神さまは生きて働かれる神さまで、私たちの生活の中で働いてくださる方です。神さまの働きを見ると感激し、喜びがあふれます。風が吹くと木の葉が揺れます。風は見えませんが風が吹いていることが分かります。神様は見えませんが、私たちの生活の中に神さまの働きの痕跡を見ることができます。
多くのクリスチャンは、神さまが私の人生を導いてくださった。「感謝なことだ」と言います。
「アーメン」はヘブライ語で「真実」という意味です。クリスチャンは祈りの時に声をそろえて「アーメン」と言います。それは祈られた祈りに対して「私もその祈りに同意します」「私も同じ思いです」という意思表示を表します。
キリスト教の神は「自分だけが神である」、他の宗教の神は「偽物である」と主張します。本物と偽物という違いがあるということになります。
キリスト教信仰の特徴は、神との関わりにあります。神と信者が人間的に言うなら「つきあう」のです。呼べば答える関係があるのです。キリスト教信仰は「教え」をまもる戒律宗教ではなく、人間に受け答えしてくれる神とのつきあいであり、神に応答して生きる「神との交わり」に特徴があります。これを神との人格的な交わりと言います。呼んでも応えてくれない神は、偽物となります。
「キリスト教はどのようなものなのか」。知識として知りたいなら、『キリスト教入門』と題される本を読めばよいと思います。自分も「信者になってもいいかな」「なりたいな」と思って具体的に知りたいと思うなら、教会に行って信者の人と接して話を聞いたり、教会の礼拝に参加し、説教を聞くとよいと思います。
十字架が救いの象徴だからです。
救い主であるイエス・キリストは十字架で処刑されて死にました。この死が、私たちの救いのための死であったと私たちは信じます。犯罪人として十字架で処刑された人が救い主なんて変だと思われるかもしれません。しかし神はイエス・キリストを三日目に復活させ、救い主であることを証明されました。
もちろん、救われます。
救いの根拠はイエス・キリストの十字架にあります。イエス・キリストによる救いを信じれば救われます。信じることが救いの条件です。どんな人間でも、どんな罪を犯した人でも、信じるなら救われます。
わかりません。
確かめられないので実際のところどうなのか、わかりません。だから、聖書に書いてある約束を信じます。聖書は天国、神の国を約束しています。それによれば、死んだら、イエス・キリストを信じる人は神の国に迎えられると約束されています。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」
(ヘブライ人への手紙 11章1節)。
ドアのようなものです。
そのドアを開けると、その向こうには神の国があります。
堅苦しくありません。
私は日曜日の夜、一日の務めを終えてほっとして夕食の時にビールを飲みます。近隣の牧師でタバコを吸う人がいます。お酒もたばこも基本的には個人の好みの問題です。
「わたしにはすべてのことが許されている。しかしすべてのことが益になるわけではない」(コリント一6:12)。
すべてのことが許されているのですから、クリスチャンの生活が堅苦しいはずがありません。
お酒ついて言えば、「酒に酔いしれてはいけません」(エフェソ5:18)とあります。度を過ごすことが警告されています。タバコもからだに悪影響のあることが知られています。だから「益にならない」ことは避けるのが賢明です。
禁酒禁煙といえばわかりやすいですね。これを実行すればタバコによる害や、酔った挙げ句の間違いをすることもありません。君子危うきに近寄らずという諺がありますが、禁酒禁煙と言ってこれを守るのも一つの道ですが、そうなると堅苦しいというイメージが生まれてきます。
逆に、「好みだから自由にしていいですよ、しかし度を過ごさないように」と言えば、自由になりますが、残念ながら度を過ごす人が生まれてしまうのも事実です。
そこで神の霊に導かれ清められて自己抑制できる信仰者に成長することが大切だと考えます。あえて「禁酒禁煙」などと言わなくても「益にならないことはしない」賢明なクリスチャンの成長を私は願っています。
大切にします。
死んだ人は神の国に行くと信じますので、死んだ人のために何かをするということはありません。亡くなった人をしのび、その信仰の歩みを敬い、それを模範にしようと私たちは考えます。そのために記念会という会を持つようにしています。
