には「異国の鳥たち」、そして1958年には長大なピアノ独奏曲「鳥のカタログ」を完成させた。1960年の「クロノクロミー」では実に18人のソリストが18種の鳥たちの歌声を別々のテンポで同時に演奏するという巨大なポリフォニーが聴かれる。

 1959年4月、妻クレール・デルボスが長い闘病の末、世を去った。
 この時、メシアンはColette Herzogの歌う「地と天の歌」のリハーサルへの立会いを翌々日に控えていた。彼女は後にこのように述懐している。
 「リハーサルは午後4時に始まる事になっていました。ところが前日になって彼は、もし可能であれば開始を1時間遅らせて頂けないでしょうかと、最大限に丁重な口調で謝罪の電話をかけてきました。翌日、メシアンは5時10分に現れて、また謝りました。(中略)その48時間前にクレール・デルボスが亡くなっていたのです。メシアンは妻の葬儀のためにリハーサルの開始を遅らせたのでした。彼は墓地から直接駆けつけたのです。彼は勿論、その事については話しませんでした。彼の顔は極度に青ざめていましたが、しかしまた同時に深い平安も漂わせていました。平穏で和やかに見えました。どこか別世界から来たかのような印象でした。遅れを詫びた後、彼はリハーサルを始め、2時間にわたり綿密に、集中して仕事をしました。(中略)彼にとっては、たった今亡くなった妻は、病に臥した呪われた大地を去り、彼女が行くに値するであろう天国へ向かったのです」。
Simeone 1998


 それから3年後の1962年、メシアンは長年にわたり演奏で彼を支えてきたイヴォンヌ・ロリオと再婚した。その直後、彼らは新婚旅行を兼ねて初来日した。彼は東京で「トゥランガリーラ交響曲」の日本初演に立ち会い、ロリオと「アーメンの幻影」のリサイタルを行った。ロリオは「トゥランガリーラ交響曲」のピアノを担当し、「みどり児イエスに注ぐ二十のまなざし」の抜粋も演奏した。
 この滞在中、彼らは奈良、宮島、山中湖、軽井沢などを訪れた。特に、軽井沢では多数の鳥の歌を採譜したようで、この時の模様を星野嘉助(日本野鳥の会軽井沢支部長;「七つの俳諧」の献呈者の一人)は次の様に回顧している。帰国後、これらの印象は「七つの俳諧」にまとめられた。


V. 大規模作品時代、晩年

 1965年以降、彼の作品の規模はますます大きくなり、一作品に数年を費やして書く事が多くなった。そして、題材も再びカトリック信仰に根ざしたものが多くなった。1969年には4年の歳月をかけた「我等が主イエス・キリストの変容」を完成させたが、これは100人の合唱、7人の器楽ソリスト、大管弦楽のための作品で、14曲から成り、演奏には約1時間30分を要する。その後も「聖三位一体の神秘についての瞑想」(オルガン、1時間15分)、「ニワムシクイ」(ピアノ、約30分)と、鍵盤楽器ソロとしては規模の大きい作品が続く。

 この頃にはメシアンの名前は現代音楽の重鎮として既に広く知られるようになっており、1969年のグルベンキアン賞(「我等が主イエス・キリストの変容」はこのグルベンキアン財団から委嘱されたもの)を皮切りに、エラスムス賞、シベリウス賞、ラインランド芸術大賞、エルンスト・フォン・シーメンス賞、ウォルフ賞など様々な賞の受賞が相次いだ。また、彼の作品が演奏される機会も増加の一途をたどり、それに立ち会うため彼は世界中を飛び回った。その傍らで勿論サン・トリニテ教会のオルガニストとコンセルヴァトワールの教職は続けていた訳で、生活は多忙を極めた。作曲の委嘱も多くなるが、その忙しさのためか簡単にはウイとは言わず、どうしても断りきれなかった一部のみをしぶしぶ書く、という状況だったようだ。

