■□12月の法話■□



●世紀末だからこそ

 今年もあと少しで終わろうとしています。今年一年を振り返ってみて、みなさんはどのような一年だったでしょうか。
 来年は2000年。まさに20世紀の最後の年です。世間では終末だとか世紀末だとか言われています。新聞を読んでもいい記事はは少なく、こんなことがあるのかと思わせるような事件が相次いで起こっています。なにかこの世の終わりを暗示するような感じです。
 仏教にも「末法」の考えがあります。釈尊が亡くなってから数千年たつと、仏法は衰え世の中もすさむ、との教えです。現代を眺めると今はまさしく、世紀末・末法の時代と言ってもまちがいないのではないでしょうか。
 ちょっと考えてみれば、時代、社会と言うものはすべて人間の営みによってできています。と言うことは、すべて人間の営みですから、人間の生き方、考え方によって、どのようにも変えられるはずです。しかし、現実はなかなかそう思えないようです。
 ところで、みなさんの知っている言葉に、「自業自得」という言葉がありますね。一般には「自分の悪行為の報いを自分が受けること」というふうに悪い解釈しかされていません。しかし、仏教の本來の意味は、「自ら作った善悪の原因によって、自らが楽・苦の報果を受ける」ということです。だから、「自分の行為には、自分が責任をもつ」というのが、自業自得の正しい解釈なのです。
 今、世紀末だとか末法だといっても、原因が社会や時代や他人の生き方あるのではなく、元をただせば、みなさん一人一人の「今」の生き方にあると思うのです。ものがどんなに豊かでも、人間として忠実に生きていないのなら、世紀末・末法です。また、いかに世の中が不況でも、人間らしい生き方を求めて日々を過ごすなら、逆にすばらしい世の中になるはずです。
 人間をよくするのも悪くするも、みな人間です。たとえ結果がすぐに出なくても、人間に失望してはいけないのです。たかが人間、されど人間ということでしょうか。
 仏教では、「すべての人には、例外なく、仏の心が生まれながらに備わっている」と教えます。これがもっとも大切な仏教の人間観です。仏の心を仏教語で、「仏心・仏の命」、あるいは「空」とか「無」とか言ったりします。もっとわかりやすいように言えば、「純粋な人間性」といい換えてもいいでしょう。この純粋な人間性とは、「人間を人間にさせる、あるいは人間を人間であらしめる根源の心」のことです。だから、それにみなさんが気づいてもらうために一番簡単な修行として、それぞれの宗派は坐禪、念仏、唱題・・・・などをもうけているのです。
 この純粋な人間性を自分は備えていると気がづいたときが、人間が人間になれたときです。この事実に気がつくには世紀末も末法もまったく関係ありません。
 本当に自分を愛し、自分を大切にし、生まれてきてよかった・・・・と充実した人生を送ろうとするなら、世紀末や末法と言われる今の時代こそ逆に、誠実に生きる中・・・・たとえ転んでも、失敗しても、生ききるという・・・・に、「純粋な人間性」を気づくチャンスがあるはずです。一度でも、仏の教えに耳を傾けて頂ければと思います。
 とにかく誠実に生きていきましょう。  今年のモミジは温暖のために紅葉が遅れました。それでも、葉は精一杯生ききり、赤く色づきました。そして、今いさぎよく散って、庭には枯れ葉が一杯になるぐらい落ちてきます。


■□11月の法話■□



●倚りかからず

 人は何かを拠り所にして生きています。
 お金を拠り所にする人もいれば、名誉をなによりの拠り所とする人もいます。また夫や妻や子供が拠り所になっている人もいます。あるいは仕事が拠り所になっている人もいます。
 しかし、これらに頼っている限り、「無常」という風が吹けば、すべてのものは必ず倒れてしまいます。死という現実は、すべてのものを捨て去り、生きていく希望や支えをなくしてしまいます。そして頼っていた自分もともに倒れてしまいます。
 七年ぶりに、茨木のり子さんが『倚りかからず』という詩集(筑摩書房)を出されました。

 もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくはない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ

