この記録は秋田県立大曲高校在職中、同校の紀要「あゆみ第28号(1992発行)」に載せた「パプア・ニューギニア訪問の記」を、ほぼ原文のままWeb上に発表するものです。
内容的には父親の慰霊であり、個人史の1コマですが、戦死者の遺族の一人一人の「私」に連なっているという意味で、普遍性をもっていると思います。
元々教育関係者を対象に書いたものですが、私の言わんとするメッセージはどなたにも御理解いただけるものと信じます。
*1991年のことを書いているので、( )内に2006年現在の時点での補足等を入れてあります。また元の文になかった写真(説明つき)もできるだけ掲載しました。
1991年 パプア・ニューギニア 慰霊の旅
昨年(1991年)の9月から10月初めにかけての9日間ほどの間、パフア・ニューギニアという国へ行って来た。その目的は、47年前そこで亡くなった父の霊を慰め、追悼するためであった。
私の父は(赤紙1枚で兵隊にとられ)東部ニューギニアのウエワクという町の近くで、食料の断絶とマラリヤのため、敗戦の日より2ヶ月前に死亡したのである。そのことを私は幼少の頃に母から繰り返し聞かされていた。「ニューギニア」は「アメリカ」よりも、どこよりも先に知った外国の地名であった。
ある日、父の「骨箱」が家に届いた。母がそれをあけると、中には父の名を書いた紙が1枚入っているだけであった。その時の母の悲しみとも怒りともつかない表情を、40年余を経た今でも時折思い出すことがある。ニューギニアは私にとって、1度は行ってみなければならない国となっていた。
今回の旅行の正式名称は「第8回政府派遣東部ニューギニア慰霊巡拝」というもので、私はこれを秋田県遺族会からの紹介で知った。総費用45万円に対して、政府から16万、遺族会から8万、県から供花料として3万、計27万円の補助があった。
9月27日(金)
午前10時、東京の九段会館に参加者49名全員が集まった。北海道から九州までの広い地域に渡っての参加である(この中には政府代表として援護局の池上、中島の2名が含まれている)。平均年齢は60歳を超えているようだ。名簿によれば、戦没者の妻、兄弟、子供など様々である。私達はここで結団式を行い、団長に池上さんを選出した。(担当業者はエムオーツーリスト)
九段会館で昼食の後、バスに乗って出発、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に立ち寄ってから成田に向かった。
(成田発19:28、香港着21:30、飛行機乗り換え、香港発22:40、ポートモレスビー着7:10)
9月28日(土)
前夜香港を飛び立ったのは200人乗りのジェット、エアニューギニである。6人のスチュアーデスのうち5人が黒人である。パプア・ニューギニアがメラネシアと呼ばれる国々の一つであることを思い出した。彼女たちが互いに話している言葉は私には全く分からなかった。ピジン英語なのだろうか。
パプア・ニューギニアの首都ポートモレスビーに朝の7時過ぎに到着(左写真)、ここで私たちは慰霊地別に大きく1、2班に分かれた。
私は1班に入りマダン行きの国内便(60人乗り)に乗り換える。途中マウントハーゲン(高地民族で知られる観光地)を経由して10時40分頃マダンに着いた。成田を発って約16時間後である。
日本からパプア・ニューギニアへの直行便はない(当時)のでやむを得ないが、やはり長旅は疲れる。気温もとうに30度は超えている。
午後から予定していた戦跡での慰霊は明日以降にずらして、先ずホテルで休むことになった。このホテルはマダンリゾートホテルと言い、海に面して砂地に建てられた幾つかの棟から成っている。1時頃に昼食(マカロニミートソース、果物入りアイスクリーム、コーヒー)、7時に夕食(バイキング方式で、マトン、パン、味付けライス、色々な煮物やフライ、サラダ、マンゴーなどの果物、アイスクリーム、コーヒー)。ウエィターは柄物の開襟シャツに白い腰巻きをして縮れた髪に奇麗な花を挿している。食堂は海に面した側には壁がなく、風通しが良い。柱や壁など至る所に独特の彫刻がなされていて面白い。竹で編んだ籠の中に電球を入れて吊り下げている。蚊も蠅もいなかった。