 1971年にはAlice Tully女史よりアメリカ合衆国建国200周年のための作品の委嘱を受けるが、これも当初は断った。しかし彼女からの執拗な依頼に遂には折れざるを得なかった。それでも、一旦作曲にかかればその仕事ぶりはきわめて真摯で、まずは百科事典で見て感銘を受けたユタ州の渓谷へ実際に旅行する事から始め、そこで見た色彩の印象と採譜した鳥の歌から3年の月日をかけ、「峡谷から星たちへ…」を生み出した。

 そして1975年からはオペラ「アッシジの聖フランチェスコ」に着手する。彼は当初パリ・オペラ座総裁のロルフ・リーベルマン(Rolf Liebermann)よりの委嘱に対し、「オペラの才能がない」と断っていたが、大統領官邸での晩餐会に引き出され、ポンピドゥー大統領の面前で作曲を依頼されるに至り、またもしぶしぶながら引き受けた。
 カトリック信仰をその創作の中心に据えてきたメシアンは、受難劇かキリストの復活を描きたいと考えていた。しかし、舞台の上でキリストやマリアや使徒たちが歌う姿は滑稽であり、オペラに適した題材とは思えない。そこでテーマに選んだのが13世紀イタリアの聖人、聖フランチェスコであった。
 この作品を書くに当り、メシアンは「自分はもう70歳になるのだから、気違いじみたことをしてもよいだろう」と考えた。そして作曲に4年、オーケストレーションと総譜の浄書に4年、実に計8年間を費やして一大スペクタクルを完成させた。約2500ページ、重さ20 kgにもなる総譜、7名の独唱者、150人の合唱団、オンド・マルトノ3台を含む120人のオーケストラ、休憩なしでも4時間に及ぶ演奏時間、とどれをとっても確かに「気違いじみて」いる。リハーサルも半年を要する尋常ならざるものであったが、1983年11月28日、遂にこの作品はパリ・オペラ座にて初演された。小澤征爾の指揮で行われた8回の公演はいずれも満席で、熱狂的な聴衆の間で大成功を収めた。その模様はテレビでも中継放送された。

 この大作の作曲中、1978年には定年に伴いパリ・コンセルヴァトワールの教職から引退した。よって公職はサン・トリニテ教会のオルガニストのみとなったのだが、それ以外にも、相変わらず多数のインタビューや自作の演奏への立ち会いなどで各地に赴くのに忙しい日々を送っていた。それでも意欲的に作曲は続け、1984年には2時間を要するオルガン曲「聖体秘蹟の書」をわずか1年で書き上げた。

 1965年からここまで大作が続いてきたが、1985年以降は再び小品も手掛けるようになった。この年、最後のピアノソロ作品となる「鳥たちの小スケッチ」が書かれたが、これは各曲数分で、全部演奏しても20分に満たない。また、この年には稲盛財団が創設した「京都賞」の精神科学・表現芸術部門の第1回受賞者に選ばれ、その授賞式のため4度目の、そして最後となる来日を果たした。授賞式に合わせて行われたワークショップでは丸一日をかけてメシアンの講演の他、ロリオによる「みどり児イエスに注ぐ二十のまなざし」抜粋、木村かをりと藤井一興による「アーメンの幻影」抜粋やシンポジウムが行われ、諸井誠、武満徹、別宮貞雄、アンリエット・ピュイグ・ロジェ、船山隆、武田明倫、戸田邦雄ら、そうそうたるメンバーが集合した(注6)。メシアンにとっては大変良い思いでとなったようで、クロード・サミュエルとの対話の中でもこの時の様子を詳しく述懐している。