 この詩は、本のタイトルにもなっている「倚りかからず」です。この詩を読むと、私たちはいかに「できあい」のものに倚りかかっているかを反省させられてしまいます。まさに「できあい」の思想、宗教、学問などなど。
 ところで、私たちは生まれてくるときも裸で、死んでゆく時も何ももたずに裸で死んでゆきます。この間に、お金を持ったり、名誉を持ったり、思想、宗教、学問を持ったり、妻や子供を持って生きていきます。そして、それら持ち物によって自分の生を充実させています。しかし、それらは自分自身ではないのです。
 持ち物によってではなく、私たちは「じぶんの耳目」でものを見聞し、「じぶんの二本足のみで立って」いる幸せをもっと思い返すべきだと思います。自分が「倚りかか」らず生きるということからもう一回、考えを構築しなおす必要があるのではないでしょうか。
 茨木さんの詩を読みながら、一切を手放し、脱ぎ捨てていかれたお釈迦様の、「法を拠り所とし、自らを拠り所とし、他を拠り所としてはならぬ」という言葉を思い出してしまいました。ただ、茨木さんに言わせれば、仏教もただ単に「自分の人生」を抜きにして、教えだけを鵜呑みにすれば持ち物になってしまいます。「できあい」の宗教です。
 本当に自分の人生を見つめながら仏教を学んでいくことによって、私たちも「倚りかか」らず生きることができるのではないでしょうか。
 茨木さんの詩は、73年に渡って真摯に生きる中で自分を見つめたものと思います。現代版お釈迦様の詩と言ってもいいでしょう。
 是非、皆さんも一度お読み下さい。


■□10月の法話■□



●幸せとは

 わたしたちは、「生活、生活」といって血眼になって働いています。家のローン、車のローン、子供の学費のため、あるいは老後のためにと。それは何十億ものお金が手元にあればそんなことは考えないかもしれませんね。
 確かに、お金が無いということは、今の世の中にあっては惨めかもしれません。まして来年から施行される介護保険というシステムは庶民にとっては大変な負担になるように思います。保険料は40才から亡くなるまで払い続け、介護を受けるにはその費用の一部を支払っていかなくてはいけないからです。
 こんな状況ですから、今したいことも我慢して、お金を貯めたり、保険に加入したりすることは、庶民にとっては最低限の防衛手段かもしれません。
 ところで、『イソップ物語』に働き者のアリと怠け者のキリギリスの話があります。それは夏のあいだ一所懸命働いて食べ物を蓄えるアリをはた目に、キリギリスは歌を唄って遊んでいました。しかし寒い冬になってみると、食べ物の蓄えがないのです。そこで、キリギリスはアリの家に食べ物を懇願に行きます。アリはキリギリスに「それみたことか、普段怠けていたから悪いのだ」と剣もほろろに断わってしまうのです。この話は勤勉や蓄財の大切さを私たちに教えてくれます。
 しかし、最近では『新イソップ物語』というのがあるのです。食べ物を懇願にキリギリスはアリの家へ行きます。ドアをノックするが、返事がありません。裏戸から中に入ってみると、アリは夏の働き過ぎで死んでいたのです。そこでキリギリスはアリが残してくれた食べ物を食べて冬を過ごすことが出来だという話です。
 この二つの話は、今の私たちをうまくつかんではいないでしょうか。勤勉に働き続ける大人とコンビニの前に坐っている若者たちを。
 仏教の教えから言えば、どちらも違うと言えます。ひろさちあ氏は仏教を「幸福学」と言われています。それはこの世は無常だから、私たちは「今」をしっかりと幸福にしなくてはいけない。「今」の幸福を犧牲にして、将来の利益ばかりを追っかけていると、何時死が訪れるかわからない人間は結局不幸な一生を送ることになってしまうからということです。だから、「今」の幸せを大切にすべきなのです。
 山村暮鳥という詩人がいます。結核にかかって牧師の職を奪われ、奥さんに働いてもらって、自分は詩や童話を書いていた方です。その方の詩に「病床の詩」というのがあります。
 
 ああ、もつたいなし
 もつたいなし
 かうして
 寝ながらにして
 月をみるとは
 

 ああ、もつたいなし
 もつたいなし
 妻よ
 びんぼうだから
 こんないい月もみられる

 普通であれば、月が出れば一杯飲むとなるのですが、暮鳥は結核で寝ながらしか月を見るほかない状態です。明治の人ですから、月は拝むもの。そこで「もつたいなし」という言葉が出たと思われます。そして貧乏で何もないので、逆に純粋に月を見ることができ、その月に温かく見守られている気持ちが感じられる気がします。暮鳥は病気であり、貧乏な状態ですが、それでも「今」に幸せを見つけていると思います。
 本当に幸せな生き方とは、今生きている自分を大切にして、今日の一日を生きていられることに感謝することではないでしょうか。暮鳥の詩を読むと、これはお金のあるなしには関係なさそうに思えてきます。
 「お金、お金」と言わずに、皆さんも一度ゆっくりと月を眺めてみませんか。