聖書には次のような言葉が書かれています。
「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」(ヘブライ人への手紙13章7節)
お盆やお彼岸にはしません。
イエス・キリストが十字架の上で死に、三日目によみがえられたことを記念するイースタの時に墓前礼拝をします。教会の墓地に行き、故人を偲び礼拝を献げます。
クリスチャンになったら仏壇は取り除き、お寺のお墓を何とかしなければいけないと心配されるのでしょうか。教会にも墓地がありますので、そこに葬ることができることをまずお知らせします。
クリスチャンになったら家にある仏壇の処置ですが、仏壇はキリスト教とは無縁ですから、できたらない方がいいですね。 しかし、あなたの気持ちはどうですか。仏壇は家で継承するという面がありますね。クリスチャンになったら仏壇を家に置くことは偶像礼拝にならないかと不安や後ろめたさを感じるなら取り除いたらいいと思います。そのためには家族、特に子供に伝道をするとか、家族の理解を求めることが大切だと思います。周囲の理解のないままに強硬に処置するのは好ましいとは思いません。
お墓が問題になるのは、家のお墓がお寺の墓地にある場合でしょうか。先祖の墓はそれとして、自分お墓をつくるなり、教会墓地を利用することにしたらよいと思います。
他の宗教のことは分かりませんが、キリスト教は、非理性的ではなく、現実逃避的でもありません。私たちは聖書を学ぶことを大切にしています。学びを重んじる、それは理性的なことではないでしょうか。聖書を読み、そこから神さまのみ心を聞いて生きるのが信仰ですから、現実直視です。
ただ苦しい時、困難に直面している時、神さまは避難場所です。自分の思いを注ぎだして神さまに祈り慰めと励ましを求めます。しかしその結果として勇気を与えられて現実に向かっていきます。
宗教は、神に代表される絶対的な存在を前提としそれを信じることに出発があります。見えない神をどうして信じられるのか、それは非理性的ではないかと思われるのでしたら、信仰は理性的、意志的であるとお答えします。私たちは何を信じるのかを明確にし(理性の働き)、信じると決心(意志の働き)します。
人によって意見が異なるでしょうね。多くのクリスチャンは経験から、神の守りなしに生きてはいけないと語る人が多いように思います。苦しいことや試練の中にあって神さまの守りが支えになると証言します。神さまの守りを信じて困難から逃げずに直面する勇気を与えられたという人もいます。
年を取った人に「神を信じなくても支障なく生きていけるかどうか聞いてみて下さい」。「生きていける」と答えた人は運がよい人ではないでしょうか。人は、支えとなるものを必要とする存在だと思います。
神さまからすれば、この地上に「正しい」人はいません。誰もが罪を犯しています。そこで「人にはなぜ苦しみがあるのか」という質問に変えます。
これも色んな考え方があって正解はないと思います。
私の正直な気持ちをいうと、人間の罪が何らかの形で作用しているのではないかと考えています。だから、自分の気づいた罪は赦しを求め、克服するために聖霊の導きをいつも求めています。自業自得という形で自分に罪を招かないために、あるいは他者に迷惑をかけ苦しみを与えることにならないように。
神さまに導かれた人々によって書かれました。聖書は一人の人によって書かれたものではなく、多くの人によって、しかも長い年月をかけて書かれました。旧約聖書は紀元前(BC10世紀頃)頃から書き始められました。新約聖書は紀元後(AD2世紀迄)に書かれました。
このように書いた人々が沢山おり、書かれた年代も別々ですが、人間を救おうとする神さまの計画、御心を一貫して伝える書物となっています。
神に導かれて書かれた書物なので、神に導かれて読むのが最善の読み方です。勿論、古典として、宗教書として読むことも可能です。
聖書はそれなりに分厚い書物ですから、何が書いてあるか簡単に話すことに困難を感じますが、簡単に話します。
神さまがいかなる方なのか、人間はどのような存在なのか、神さまは人間をどのようにして救われたのか、人間は救われてどんな祝福を受けることができるのか、神を信じる人はどのように生きるべきかなどが書かれています。
