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読んだ本の個人的な評点付けです。★は☆の半分で、は★の半分です。古典本には、おこがましい点付けは無しにしてあります。そのときの気分によって、かなり評点が違ってくるみたいなので、あまりあてにしないで下さい。途中で(あとで)思い返して、評点を変えてしまうこともありです。

☆☆☆☆☆ 個人的な最高点
☆☆☆☆ 探して読むべし
☆☆☆ あったら読むべし
☆☆★ 読んでもいい
☆☆ 読まなくてもいい
☆ 読まないほうがいい
★ 読んではいけない

2007年 6月
707. 『子どもの危機 教育のいま −「改正教育基本法」時代の教育体制』、佐野通夫、社会評論社、2007年 6月30日

 
706. 『君はこの国を好きか』、鷺沢萠、2007年 6月26日 (☆☆☆☆)
   鷺沢萠(さぎさわ・めぐむ)という作家を、この物語を読むまでは知りませんでした。ちょっとネットで調べてみたら、もう亡くなっているんですね。ヤンジさんもそうだったけど、在日の女性作家って、なぜすぐ死んじゃうんだろう。本ではなく、知り合いからいただいた雑誌のコピーで読みました。以前は新潮文庫から出ていたみたいですが、現在では絶版のようです。
   在日韓国人の女子学生が、母国留学で味わうことになるこころの葛藤と、最後に手に入れることになる自分との折り合いを描いた中篇です。文庫本にしたら百ページくらいの分量になるでしょうか。著者自身の経験を元にしていますが、これは同じ境遇を経た者にとっての共通体験です。わたしより14、5年後の時代だと思いますが、政治の話が出てこないこと以外は、そのまま共感できる内容で、昔を思い出しました(最近の状況はどうなっているんだろう)。留学生として母国で生活する在日にとって、その経験は交錯したものとなりがちで、時には雁字搦めになって日本に逃げ帰る者も多く出たものです。
   こころの葛藤と折り合いをつける、ということは、結局は自分を認める、自分を好きになるということなのですが、この「自分」とは、自分を取り囲む社会や世界との関係=相互作用における自分です。この折り合いというのは、日常のほんのちょっとした事柄で、それを深く感じたりするもののようです。わたしにも、そのような瞬間の記憶がいくつかあります。それは例えば、街中の安い食堂で食べていたテンジャンチゲの味が突然身体中に染み渡り、生まれて初めてホントにテンジャンチゲがうまいと感じた瞬間だったりします(わたしは、そのときまで数年掛かりました)。
 
705. 『聖書物語』、ノーマン・メイラー、ハルキ文庫、2007年 6月21日 (☆☆☆)
   ノーマン・メイラーによる、キリスト自身が語る新約聖書の物語。全能ではなく、この世をよいものにしようと努力することしか出来ない神の存在 −こういう解釈は、キリスト教徒から見たらすごく不埒なものなんでしょうね。しかし、新約聖書の原典でも、たしかイエス自身相当悩み苦しんだよなあ。十字架上では、父なる神を疑いもしたし。イエス自身がパーフェクトではなく、何とかしようと必死に頑張っていた存在だったわけです。神の子でありながらも、この不完全さと、それでも頑張る姿、それに究極の誠実さが、キリスト教がこれだけ人を惹きつける魅力なんでしょうね。
 

2007年 5月
704. 『脳と仮想』、茂木健一郎、新潮文庫、2007年 5月10日 (☆☆☆★)


2007年 4月
703. 『蟻 −ウェルベル・コレクションT』、ベルナール・ウェルベル、角川文庫、2007年 4月28日 (☆☆★)
   アリが主人公の冒険譚。人間も出てきます。SFになるのなか。全三部作のようですが、各々完結しているようです。最初の三分の一くらいまでは、続編は読まなくてもいいな、と思っていたのですが、最後まで読んだら第二部も読みたくなりました。よくも悪しくもフランス人の書いた小説ですな。鼻につく部分もあるし、にやりとさせられるとこもある。本書に出てくるアリの生態のかなりの部分が事実に即しているようですが、勿論ウソの部分もたくさん含まれてる。ただ、この本の原本であるフランス語版の初版が1991年であったにしては、生物学観や社会哲学が古くさすぎますね。養老孟司も巻末の解説でちょっと書いていますが、却って本物のアリの研究書を読みたくなりました。
 