■□9月の法話■□



●本 気

 今年の夏も何とか過ぎてしまいました。とは言っても、身体の調子は今ひとつ。どことなく身体がだるい感じがしています。
 それは、暑い最中に棚経(関西は8月にお盆の行事を行い、その期間に僧侶が各家庭を廻ってお経をあげる)に行くので、体力がいるからです。
 ところが、この暑い夏に私は特に弱いのです。食欲は落ちるし、眠りが浅くなり、そこでドリンク剤のお世話になります。それと大好きなビールでなんとか身体を維持している次第です。それでも9月になると夏の疲れがでてくるのです。
 こんなことを書くと、皆さんは多分こう思われるのではないでしょうか。「え、お坊さんでもお酒飲んでいいの」と。でも、法事の時などに、お坊さんもお酒を飲んでいる姿を見られるので、そんなことは思わないかもしれませんね。
 確かに修行中は、お坊さんは精進料理で過ごしています。ただ、檀家さんの招待がある時があります。こんなときは色々なご馳走がでてきます。それを私は精進しか食べないと言って、食べない訳にはいきません。出たものは、なんでも選ばずに頂かなくてはいけないのです。お酒もしかりです。
 普通の方は、お坊さんと言えば戒律をと言われます。しかし、日本に伝わった仏教(大乗仏教)にはそもそも、「戒」しかないのです。形式的に戒律を守るのではなく、「空」の立場に立って戒を行うことが大乗仏教では大切だと教えているのです。
 確かに修行中は団体生活ですから、規律ということは必要です。しかし、それは規律を守ることによって、我というものを無くしていく稽古なのです。だから、修行中はわがままは許されない。禅宗ではすべて鳴り物によってすべのことを行っていくのです。生活を通して無我を稽古するのです。
 ただ、この延長でものごとを考えてしまうと、規律に縛られてしまいます。
 本当は規律というのは、縛るためではなく、それに縛られないようになるためにあるのです。
 仏教詩人の坂村真民さんの「本気」という詩があります。
 
 「本気」

 本気になると
 世界が変わってくる
 自分が変わってくる
 変わってこなかったら
 まだ本気になってない証拠だ
 本気な恋い
 本気な仕事
 ああ
 こいつを
 つかまんことには

 本気。すべてに本気です。こんな気持ちで生きていけば、規律に縛られないで、自由に生きる人間になることができるはずです。自由に生きたいですね。
 と言う訳で、ビールを。