ホテルの部屋は、トイレ、シャワー、テレビ、冷蔵庫、クーラーが付いている。仙台市のKさんと同室であった。私は父についての記憶は全くないが、彼はおぼろげながらも後楽園で父親と遊んだことを覚えているという。
マダンリゾートホテルのロビーで
独特の人形やお面が面白い。![]()
夕食時に民族楽器で歓迎してくれた。「知床旅情」
など日本の歌も歌ってくれた。
9月29日(日)
朝食の後9時半頃、ホテルで用意してくれたバス2台でマダン周辺の3カ所での慰霊のため出発した。途中から未舗装の道路となり、両側に熱帯性の樹木の繁る風景が続く。数カ所の村落を通過したが、共通点は椰子の葉で屋根を葺いた高床式の住居で、その周りには木も畑もないこと、それ人もあまりいない…と最初は思ったが、その理由はすぐに分かった。
どの集落にも十字架の付いた集会所風の教会があって、大人や子供たちが集まっているのである。今日は日曜日で、ちょうど礼拝の時間帯なのだった。電気も水道も電話もない裸足の人々の世界にキリスト教が根を下ろしている。これには同行の人々も感心していた。
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最初の慰霊をムギルという湾に面した海岸で行った。慰霊は政府主催でやるため無宗教式である。この形式は、(1)段ボールの箱に日の丸を掛け、その両脇に厚生大臣と記した紙を下げた小型の花輪を置き、白と緑の菓子各10個と2本の蝋燭を上げる、(2)団長がこの地で亡くなられた戦没者の略歴(戦歴)を述べる。(3)全員が1分間の黙祷をする、というものである。この後は各人が各様に拝礼しても良いので、持って来た蝋燭や線香を上げたり、写経を飾ったり、日本の酒だと言って周りの砂に撒いたりする人もいた。慰霊が終わったら完全に元の状態に復元しなければならない。(1)のところで出した物をまた段ボールに詰め込み、次の慰霊に備えるのである。
いつの間にか30人程の人達が見物に来ていた。珍しげな、そして物欲しそうな顔をしている。添乗員はさすがに気が利いていて、子供たちを1列に並べてキャンデーを渡していた。
ふと、誰かを呼ぶような声が聞こえて来たので海の方を振り返ると、一人の婦人が湾の対岸に向かって繰り返し叫んでいる。
「あなた、帰りましょう。一緒に帰りましょう…。」
夫を見送って半世紀近い年月の後に、再び夫と出会い、連れて帰ろうとしているのである。ひたむきな彼女の姿を見て、私は胸の熱くなるのを覚えた。
ゼロ戦?の残骸。近くに落ちていた尾翼を
エンジンの後ろに運んで撮影した。
ムギルの次にハンサ、その次にアレックスハーゲという海軍の飛行場の跡で慰霊を行った。飛行場と言っても、今は一面に雑草が生えているだけである。
飛行機の残骸があると言うので行ってみると、直径が1メートルもあるエンジンが2つ、20メートルも離れて薮の中に放置されていた。それはまさに、ここが戦場であったことを如実に物語っていた。
昼食のために一旦ホテルに戻り、1時半からマダンの湾内を船で巡った。沖へ出てみると複雑に入り組んだ地形で、全体として湾になっていることがよく分かった。日本軍がここを拠点にしたのは船を隠すことができたためだというが、飛行機からは丸見えだったろう。事実、爆撃を受けて沈んだ輸送船が赤く錆びた船首を海面に晒していた。それは美しい湾の風景とはいかにも不釣り合いであった。
9月30日(月)
今日も午前中マダンの2カ所で慰霊。途中マダンロータリー公園で日本軍の七五式野戦高射砲がコンクリートの台座にしっかりと固定されているのを見た。これと同じ型の物を1945年の東京大空襲の時、赤羽で実際に使ったという人がいて大変懐かしがっていた。