以上の内容を無味乾燥な感じの多いカタイ書物としてではなく、物語として書いています。それ故、興味深く読むことができます。しかし聖書の根本を抑えておかないと、個々の物語は面白くても聖書は何を伝えようとしているのか分からないということになりかねません。
物語としても面白いですから、是非、読んで下さい。聖書に書かれていることは世界に出て行く時、常識的な面がありますので
もちろん、どなたも歓迎します。私たちの教会では、礼拝に来たからと言って信仰を強制はしませんから安心して下さい。信じることを勧めはしますが、信じる信じないは、その人の自由です。
いつ来て下さってもかまいませんが、当てがはずれないために以下のことを申し上げます。
礼拝に参加する目的でしたら、日曜日の午前10時半に来て下さい。教会の集会においでになるのであれば、教会の集会案内をご覧になって目的に合う時間においで下さい。
牧師と話をしてみたければ、前もって電話を下さい。お金を無心に来られてもご期待に添えないと思います。
いいです。
信じるかどうかは聞いてから考えればいいことです。買うか買わないか分からないからお店に行かない、という人はいないと思います。お店に行って物を見てから買うか買わないか決めますよね。教会も同じです。私たちの教会は、信じることを勧めますが強制はしません。安心してきて下さい。
神さまはすべての人を招いておられます。どなたも来ることができます。
礼拝では、神さまと向かい合います。私たちは神さまに向かって、讃美歌を歌い、祈り、献げ物をささげます。神さまは説教を通してわたしたちに語りかけてくださいます。約一時間くらい。
月に一回、聖餐式という儀式があり、その時、小さなパンのかけらと小さな杯に入ったぶどう酒が信者の人に配られ、それをいただきます。
この神さまと向かい合う時が、とても幸いな時なんです。
初めて来られる場合には、用意するものは特にありません。信者の人は聖書、讃美歌、献金を持ってきます。聖書や讃美歌は教会に備えてありますので、受付でおっしゃって下さればご利用できます。
神さまへの献げ物です。神さまに守られ、生かされていることを感謝する思いで、その気持ちを献金で表します。また自分を神さまに献げ、神さまに従って生きていくという気持ちも献金で表します。
感謝の気持ちや神さまに従うという気持ちを表します。献金額は微妙ですね。少なすぎる額では、その気持ちが真実かどうか疑問に思われますよね。といって。多額を献げるのもためらわれます。
「相場」は決めていません。無理のない範囲で、喜んで献げられる額をおささげください。教会は毎年、教会総会を開いて予算や活動計画を決めています。礼拝献金の収入も実は予算化されています。
献金の「相場」=礼拝献金収入予算額÷礼拝出席人数の平均÷55
と計算することはできますが、それは平均値です。聖書には次のような言葉があります。
各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。
福音を伝えるという神さまから与えられた使命の実行のために使われます。別な言い方をすると教会の活動に使うということになります。教会の活動のための費用はすべて献金でまかなわれています。
同じではありません。
あなたは誰と結婚しても、結婚生活は同じだと考えるでしょうか。人が好きな人、愛する人を求め、その人と結婚するのは、なぜでしょうか。誰と結婚しても同じだとは考えていないからです。本当に幸せな結婚生活をするためには、相手は選ばなければならないから、好きな人、愛する人を求めて人は結婚します。
何を信じるか、どの神を信じるかは大切なことです。個別の宗教が教える神とはいかなる存在なのか、慎重に吟味する必要があります。
宗教は何を信じても同じと誤解する人が、宗教は危ないなどと間違ったことを言います。
もちろん、いいですよ。
教会には、実は入り口が沢山あります。ある人は「悩み」の解決を求めて教会に入ります。ある人は友達に誘われて教会に入ります。ある人は親に連れられて教会に入ります。学校で行きなさいと言われて教会に入る人もいます。特に悩みがなくて教会に入る人もいます。どうぞ来てください。
聖書は神について、人間について、人間の生き方などを教えます。聖書を学んで悩みが解決する場合があるし、悩みがなくても、聖書から学び信仰に入る人もいます。
どうぞ教会においで下さい。牧師がお話を伺います。留守している時もありますので、来られる前には電話で牧師が在宅していることを確かめてくだされば無駄足を踏まなくてすみます。