■□8月の法話■□



●お盆について

 一年で最も盛んな先祖供養といえば、文句なしに「お盆」・・・・・・。では「お盆」という言葉の由来は、わからないと言われる方が多いと思います。
 普通「盂蘭盆」と漢字に音写するこの言葉は古いインドの言葉でウラバーナと言い、「倒懸」(さかさまにぶらさげる)という意味があります。
 一般的には、「盂蘭盆経」というお経の中の、目連尊者の物語に由来しているとされています。
 お釈迦さまには、10人の偉大なる弟子がいたとされていて、彼等はまとめて「十大弟子」とよばれています。その中の一人に、神通力がすぐれていた目連がいます。この目連が、得意の神通力によって、死後の世界を眺めてみたところ、亡くなった目連の母親が、餓鬼道に落ちて、まさに倒懸の苦しみを味わっているのです。目連は、なんとか亡き母を救おうとするのですが、いくら神通力がすぐれていても、まさか死後の世界にまでその力を発揮して母を救い出すわけにはいかなかったのです。
 そこで、師匠であるお釈迦さまのところに来て、「何とか母親を餓鬼道の苦しみから救い出す方法はないでしょうか」と尋ねたところ、「亡き母に代わって、お前が布施の功徳を積めば、それが追善の効果をあらわして、きっと亡母は救われるであろう」と教えられました。
 喜んだ目連は、出家者の修行が終了する7月15日を選んで、多くの比丘(出家した大人の男の僧)達に、さまざまな供養をしたところ、その功徳によって、亡き母親は、餓鬼道の苦しみから救われたのです。そして、その後も亡き母と同じ苦しみにあえぐ多くの人々を救うために、同じことを行っていったのです。これがお盆の起源なのです。また亡くなった人の年回法事にお坊さんを招いて、供養することも、ここから始まったとされています。
 こんなわけで、古くから日本においては、7月15日(関西地方では8月15日)を中心として、死んだ先祖たちが、悪世界の苦しみから救われることを願って、「孟蘭盆会(うらぼんえ)」とよばれる、追善供養を行なってきたのです。
 ところで、この餓鬼道に落ちる話は、何も亡くなった後の話ではありません。
 オレはだれの世話にもなったことはないのだと、言われる方がいます。しかし、私たちは、「メシを、野菜を、肉を、空気を、光を、水を、親を、きょうだいを、師を」食って生きてきたはずです。にもかかわらず、そのことがわからないのです。そのことに盲目なのです。それどころか、親を始めとして周りのすべてのものに「反逆」をしているのが、私たちの現実なのです。その反逆の姿こそ、倒懸の苦しみを味わっている目連の母親とおなじではないでしょうか。
 お盆を機縁に、仏の教えに学ぶことによって、私たちの姿がわかってきます。そこではじめて、私たちは「本来の自己」に還ることができるのです。
 お盆は、先祖を追善する行事ですが、同時に、仏の教えによって私たちの生き方を省み、人間が真に人間になる期間かもしれませんね。


■□7月の法話■□



●没頭について

 梅雨の時期は、法蔵禅寺にとっては大変です。
 というのは、ここは瓦の寿命がきているため、少しの雨で漏ってくるからです。その時はバケツをもっていって受けます。それが一つ二つと増えていきます。昼間であれば、まだいいのですが、夜ともなると、「どうして寝ているのに」と愚痴りたくなってきます。  こうは、書いたものの、実はこれは家内の言葉。住職の私は、すやすやと寝ていて、朝起きて大変だった様子がわかる始末です。それでも、時にはやはり起きて、うろうろすることもあります。その時はやはり家内と同じで愚痴りたくなってきます。
 それでも、いやいや雨を受ける位置にバケツを置くことをしているうちに、その思い遠のいてきます。「この瓦で、よくこれだけの雨漏りですんでいるな」と思えてくるからです。それにどう愚痴ったって、今のお寺の経済状態ではどうすることもできません。やってみてもどうしようもないことは、やはりどうしようもないと諦めて、寝てしまうのです。
 いやいやでも、身体をつかって何かをしていくと、没頭します。頭を没するのです。頭とは、自分にとっての都合のよい思い、利害打算、分別。それを没するのです。そこには「なるようになっている世界(安らいだ世界)」が開けてきます。
 小倉玄照さんの詩に次のようなものがあります。

 足が痛い
 とるにたらぬ
 そのひとことが
 私の心に
 かたときも離さず
 かかえていた
 死ぬほどの悩みを
 見失わせてしまった

 これは、坐禅をうたったものです。誰でも坐禅は、足が痛いはず。それでも、坐禅を続けていると、坐禅がすべてを覆ってしまうのです。没頭ということでしょうか。
 雨が降ったからと言って愚痴ってもはじまりません。こんな時は、坐禅(正座)をして、都合のよい思い、計算ずくの思いを、手放しする練習をするしかないようですね。
 法蔵禅寺の庭の苔は、雨に濡れて楽しんでいるかのように緑色に輝いています。