昼食後の自由時間に、4,5人の人達とホテルの周辺を歩いてみた。町外れの道をしばらく行くと数軒の商店の連なった所に出た。一軒の雑貨店に入ってみたが、店内の半分が衣料品を扱っていて、数十着の男物のズボンは皆古物で輸入品のようだった。
この時の外出で目にしたものは空を飛ぶ無数のコウモリ、気根を持つ巨木、ブーゲンビリアの深紅の花、モダンな教会、建物の前や道端でぼんやり座っている人達。この人達は失業中なのであろうか。私達を見ると手を振って挨拶してくれる。
さて、今日は移動日で、マダン空港から次の訪問地ウエワクへ向かうのである。40分程の飛行だが、道路が整備されておらず車で行くことはできないとのこと。18:50ウエワク空港着。
10月1日(火)
6時起床。今日はウエワクでの第1日目である。ここのホテルはセビック・インターナショナル・リゾートホテルといい、やはり海岸に沿って建てられた幾つかの平屋の棟から成っている。部屋はマダンのホテルよりも広く、ベッドが3つで、Kさんの他に60歳代のIさんも昨夜から同室である。7時ホテルのカフェテリアで朝食。8時、この地区での慰霊のためバスに乗って出発。いつもより1時間早いスケジュールである。
飛行場のあったブーツ(ここで零戦の残骸を見た)。5千名が戦病死したというポイキン。ドイツ人修道尼の診療所があるダグア。小さな小学校があるバナク。海に面した丘、カラップ。以上5カ所の慰霊を午前中に終えることができた。
どこへ行っても裸足やゴム草鞋の人達がやって来るのはマダンの場合と同様である。子供たちは飴(ガムをやると食べてしまう)、大人はタバコやライターを欲しがっていることも分かった。また、蝋燭は貴重品だというが、電気がないのだから当然かもしれない。
ホテルに戻って昼食。一休みしてから数キロ離れたボーイズタウンという海の見える高台へ出かけた。ここで私の父を含む8名の戦没者の慰霊を行うことになっているのである。
この丘には「英霊碑」と刻まれた大きな石碑があり、周りは奇麗に刈られた芝生になっている。碑を利用して祭壇を作った後、団長がこの地域で亡くなった8名の方々について、所属部隊、戦歴、死亡時の任務や状況など、判っている限りのことを説明。1分間の黙祷をした。黙祷といっても、父について思い起こす如何なる記憶もない私にとっては、もどかしくも悲しくもあったひと時であった。
ここからホテルまでの帰路、再び曲がりくねった道を通る。この道を、やせた父が疲れた足取りで歩いたのではないか、辺りの熱帯樹林は50年前と少しも変わらないのではないか、などとバスに揺られながら考えていた。
10月2日(水)
私達の一行の内10名が、ウエワクから西方に60キロ離れたアイタペ地区の慰霊のため出発した。残った者は一日何もする事がないので、添乗員のNさんが午前中ウエワク市内の散策に連れて行ってくれることになった。市内といっても商店がびっしり軒を連ねているわけではなく、土地が広いせいか疎らに広がっている感じである。最初に入ったのが小さなスーパーストア。食料品が多いが、陳列の仕方など日本と変わらない。少し値段を調べてみたが、米が日本の5分の1、牛肉が10分のTの価格で売られているのには驚いた(米10キロ6.65キナ、ヒレ肉1キロ6.95キナ。いずれも約千円前後。但し卵、キャベツ、コーラなどは日本とほぼ同じ価格だった。1キナは約150円(当時。2005年現在で38〜40円)。郵便局では美しい切手が沢山あったが、時間がなくて買えなかった。
次に青空市場に行った。テニスコート6面程のスペースに何十人という人が自宅の周囲で採れたらしい野菜類(タロイモやマスタードなど初めて見るものが多い)を敷物の上に並べていて、その前をたくさんの人が行ったり来たりしている。その中から60歳くらいの男性が私達を見て話しかけて来た。
「マイフレンド、カシムラキャプテン。