702. 『メモリー ・下』、L・M・ビジョルド、創元SF文庫、2007年 4月22日 (☆☆★)
   ビジョルドによるヴォルコシガン・シリーズの最新作(同シリーズに関しては、こちらを参照)。いつもの通り、安心して読めます。ただひとつ大きな不満は、主人公のマイルズが、巻を追うごとにだんだんと(肉体的に)普通の人間に近づいて来てしまったこと。以前は走ったり跳んだりしただけであちこちの骨が折れるくらいの身体的障害を背負っていたのが、体中の骨を人工骨に取り替えて運動能力も常人並みになってしまったみたいだし、多分150センチくらいしかなかった身長までもが数センチ伸びたみたい。身体と精神の不調和から来る彼のひねくれたところが、魅力だったのに…。
 
701. 『メモリー ・上』、L・M・ビジョルド、創元SF文庫、2007年 4月20日

 
700. 『ゴッホは欺く ・下』、ジェフリー・アーチャー、新潮文庫、2007年 4月17日 (☆☆☆)
   いつものことながら安心して楽しめるジェフリー・アーチャーのサスペンス・ミステリー。ある程度いくと、結末のオチは分かってしまうのですが、それでもつい徹夜して読んでしまうくらいは面白い。印象派絵画の蒐集にトチ狂っている極悪非道なバンカーの敵役が可笑しいけど、人物はすべてステレオタイプです。
 
699. 『ゴッホは欺く ・上』、ジェフリー・アーチャー、新潮文庫、2007年 4月16日

 
698. 『他人の心を知るということ』、金沢創、角川新書 oneテーマ21、2007年 4月12日 (☆☆☆★)

 

2007年 3月
697. 『生物から見た世界』、ユクスキュル/クリサート、岩波文庫、2007年 3月29日 (☆☆☆★)

 
696. 『青い鳥』、メーテルリンク、新潮文庫、2007年 3月20日

 
695. 『鬼麿斬人剣』、隆慶一郎、新潮文庫、2007年 3月14日 (☆☆★)

 
694. 『哲学的な何か、あと科学とか』、飲茶、二見書房、2007年 3月12日 (☆☆★)
   哲学、思想、現代物理学、認知科学などにおける主要な問題点、ホットな諸テーマを、難解な専門用語を使わず、素人向けに易しく楽しく健やかに解説した、現代思想のポップな入門書。取り扱われているテーマは、公理系と不完全性定理、言語ゲーム、イデア、相対性理論と不確定性原理、エントロピー、二重スリットやシュレディンガーの猫、多世界解釈、クオリア、チューリングテスト、などなどなど。伝統的な哲学思想よりも、現代科学思想解説の比重が大きくなっています。著者は哲学の専門研究者とかではなくて、ただの普通の(?)サラリーマン、というか<もと>サラリーマンでしたが、本を好きなときに読めるようになりたくて会社を辞めてしまったのだとか。 著者が管理人となっている同名のウェブサイトに発表していたコラムに、加筆訂正してまとめた本です。このウェブサイトは現在も続けて更新されており、本書のもとのテキストも、ネットでそのまま見ることができますが、本で読むほうが全然理解し易いですな。ネットのテキストって、なんとなく下品に感じるのは私だけだろうか?
 
693. 『となり町戦争』、三崎亜記、集英社文庫、2007年 3月8日 (☆☆★)

 
692. 『41歳からの哲学』、池田晶子、新潮社、2007年 3月6日 (☆☆☆)

 

2007年 2月
691. 『安心して絶望できる人生』、向谷地生良/浦河べてるの家、2007年 2月27日 (☆☆☆★)