■□6月の法話■□



●サラサラと

 般若心経はみなさんが一番なじみの深いお経ではないでしょうか。字数にして262字。しかし、その内容となると何が言ってあるのか、わからないという方がほとんどではないかと思います。
 今月は、般若心経の言葉についてお話をしてみようと思います。
 このお経の中に、「無けい礙」(むけいげい)という言葉あります。「けい」とは「網」のことを言い、「礙」とは「妨げ」のことを言い、何かが邪魔をして立ち止まっている状態を意味します。悲しみがあれば悲しみに引っかかり、心配事があれば心配事にとらわれてしまうように。つまり、「けい礙」とは「心のわだかまり」を言うのです。
 ところが般若心経は「無けい礙」。「けい礙」がないと言います。それは「般若波羅密多」を実践するからとあります。「般若」とは「智慧・・・・<空>の立場に立って物事をありのままに観ることのできる智慧」ということですが、これを身につけたら、「心のわだかまり」がなくなるということです。
 例えば、今とても心配事があって、夜も寝られないで困っているとしよう。「ああ、こうだ」と考えて。その時は苦しいかもしれない。しかし、時が経ってしまったら、そのことは収まるところに収まっているのです。
 別に心配事がなくなった訳ではない。ただ、心に余裕ができて、囚われていた心が自由になっただけなのです。ちょうど谷川の水が岩や木の根などを気にせずに、サラサラと無心に流れていくように、心がサラサラとできたらどんなにすばらしいことでしょう。これが「空」というものかもしれません。
 ところで、今年は尾形乾山がここ法蔵禅寺に窯を開いて300年が経ちます。乾山は雁金屋の三男として生まれ、当時の町人の子供としても裕福な生活を送りますが、内向的な性格だったためでしょうか、青年期に当時来日した隠元の流れを汲む黄檗の禅に触れ、修行を行います。それから陶器を作り始め、素晴らしい作品を遺し、81歳の時江戸で亡くなります。その彼が遺した詩を紹介します。

 放逸無慙八十一年
 一口呑却沙界大千
 うきこともうれしき折も過ぬれば
 ただあけくれの夢計なる

 意味は、わがままかっての81年を私は生きてきた。しかし。私は恥じはしない。大きな口を開けて一口ですべてを呑み込んでしまえば、いやなことも楽しいことも、過ぎてみると、ただ生きていく上での夢はからいだった、と。
 乾山の人生は、裕福な生活から陶器を作る世界へ。そして、晩年は江戸でだれ知るともなく亡くなっています。これを思うと、色々あったように思えてきます。それでも、乾山は、すべては夢はからいだと言っています。
 これはまさに「けい礙」なしに物事を観ている言えると思います。後の京焼に大きな影響を与えた乾山。やはり、現代の人でも乾山の作品を見ると、心惹かれるのは、乾山の心にわだかまりがない、自由さから生まれた意匠の見事さを感じるからではないでしょうか。


■□5月の法話■□



●すべてが修行

 わたしたちが生きていると、自分にとって都合の「いいこと」、「悪いこと」が必ず起こってきます。いいことが続けばいいのですが、そんなことはありません。また悪いことも本当は続かないのです。
 ただ、たまたま悪いことが起こると、次もまた悪いことが起こるのではないかと心配になって、逆に悪いことを呼び寄せ、悪いことがが続けておこったように思えてきたりします。これは人間の心理としていたしかたのないことなのでしょうか。
 冷静に考えればわかると思うのですが、生きていて、自分の思いどおりになるようなことはほとんどありません。つまり、自分にとって都合の悪いことが多いはずです。それでも、なんとか生きているのは、どこかで諦めて生きているので、何とか生きているわけです。普段のときは。
 ところが、落ち込んだ時などは、ちょっとした悪いことが気に掛かり、落ち込みを深めてしまいます。そしてむなしい気持ちになってしまうのです。こうなるとどうしようもなくなって、暗黒の泥沼に入っていく経験は皆さんも一度くらいはお持ちではないでしょうか。
 しかし、ここで生きるのがイヤになってしまったからといって、お酒を飲んでも、やけ食いをしても、旅に出ても、問題が解決されるものではありません。
 人生、自分がしなければならないことは、どうしても自分でしなければなりません。例えば、わたしたちはどんなに面倒くさくとも、自分の食事は、自分がしないことには身につきません。それと同じで、生きるということも、どんなことがあろうと自分が生きなければならないと意味がありません。
 百歳を超えて生きられた彫刻家平櫛田中さんが、次のような言葉を言われています。

 「わしがやらねば誰がやる」

 この言葉は、他人がしたことは、決して自分のことにはならない。自分のすべきことは、どこまでも自分がしていく。それが修行ということだと言われているように思えます。
 確かにわたしたちは思ったことがことがうまく行かないとき、すべてがイヤになることがあるでしょう。それでも、どんなにイヤになっても、どんなに苦しいことでも、自分でしなければ、自分がしたことにはならないのです。
 自分にとって都合のいいと思えることも悪いと思えることも逃げる訳にはいかないのです。この両方があって、わたしたちの人生です。「ようこそ、ようこそ」と全てを頂き、これが生きる修行と思って、生きていきたいものです。