ドクターミツカワ…」
一行に彼が誰のことを言っているのか判る人がいた。すなわち樫村少尉と満川軍医のことで、樫村さんは復員後亡くなったが、満川さんは東京で医者として元気に働いているはずだという。私はそのことを英語で彼に伝えた。樫村さんのことを聞いて彼の表情は曇った。「樫村さんと出会ったのは何歳の時ですか」と訪ねると、胸の辺りで手を止めた。まだ少年の頃のことで、それだけ印象深く残ったのかもしれない。「今あなたは何歳ですか」と聞いたが、分からないと首を振る。このような時のためにもう一つの聞き方をする。「あなたはクリスマスを何回やりましたか」。彼はしばらく考えてから、「32回」と答える。年を聞くにはクリスマス何回が一番良い、とNさんから教わっていたのだが、やはりあまり当てにならないようである。パプア・ニューギニアは四季の変化がなく、年が改まったという感じは捉えにくいだろうし、年齢を知らなくても不都合なこともなく暮らしていけるのだろうと納得することにした。それにしても役場に戸籍はあるのだろうか。
「ゴクロウサン」「キヲツケ」など、まだ覚えている日本語を披露して彼は去って行った。
ブレンディ高校の校庭で
ここには日本軍の機関砲やゼロ戦のプロペラと思われるものが野外展示されていた。
後ろの建物が校舎で、窓は網戸だけであった。男女650名が在学しているというが、授業中のため生徒には会えなかった。
午後、ホテルの部屋でうとうとしていると、同室のIさんが「浜辺で子供たちが遊んでいる。椰子の実を採ってもらった。何かくれてやるものはないか」などと言って入って来た。海岸に出てみると、日本でいえば中学から二十歳くらいまでの男女が10名ばかり、外国人を見かけたので自然に集まった、という風である。ナイフを持っている者が椰子の実に穴を開けてくれた。透明な汁がたっぷり入っていて、飲んでみるとポカリスエットから塩分を除いたような甘い味がする。
ウエワクの青少年たち
前列の2人が少女。
この中の4名とは数年間文通が続いたが、いつの間にか途絶えてしまった。
実はこの写真を撮った後、子供たちに口の中を見せてもらった。全員真っ白な歯をしていて、虫歯が1本も無いのには驚いた。(虫歯は「文明病」だということ。)
私も椰子の木に登ってみることにした。表面が凸凹していて登りやすい。途中まで登って拍手喝采となった。そこにIさんが煙草を持ってやって来て、1本ずつ配るとすぐ吸いだした。「日本の学校では停学になるぞ」と言うと、「僕の学校では2時間草むしりをさせられる」などという。が、彼等がまともに学校に行っているようには見えなかった。
記念写真を撮った後、私のノートに一人ずつ住所、氏名を書いてもらった。「戦争があったことを知っているか」「日本について知っているか」「将来何になりたいか」などについて彼等と問答したが、結果は私の英語力の無さを再認識して終わったような気がした。しかし彼等の英語もおかしいのである。例えばブラザー(brother)をプラターと発音する。bがpに、thがtになりがちなのは何度か聞き返しているうちに判ったのだが、いわゆるピジン英語の一つのパターンなのではないだろうか。知識や学歴があるほど標準英語に近づいているように思った。
10月3日(木)
午前は最後のセレモニーである「(1・2班)合同追悼式」を、午後からはポートモレスビーへの移動をすることになっている。
式はホテル近くの「ニューギニア戦没者の碑」のところで本格的な式典の形でやると言うので、男の多くは黒っぽいスーツにネクタイ姿になった。この碑は日本政府がパプア・ニューギニア政府から借りた公園風の土地に、大きな屋根付きで建てられた立派なものである。碑の銘板には日本語、英語、ピジン英語で、次のように記されている。
「ニューギニア戦没者の碑 先の大戦において ニューギニア地域及びその周辺海域で 戦没した人々をしのび 平和への思いをこめて この碑を建立する 竣工 昭和56年9月16日 日本政府 協力パプア・ニューギニア政府」