 
690. 『虚航船団』、筒井康隆、新潮文庫、2007年 2月25日 (☆☆)
   筒井康隆を読むのは久しぶりです。これは、我が家の「トイレ文庫」の一冊。トイレに入るごとに少しずつ読んでいた本なのですが、けっこう分厚いこともあって読み終えるのに2年くらい掛かったんじゃないかな。でもそういう読み方をしてもいい本ですね、これは。
   はるか昔に旅立ち、長い間宇宙を航行している大宇宙船団の一隻、船長の赤鉛筆をはじめ、下敷きや三角定規などの文房具を構成船員とする「文具船」にある日突然、28億の人口をもつ鼬(いたち)族の惑星クオールを攻撃せよという命令が下ります。残虐非道、侵略と戦争、殺戮と強姦に明け暮れる鼬族をひとり残らず殲滅するため、戦闘要員のカマキリが操縦する数万の小型攻撃艇を前に立て、クオールに着陸した文房具たちは果てしの無い掃討戦を繰り広げていき・・・というシュールなメタ小説。
   すでに戦いが始まる前の航行中から、自己の存在に確信が持てずひとり残らず気が狂ってしまった文房具たちに対する狂い様の描写が、ひとりひとり微にいり細にいり延々と繰り広げられ(全体570ページ近くの中でこれが約3分の1)、次の200ページは虐殺と裏切りと姦淫に明け暮れる(人間の歴史を戯画化した)鼬族の歴史が延々と書き連ねられて行きます。全編を通して段落分けや行替え、句読点も殆ど無く、文字数が圧倒的に多い本ですが、読みにくくはありません。しかし勿論、読んでいて楽しい本でもありません。だらだらだらと読み繋いでいく途中、時折きらりと光る部分もありますが、すぐ全体の中に埋もれていきます。
 
689. 『自閉症とアスペルガー症候群』、ウタ・フリス編著、東京書房、2007年 2月22日
   アスペルガー症候群の位置づけに関しては、自閉症とは別途のカテゴリーのものとして見たり、あるいは自閉症の一種であるとはしても高機能自閉症の一種としてみるか、それとは別の実体として捉えるか、などいろいろ異論があるようですが、本書はアスペルガー症候群を自閉症スペクトルの一形態として捉えている研究者たちによる論文集です。
   全7章で各々別々の研究者が執筆する構成となっていますが、それぞれの章がアスペルガー症候群の簡略な概要、カナーの古典的自閉症との比較、家族研究による遺伝性の考察、成人期の症例、アスペルガー症候群であるかの判断基準となるテストの実例や社会生活を営むための対処法、アスペルガー症候群の成人による自伝作品の分析を通したコミュニケーション障害の分析など、主要なテーマに関して論じているため、アスペルガー症候群に関して興味のあるひとがこれをより深く理解するための格好な概論書となっています。編著者であるウタ・フリスをはじめ、ローナ・ウィングやクリストファー・ギンズバーグ、ディグビー・タンタム、マーガレット・デューイなど各章の著者は、第一線の研究者だそうですが、特に『アスペルガー症候群』発見の端緒となったハンス・アスペルガー自身による原論文(1944年)の貴重な全訳が第二章として紹介されています。既に60年以上前、第二次世界大戦中に書かれたこの論文は、門外漢の私にとっても非常に興味深いものでした。専門の研究者による論文集ではありますが、アスペルガー症候群に関する基本的な初歩知識さえあれば、素人にとっても読み通すのが難しい本ではありません。各章ともに色々な具体症例が紹介されているのも、それを助けてくれます。各々の研究者により個々の部分で見解の相違があるのは当然のことですが、そのため読み進めながら若干の注意を傾ける必要があります。従って本書はひとつの立場からの通論や個々の見解を比較紹介した概論ではありませんが、却ってこの症候群の実態把握や研究が直面している処々の問題をヴィヴィッドに感じさせてくれます。
   第7章では、現代において最も社会的に成功したアスペルガー症候群のひとりとして知られているテンプル・グランディンの自伝を題材として、コミュニケーション障害の分析が試みられていますが、これは非常に興味深く読みました。この章で簡単に紹介されているスペルベルとウィルソンによるコミュニケーションの『関わりあい理論』(関係性理論)に関しては、近いうちに他の本でもっと調べてみようと思っています。

