宇津ノ谷峠の近くにある曹洞宗慶龍寺に、森川許六の名吟 十団子も 小粒に なりぬ 秋の風 を刻んだ石碑が建っている。 そして、毎年8月23、24日には延命地蔵法要が開かれ、十団子を頒けてくれる。十団子の由来や意味について追ってみた。

十団子にまつわる伝説
 昔、宇津ノ谷に梅林院という寺があった。その寺の住持が腫れ物ができて小僧に膿血を吸わせたところ、その小僧が人の肉の味を覚え、おしまいには街道を通る旅人をつかまえて喰べる鬼となった。天安年中(857〜859)のことである。
 貞観年中(859〜877)、在原業平が宇津ノ谷峠を越すときに里人からこの話を聞き、東下りの際、野洲の地蔵尊に鬼退治の祈願をした。
 そこで諸人の難を救おうと地蔵菩薩が旅僧に姿を変じてここに現れると、鬼も普通の人の姿で出てきたので「お前は誰だ」というと、「祥白童子だが、坊さんはどこから来た」と問うた。
「お前を成仏させようと思ってはるばるやってきた、すみやかに本体をあらわせ」と言うと、彼はたちまち二丈ばかりの鬼の姿となった。「なるほど、お前の通力は大したものだ。今度はできるだけ小さなものに化けて、わしの掌に上ってみよ」と言えば、小さな玉となって僧の手に上った。それを杖で砕くと十粒の小玉となった。僧が「汝はこれで仏となった。この後、人を悩ますなよ」と言いながら一口に呑み込んでしまった。それから後この鬼の災いはなくなった。
 里人は、この地蔵菩薩を道中守護として祀り、昔を忘れぬため数珠の形に小玉団子をこしらえて災難除けのおまじないとして旅行の際持たせたり、喰べさせたりするようになった。    

十団子の歴史
柴屋軒宗長の「宗長手記」 大永4年(1524)によると、 
 折ふし夕立して宇津の山に雨やどり。 この茶屋むかしよりの名物十だんごといふ。 一杓子に十づつ、必ずめろうなどに すくはせ興じて…
 このように、十団子は、室町時代から峠越しの難所宇津ノ谷の街道名物として、家ごとに杓子で十個ずつ杓って売られていた。
 また、小堀遠州の「辛酉紀行」 元和7年(1621)では、 
 十づつ杓ふによりて、とをだむごと言也と語る。 さらばすくわせよといへば、あるじの女房、 手づからいひかひとりて、心のままに杓ふ。
 さらに、浅井了意の「東海道名所記」 万治3年(1660)頃は、
 坂のあがり口に、茅屋四五十家あり、家毎に十団子をうる。其大さ赤小豆ばかりにして、麻の緒に つなぎ、いにしへは、十粒を一連ねとしける故に十団子といふならし。と記している。 
 近年では、元禄年間(1688〜1704)に 森川許六が
 「十団子も 小粒に なりぬ 秋の風」を残し、宇津ノ谷峠の十団子はさらに広く世に知られるようになった。

庶民信仰としての対象
 その後、旅人の交通安全・厄除けの地蔵尊が峠の路傍に祀られ、一般的な街道名物から、十団子も庶民信仰の性格をもつようになった。 
 明治9年(1876)、宇津ノ谷峠に日本最初の有料トンネルが開通。十団子は、ますます、峠越えのお守りとして、また、厄除けの縁起物として おおぜいの庶民に親しまれてきた。
 しかし、明治22年(1889)の東海道線の開通で旅人が めっきり減り、そのころから十団子を売っての生活ができなくなり次々にやめていった。 その後、戦前までは、慶龍寺の例祭の時だけ各家で十団子を作り、軒に並べて売っていた。
 昭和23年(1948)ごろからは、各家で売るということは無くなり、慶竜寺例祭の8月23,24日の2日間だけ、寺で十団子を作りお詣りに来る人に頒けるようになった。 

現在の十団子は、直径8oほどの団子 十粒を糸に通し、その輪を9つ束ねたもので、家内安全、交通安全を祈願し魔除けとして玄関などに吊される慣わしとなった。