パプア・ニューギニア政府側からも州副知事、観光局書記官、公園管理責任者の3人が招かれていた。式は添乗員の司会のもとに、(1)1分間の黙祷、(2)日本政府代表による追悼の言葉、(3)遺族代表による追悼の言葉、(4)参加者全員による献花、(5)記念撮影、と行われ、1時間程で終了した。
1時半からのフライト(飛行)なので11時に昼食。その時、池上さんから次のようなお話を聞いた。
「厚生省では外務省と協力して正式にパプア・ニューギニア政府と契約を交わして、この国の何カ所かにこのような碑を建てて管理してもらっている。戦友会や遺族の方々が個人的に建てた石碑や神社なども多く、年月を経て倒れたり、破損のひどいのもあるようだ、これを見た日本人が、政府は何故放置しておくのかと抗議する場合もあるが、政府としては初めから全く関与していないわけで、責任の取りようが無い。」
さて、フライトは順調で午後3時15分にポートモレスビーに着いた。人口16万、日本の地方都市といった感じで緑が多い。4時半頃市内にあるエラビーチホテルへ到着。(ポートモレスビーの人口16万人とした根拠は今となっては不明だが、2006年の時点でインターネットで調べると約30万としているものが多いようである。)
10月4日(金)
7時45分にホテルを出ると言うので6時に起床、手早く荷物を片付けて朝食。8時には空港に着いた。出発は10時半。約6時間半のフライトの後、午後3時香港着。4時頃ターミナルを出ると香港の観光業者が待ち受けていて、(今にして思えば)夜の8時半頃までの「香港ツアー半日コース」をやることになっているのだった。
中高生は制服を着ていた。イギリス文化の影響とのこと。
香港は当時イギリスの直轄植民地だった。(1997年中国へ返還された。)
1989年のデータでは人口567.5万人、面積1.071平方キロメートルで人口密度は東京都の約8倍であった。
(香港の人口は2005年末現在では697.8万人。)
バスから見た九龍城(一部)
九龍城(九龍城砦とも。正式名称は九龍寨城。)は事実上香港にも中国にも属さない一区画とそこに立つビル群。どこの国の法律も及ばないため、普通の国では違法なことも勝手に行われていたらしい。
十数階の鉄筋コンクリート作りだがエレベータはなく、上下水道が不十分で特に水不足は深刻だった。
1993年から94年にかけて香港政庁により取り壊された。現在跡地は公園になっている。
香港の市街地、九龍城、宝石の加工場、夜景、夕食を挟んで数軒の免税店(いずれも業者の系列店)など実に慌ただしい日程だった。パプア・ニューギニアでのスローテンポの生活から、一転して生き馬の目を抜く競争社会の最先端に連れ出された感じである。
香港は交易によって存立している一大商業都市であって、約1千平方キロに600万人(東京の8倍の密度)が暮らしているのである(当時)。時間が即、金に換算される社会なのだろう。ここの業者の魂胆は、限定された時間内に、我々一行から如何に多くの金を搾り取るかと言うただ一点にあった。そしてそれは多分成功したと思う。「うちのおばあちゃんに似合うだろうか」などといいながら高級ネックレスなどを買う人もいたが、ここへ来て、これまで殆ど出番のなかったドルや旅行小切手を一気に吐き出した観であった。(ヴィクトリアホテル泊)
10月5日(土)
昨日同様6時起床。7時45分にホテルを出て、8時頃香港空港のターミナルに着く。そこは思ったよりも広く、搭乗の手続きが済むと免税店のあるフロアーに出るのだが、ここも時間に追われる感じでゆっくり見ていられない。
香港発10時、成田着15時。ターミナルビルに入って簡単な解散式(団長と業者の挨拶)を行う。こうして私の旅は終わった。
慰霊を終えて