■□4月の法話■□



●花まつり

 4月8日は「花まつり」で、お釈迦さまの誕生をお祝いする日です。
 花まつりはこれまで、「降誕会(ごうたんえ)」とか「仏生会(ぶっしょうえ)」とか「灌仏会(かんぶつえ)」とか呼ばれていましたが、大正時代ごろから、お釈迦さまが花園の中でお生まれになったということから「花まつり」と呼ぶことなったようです。
 お釈迦さまは今から2500年ほど昔の4月8日、インドの北にある(現在のネパール国)カピラ国のルンビニーという花園で、シュドーダナ王を父君に、王妃のマーヤ夫人を母君としてご誕生になりました。その時、空から香りの高い、甘い雨が降り注いでお身体を洗い浄められたと言い伝えられています。
 そうしたお話から、「花まつり」には花園になぞらえて花御堂を飾り、誕生仏の身体に甘茶をかけてお祝いするようになったのです。
 この王子さまのお名前をシッダルタ王子とか、シッダルタ太子とか呼びます。それを一般にはお釈迦さまとかお釈迦さまと言うのは、「釈迦族」という民族の生まれで、その代表者という意味からお釈迦さま、またはお釈迦さまと呼ぶようになったのです。
 しかし、正式には釈迦牟尼(しゃかむに)、または仏陀(ぶっだ)と言います。仏陀とは「真理を悟った人」という意味です。
 お釈迦さまはお生まれになると、すぐに七歩歩き、右手で天を、左手で地面を指さして「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と叫んだといい伝えられています。「この地球上で一番尊いのは私だ」という意味です。
 しかし、生まれた赤ちゃんが七歩あるいて、言葉を発するということは考えられません。
 これはお釈迦さまによって仏教が生まれた訳ですから、仏教の誕生とお釈迦さまの誕生とをからませて、「仏教の根本」を示すために、後世の人が作ったお話と考えるでしょう。
 そこで七歩歩かれたということは、「六道(ろくどう)」つまり「地獄(じうごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人間(にんげん)、天上(てんじょう)」という<迷いと苦悩の六つの世界>を踏み越えて、はじめて<悟りの世界>である浄土(この境地を彼岸ともいいます)に達することがてきるという教えを意味します。
 またお釈迦さまが右手で天を指さしたのは「上求菩提(じょうくぼだい)」といって、「向上を目ざして、努力精進する気持」を表し、左手で地面を指さしたのは「下化衆生(げけしゅじょう)」で、「広く人々を救済する決意」を表してます。これは、お釈迦さまの教えを広めた一生を意味し、あの誕生仏の姿にしたのです。
 そして「天上天下唯我独尊」の意味は、この世の中でどんな人にとっても、一番大切で尊いものは、「かけがえのない自分の生命、これが天上天下(世の中)で一番尊く大切なのだ」ということです。しかし、このことはお釈迦さまだけではありません。あなたも、そして私も誰でもが、天地の間の一人であって、二人とはいません。それは、本当に尊い生命なのです。
 相田みつおさんの詩があります。

 みかんも
 りんごも
 おたがいに
 くらべっこも
 競争もしないけれど
 それぞれに
 いのちいっぱいに
 じぶんの
 花を咲かせ
 じぶんの実を
 つける

 どんな行為も、ほめられるためであったり、みとめられるためであったり、自分の欲や名誉を得るためであれば、それはもう美しい行為でなくなってしまいます。
 私たちはこのみかんやりんごのように、競争も比べっこもしないで、ただ生きればいいのです。無心に生きればいいのです。そこに素晴らしい花を咲かせ、実をつけることが出来るのです。
 平素私たちが忘れている、大切な人間のはじめの心に立ち返ってみましょう。天地の大きな生命に支えられ、生かし生かされている自分の生命の尊さ、その自分の生命が大切なら、他人の生命もまた同じように大切な生命なのです。
 だからこそ、自分たちと同じように、他の人々も大切にし、思いやりの心で、出会うものや出会う人に接するというのが、仏教の根本理念なのです。
 この「花まつり」はお釈迦さまのお誕生をお祝いするとともに生命の尊さに目ざめ、それを再確認する日にしたいものです。