 1987年、彼はズービン・メータとニューヨク・フィルの委嘱を受けて「彼方の閃光」に取りかかる。この作品の作曲の傍ら、1989年にはモーツァルト没後200年記念のための小品「ほほえみ」を完成させた。
 最晩年の1991年、一つの嬉しい出来事があった。1945年11月2日に初演された後、行方不明になっていた「Chant des Déportés(抑留者たちの歌)」がラジオ・フランスの図書室より発見されたのだ。ロリオによると、メシアンはこの発見に大変喜んでいたそうだ。また、この年に「ピアノと弦楽四重奏のための小品」が作曲され、11月18日に初演された。そして12月5日には2年前に完成していた「ほほえみ」が初演された。最後の大作となった「彼方の閃光」もこの年に完成したが、彼自身はその音を実際に耳で聴く事は出来なかった。

 1992年4月27日午後8時30分、メシアンはパリ郊外Hauts-de-SeineのClichyで亡くなった。83歳だった。


VI. 死後

 メシアンの死の約半年後、1992年11月5日に「彼方の閃光」が初演され、これがメシアンの最後の作品であると思われていた。しかしその後、遺品の整理をしていた夫人イヴォンヌ・ロリオ=メシアン(メシアンの死後、彼女はこう名乗るようになった)が作曲途上であった4人のソリストとオーケストラのための作品を発見した。未完であったこの作品はGeorge BenjaminとHeinz Holligerの協力のもと、彼女によって完成され、1994年9月26日に初演された。これが「Concert à quatre(コンセール・ア・キャトル)」である。
 また、1949年に執筆を開始し、死の年まで40年以上に渡って書き続けた教程書、「Traité de rythme, de couleur et d'ornithologie; en sept tomes(リズム、色彩と鳥類学の概論;全7巻)」が1994年から順次刊行された。2003年にはようやく最終巻が出版され、完結したが、現在のところ各巻とも仏語のみなので、英語・日本語への翻訳が待たれる。

 その後も、従来のカタログに漏れていた作品が次々に明らかになっている。多くは発表に至らなかった小品と思われるが、「Feuillets inédits(未完のページ;ピアノとオンド・マルトノのための)」「Pièce pour hautbois et piano(オーボエとピアノのための小品)」など他にない編成の作品や、「ハラウィ」に用いられた主題の原型である「Tristan et Yseult - Thème d'Amour(トリスタンとイゾルデ―愛の主題)」等、興味あるものが多い。今後も新しい発見が期待できる可能性は残されている。
 また、初期の作品には未出版のものも多い。これらの中には「シャロットの婦人」「美しき水の祭典」のように録音によってその姿を知ることが出来るものもあるが、多くはどのような曲か明らかになっていない。こうした作品が出版・録音される事にも期待したい。




注1:正しくは彼女の父親はプロヴァンスの出身だったが、彼女自身はロッシュ・ショル・イヨンという大西洋岸の都市で生まれた。しかし、幼少時をディーニュで過ごした。

注2:従来言われていた「1929から30年」は誤り。

注3:芸術批評家、エジプト学者、映画音楽作曲家。後に彼はジュアン・レ・パンにあった自分の別荘を「トゥランガリーラ」と命名した。「Technique de mon langage musical(わが音楽語法)」の献呈者でもある。名前の綴りは文献によって”Guy-Bernard Delapierre”とする資料と” Guy Bernard-Delapierre”とする資料がある。

注4:このエピソードがパリ解放より前だったのか、後だったのかは不詳。

注5:フランス語で「具体音楽」を意味する。生の音素材─例えば雷鳴、蒸気エン ジン、滝、金属の鋳物など─を電気的に加工して作品化する技法のこと。1948年フランス国立放送局のピエール・シェフェールを中心としたグループが、《騒音の音楽》をラジオ放送したことに始まる。これに対し、1951年にケルンの電子音楽スタジオでシュトックハウゼンらが始めた「電子音楽」はテープを用いて加工する技術は共通しているが、生の音素材を用いず、電子音の純粋な周波数の組み合わせによって様々な音を合成していった点で異なっている。

注6:この時の講演はAlphonse Leduc社より「Conference de Kyoto 京都講演」として出版されている(仏語原稿の他、日本語訳も併録)。また、このワークショップのプログラムは稲盛財団のウェブサイトにて公開されている。


Last Update: 23/May/2006


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