今回のツアーでパプア・ニューギニアに渡った人達は、どんな感慨をもってこの旅を終えたのであろうか。私は物心ついた時には父がいなかったし、いなくて当たり前のようにして育ったが、兄や弟を失った者、生涯の伴侶たる夫を失った者にとって、失われた肉親の記憶は、より現実感をもって蘇ったことだろう。
私達の中に、結婚後すぐ赤紙が来たために、実質1週間しか夫と暮らせなかったという婦人がいた。帰って来るはずの夫を待ち続けた年月、そして待ち続けても帰らないことを知ったその日からの永い年月を、一人一人の妻たちはどんな思いで過ごして来たのだろうか。筆実に尽くしがたいとは、まさにこのようなことを言うのだと思う。
東部ニューギニアで没した者およそ13万人。その大半は餓死と病死であると言われている。補給路が断たれたため、記録する紙も無かったそうで、詳細は知る由もないのである。
千鳥ヶ淵戦没者墓苑に入るとすぐ右横に石版のようなものがあり、墓苑のいわれや第二次大戦の戦死者数が表示されている。
日本全体で310万人、アジア全体では2,000万人を超える人命を犠牲にした太平洋戦争とは一体何だったのだろうか。「大東亜共栄圏」を掲げて戦った「聖戦」は今、アジアの国々から侵略と言われ、補償を求められているのである。明治維新以降の富国強兵政策の行き着いた先が、あの大戦だったのだろう。和魂洋才という言葉があったが、欧米諸国からの出来合の技術は学んでも、それらを支えてきた民主主義や自由主義の精神を排除したことが、独裁政治を招来した一因となったように思う。また、日本人の精神風土は江戸時代とそれほど変わっていないと私は考えているが、それは国際感覚の欠如、集団への滅私奉公的な態度、「個」を認めたがらぬ同質性として、これからもファシズムを生み出す土壌であり続けるような気がしてならない。
一昨年の夏、2週間程アメリカを旅行して来たのだが、そこで私が不思議に思ったことは、50年前とはいえ何故これ程の国を相手に日本は戦争を始めたのだろうか、ということであった。日米開戦当時、ニューヨークではエンパイヤステートビルディング(380メートル)をはじめ、200メートル、300メートルを超える摩天楼が林立し、ハリウッドでは「風と共に去りぬ」が制作され、デトロイトで作られた自動車は5人に1台の割で普及していたのである。そしてまた、日本の国力はアメリカの20分の1という信頼すべき情報があったのに、なぜ軍部はこれを黙殺したのだろうか。5パーセントの国力しかなくても95パーセントは神風が吹いてくれると信じたのであろうか。力の差は敗戦時には竹槍と原子爆弾の差となって現われたが、それよりも前に戦争を終わらせることはできなかったのだろうか。事実できなかったわけだが、その理由を追及していけば、今日にも通じる日本的発想の弱点や課題を見いだすことができるような気がするのである。
月並みな言い方だが、戦争の無い平和な世界であって欲しいと思う。これからの日本は一層国際化が進み、異文化との接触も多くなるに違いないが、その備えは出来ているのであろうか。我々の意識の中に諸外国に対する蔑視や偏見や卑屈感があるなら、それは克服しなければならない。また、日本人には顔が無い、物の話しかしない、集団的で閉鎖的だ、等々、諸外国からの批判に対しては、その是非を明らかにし、誤解を解くようにしなければならないだろう。今や年間1,000万人が海外へ飛び立つ時代である。観光や商用のついでに、現地の人々との交流をもつような企画があってよいと思う。
こうして見ると友好と親善にとって最も大切なのは、相手を理解しつつ、同時に言うべきことはきちんと言える能力をもつことだと思うのである。次世代を育てる教育者の責務は重いと言えるだろう。
今日の繁栄の中で、世界の平和を、などと言えばやや場違いの感もあるが、それはしかし、先の大戦で心ならずも犠牲となった幾千万の魂の叫びなのだと私は思っている。(1992.2.28)
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