■□3月の法話■□



●ほんとうの人間に

 軒下にさげられた
 とうもろこしの一粒も
 芽ばえるいのちを
 秘めている
 私の中にも
 私の思いを
 超えて
 生きているいのちがある
 いのちの中に
 いのちがある

これは詩人で画家の星野富弘さんの「とうもろこし」という詩です。
 私たちは「私の思い」によって、便利で豊かな世界を作ってきました。しかし、私たちの心はどこか疲れきっています。
 この原因はいろいろ考えられるかもしれませんが、「私の思い」があまりにも膨らみすぎた結果ではないでしょうか。
 星野さんの詩は、私たちにいいヒント与えてくれます。私たちの思いを超えた「いのち」は、それぞれに備わり、それぞれを共に生かそうとしている。それに目覚めようと。
 このことは、2500年前にすでにお釈迦さまが言われていることであり、私たちの人生の目的でもあるのです。
 「いのち」に目覚めるとは、私たちがほんとうの人間になるということです。
 私たちは、「思い」によって、自分と他人という区別が始まり、欲望の虜になってしまうのです。欲望はつきることなく、膨らんでいきます。そして、ここから苦悩が起こってくるのです。
 しかし、どんなに悩んでいようが、私たちの「思い」を超えて「いのち」はちゃんと私たちを生かし、すべてを生かしています。これに目覚めることが、ほんとうの人間になるということです。
 すべては賜り物。私たちの「思い」にとって、よいことであろうとなかろうと、今の私たちに必要だからこその現実です。安心して、今やることを<まごころ>こめてやっていくことが大切ではないでしょうか。
 このことにより、私たちには、謙虚で、安らいだ生活があると思うのです。


■□2月の法話■□



●節分のお話

 2月といえば節分です。
 2月3日の夜、それぞれの家庭では「鬼は外、福は内」と叫ばれて、豆がまかれます。そして残った豆の中から自分の歳の数だけ、豆を頂きます。この行事は、地方によっては「豆まき」と言われているところもあります。
 ところで、節分は2月3日だけではありません。本当は冬から春、春から夏、夏から秋、秋から冬へというように季節の移り変わる分かれ目の日なのです。季節の分かれ目ということで「節分」という訳です。
 節分は年に4回ありますが、なぜか冬から春へ移り変わる2月3日だけを節分と呼ぶようになったのです。
 では、なぜ2月3日の節分に豆まきをするのでしょうか。
 これは、ある話に由来します。
 昔、ある所に美しい娘がいました。ある年の節分の夜のこと、家のものが出かけて、一人で留守番をしていると、どこからか一匹の鬼が現れて、「これは美しい娘。俺の嫁になれ。ならなければ殺して食ってやる」とせまります。
 ところが、この娘は非常にしっかりもの。「誰がお前のような鬼の嫁になどなるものか。さっさと出ていけ」と言うと、近くにあったザルの中の豆をつかんで、「鬼は外、鬼は外」と怒鳴りながら、豆を投げつけました。
 たまたま娘の投げた豆が鬼の目に当たり、鬼は目を押さえながら逃げたのです。
 こんな話から、玄関にヒイラギの葉とイワシの頭を棒の先にさしておくようになったのです。ヒイラギの葉は葉先がとがっているので鬼をさし、イワシは匂いがきついので鬼が近寄らないためなのです。それでも近づいてきたら、豆を投げて鬼を追い払うということから、2月3日の節分の時だけに、こんなことが行われています。
 これもいつごろからか分かりませんが、仏教と結びついて、「追難会(ついなえ)」、「節分会」と呼ばれるようになり、「鬼は外、福は内」と掛け声で叫ばれるようになったのです。
 ところで、「鬼」とは一体なにを意味するのでしょうか。角のはえた赤鬼、青鬼でしょうか。実は、鬼は私たち人間の心の中にある「鬼」なのです。それは、「三毒」ということです。
 三毒は、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)と呼ばれます。
 貪とは「むさぼり」、瞋とは「いかり」、痴とは「おろかさ」ということです。根本的な煩悩(ぼんのう)というものです。これらは、どことなく湧いてくる思いのようなものでしょう。しかし、私たちはこの思いに囚われてしまうのです。
 節分の時に叫ばれる「鬼は外」という言葉には、こういう鬼のようなよくない心を追放して、きれいでさわやかな心になり、幸福になろうという願いが込められていると思います。
 そうは言っても、現実にはそれらがなくなることはありえません。お釈迦さんは、欲を否定した苦行はダメと思われて、「中道(ちゅうどう」を説かれました。煩悩を否定されたわけではないのです。湧いてくるような思い(煩悩)に囚われずに、生きよと言われているのです。
 相田みつをさんの「煩悩即菩提」という詩があります。