できます。遠慮しないでおいで下さい。
ありません。
「礼拝に来ませんか」とお誘いすることはあると思います。でも強要はしません。信仰は自ら選び取るものだと考えています。
挙式をいたします。ただし条件があります。
ちょっと考えてください。結婚式において、結婚する二人は、神の前で誓約をします。「健やかな時も、病める時も、これを愛するか」と結婚相手を愛することを神に対して誓約します。勿論相手に対する誓約にもなりますが。誓約をする「神」がいかなる存在かを知らないで誓約することは可能でしょうか。それだけはきちんと考えてください。
教会での挙式を希望される方には、結婚式の前にある程度の期間、礼拝に出席していただき、神がいかなる方であるかを知っていただくことお願いしています。そしてキリスト教は結婚をどう考えるかを学んでいただきます。
この二つを約束してくださるなら挙式をいたします。
教理(キリスト教の教え)をめぐって1054年に教会は「東方正教会」と「ローマ・カトリック教会」に分裂しました。
その後、免罪符問題をきっかけとしてマルチン・ルターによる宗教改革が始まりました。ルターは教会の分裂を意図したわけではなく、教会の改革を志したのですが、結果的に分裂しました。ほぼ同じ時期に、ツヴィングリ、カルヴァンの二人によってスイスにおいて宗教改革が始まります。
イギリスでは、ヘンリー八世の離婚問題に絡んで、カトリック教会から分離独立して英国国教会ができます。
このようにしてカトリック教会から分離、独立した教会をプロテスタント教会と呼んでいます。プロテスタントという言葉は、ルターがカトリック教会に抗議(プロテスト)したことに由来します。
キリスト教国と呼ばれる国が戦争することがあります。あるいはイスラム教国と呼ばれる国が戦争をすることがあります。そういう時、宗教が戦争の原因であるかのように言われます。それは誤解だと私は考えています。キリスト教国と呼ばれる国が戦争をするにしろ、クリスチャンである大統領が戦争を始めると宣言するにせよ、戦争を始める理由があります。その理由は、信仰とは別な理由です。 聖地奪還を理由にした十字軍による戦争にしても、信仰が戦争の動機ではありません。
キリストの使徒たちは「聖書か剣か」と相手に選択を迫るようなことはしませんでしたし、キリストを信じる者たちは、武力を持って迫害に抵抗するのではなく、むしろ迫害には耐えてきました。
聖書の教えは「愛しなさい」だけではありません。「正義を行いなさい」も教えです。
いずれもキリスト教ではありません。
キリスト教か否かを判断する基準があります。 聖書に登場するイエスという人物をどう考えるかが第一の基準です。このイエスを
と信じるのがキリスト教です。私たちの救い主、まことの神にしてまことの人である
エホバの証人はイエスを救い主と信じていません。エホバの証人の人たちは熱心に家庭訪問をし、伝道用のパンフレットを売っています。そのパンフレットをいくつも読んでみました。キリスト教とは似て非なるものです。輸血することを禁じています。常識から著しくずれることを教える宗教は気をつける必要があります。
統一協会は文鮮明という人を救い主と信じています。イエスは救い主としての働きに失敗したと考え、文鮮明が救い主として登場したと述べています。統一協会が正典としている本を読みました。聖書を引用していますが、キリスト教とは似て非なるものです。
モルモン教については詳しい内容は知りませんが、『モルモン経』という本を正典と信じているようです。聖書以外のものを正典とするのはキリスト教ではありません。
まず、イエス・キリストが実際に生まれた日はいつかわかりません。四世紀になって12月25日をキリストの誕生日として祝われることが始まりました。勿論、祝うのは教会です。
教会ではクリスマス礼拝を献げ、愛餐会(食事会)を行って、神さまが救い主をプレゼントしてくださったことを共に祝います。
サンタクロースという言葉は、実在の人物、聖ニコラウス(セイントニコラウス)から来たものです。彼は司教(聖職者)でしたから、キリスト教と関係がないとは言えませんが、信仰生活、教会の活動とは直接的な関係はありません。
クリスマスの雰囲気を盛り上げるための小道具のようなものではないでしょうか。私にもよく分かりません。