 にんにくは
 そのままでは
 とてもたべられませんが
 料理の「かくしあじ」には
 なくてはならぬ
 ものです。
 煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)
 欠点即長所
 欠点が
 そのまま長所

 とても味わい深い詩ですね。にんにくも煩悩も「なくてはならぬもの」なのです。ただ、私たちはそれに囚われて、なんとかなくそうとします。それははかないことであり、できないことです。そんなことより、煩悩に囚われずに、さりげなく、まごころを込めて生きていけば、「欠点がそのまま長所」になるように、煩悩に囚われない生き方ができると相田さんは言われているように思います。
 こんなことを考えると、今年は「鬼は外、福は内」と叫ぶのはやめて、「鬼は内、福も内」と叫んでみたくなります。


■□1月の法話■□



●お正月のお話

 新年明けましておめでとうございます。
 皆様にとって、今年もよい年であることをお祈りいたします。
 今年も法蔵禅寺ホームページの訪問をお願いいたします。

 昔から年の元(はじめ)、月の元、日の元を「三元」と言います。大変おめでたい日であるとともに、その年、その月、その日をどのようにすごしたらよいかという計画を立てる大切な日だとされてきました。
 そこで、「一年の計は元旦にあり、一日の計は朝にあり」ということが言われてきているのです。つまり、何事も元(初め)が大切だということです。特に元日は新しい年の初めの日です。一年の計画と、新しい誓いを立てるのが、昔からの習わしになっているのです。
 お寺では(法蔵禅寺は仰々しい法要は行いませんが)、元日から三日間を「修正会(しゅうしょうえ)」と呼んで、「この一年の間、どうか世界が平和で、作物が豊かに実りますように」と祈り、「よりよい、より正しい生き方をします」という決意を新たにしてお誓いする法要が行われます。
 修正の「修」は修行の修と同じで、修めるとも読みます。磨き上げるという意味です。「正」は正す、正しいと読み、「止める」の字の上に「一」をつけて、「悪いことは止めて、一筋に生きるという意味があります。また「修正」は「しゅうせい」という読み方があり、これは間違いや誤りを改めて正しくするという意味もあります。
 だから、心を修正して、正しく生きようという訳で、一月のことを仏教の読み方で正月(しょうがつ)というのは、深い意味があるということなのです。
 私たちは、とかく初心を忘れてしまいがちです。だからこそ、常に反省をしていくことが大切と思います。それには心を洗って新たにするということではないでしょうか。
 「新た」という言葉は、「洗った」という言葉から生まれています。洗った結果、新たになるのです。ですから、「新(しん)」という字は、本当は「あらたしい」と読むのがですが、いつの頃からか、「あたらしい」という読み方になってしまったのです。
「生きていくのがつらい」「もう少し違う生き方があるのではないか」と。
 これは私たちがふと頭をかすめる思いではないでしょうか。私たちの思いの多くは、過去に対する愚痴と未来への不安で占めています。今を生きることを真剣に考えることはほとんどありません。
 しかし、どうすることも出来ない過去の記憶を引きずっても、あるいはどうなるかわからない未来を先取りしてもしかたがありません。それより、今をどう生きるかが大切ではないでしょうか。
 あるお経には次のような言葉があります。

 過ぎ去れるを追うことなかれ
 いまだ来たらざるを念うことなかれ
 過去、そはすでに捨てられたり
 未来、そはいまだ到らざるなり
 ただ今日まさに作すべきことを熱心になせ
 たれか明日のあることを知らんや

 要は、「今」を真剣に生きることではないでしょうか。今を真剣に生きれば、明日への心配はなくなるはずです。一日は一日でおしまい。日々に新にです。
 皆さんの今年の計画はなんでしょうか。元日だけではなく、日々は常に新たです。生き生きと「今」を精一杯に生きて頂きたいと思います。


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