   映画『レインマン』の影響もあってか、日本ではアスペルガー症候群やサヴァン症に関する好意的な興味が一般的であったような気もしますが、最近ではなぜかアスペルガーと社会的犯罪との係わりがマスコミなどでクローズアップされることが多いようです。これは非常に歪められた報道の一例であり、注意しなければいけません。アスペルガー症候群と犯罪性は全く何の関係も無く、アスペルガーの人たちは一般的に通常人以上に非常に順法精神に富んでいる(というよりも何が何でも決められた規則を守る傾向がある)ということは、研究者の意見が一致するところです。
 
688. 『パリ〜ボルドー 1895 最初の本格的自動車レース』、高齋 正、インターメディア出版、2007年 2月18日
   歴史上初めての自動車速度競争レースである『パリ=ボルドー都市間レース』は、1895年に開催されました(史上初めてのガソリン自動車であるベンツ・パテント・カー<三輪車でした>が作られたのはこの10年前の1885年のことです)。
   モーター・スポーツ・イベントとしてはその前年に『パリ・ルーアン信頼性実証走行会』がありますが、これは速さを競うレースではありませんでした(それでもみんな、先頭を争って自車を跳ばすことになったのですが)。『パリ=ボルドー』はこの二つの都市の間を往復するレースで、走行距離はなんと1180キロ。第一回目のレースであるにも拘わらずこのような超長距離となったのは、当時自動車産業を興そうとしていた人々がこのレースを主催しながら、一般大衆に自動車の信頼性を積極的にアピールしようと考えたためです。しかも昼夜兼行で(ドライバーの交代は勿論オーケー)制限時間が100時間以内と定められていたので(つまり平均時速11キロ以上が想定されていました)、最後尾につく車は四昼夜兼行となります。本書はこのパリ=ボルドー・レースの顛末を小説の形式で著したドキュメンタリー読み物です。
   黎明期の自動車に関しては、書物を読んだり写真を見てもなかなかよく理解できない部分が多いのですが、この本でようやくいくつかの謎が解けました。なぜ初期のレースにおいてドライバーひとりだけではなく、メカニック(車の運転や修理を補助する人)の同乗が義務付けられていたのか(1920年代初め頃までのレース・カーは必ず二人乗りでした)、空気の入っているタイヤと入っていないタイヤ、「ティラー式ハンドル」と呼ばれた船の舵型のハンドル操作の危険性(円形のステアリング・ホイールが発明されたのは、この数年後)、街路灯もなく舗装もされていない夜道をろうそくの光をヘッドライト代わりに車を飛ばすとどういうことになるのか、などなどが実際にどういうことだったのか?−ようやくある程度想像できるようになった気がします。このころは本当にメカニックが必要だった、というかメカニックなしには危険でレースなぞ出来なかったんですね。まずドライバーはハンドルにしがみつくのに必死で車輪のすぐ前しか見ることができないので、前を見通すのはメカニックの役目。バックミラーがないので後ろをみるのもメカニックの役目。メカニックがいないと、怖くて前の車を追い越すこともできない(ドライバーひとりでは、他の車が後ろから来て自分の車を追い越しにかかっているのに気づくすべが無かった)。
   この『パリ=ボルドー・レース』において圧倒的な速さで一位となった『パナール・ルヴァソール』の車は、二座であったため優勝が認められなかったということは以前から知っていたのですが、なぜレギュレーションが四座であったことを知りながら敢えて二座の車で出走したのか、どうも納得が行かなかったのですが、それも本書を読んでよく理解できました。このレースのスターとなったのは、何といっても一位の『パナール・ルヴァソール』を48時間48分の間、二昼夜ぶっ続け不眠不休でたったひとり運転しきったこの車の開発者、エミール・ルヴァソール。平均速度は時速24キロに過ぎませんが、これが当時いかにキチガイじみて危険な企てだったのか、なぜこのようなハメにおちいったのか、本書を読むとよく分かります。しかもルヴァソールは当時、52歳の年齢に達していたのです(ルヴァソールは、翌年の『パリ=ルーアン=パリ都市間レース』にまたしても自ら出走しますが、このとき走行中にティラー・ハンドルに振り落とされたときの怪我がもとで亡くなります)。
   ルヴァソールやこのレースを主催したド・ディオン伯爵、ミシュラン兄弟にボレー父子など、フランス自動車産業黎明期の伝説的人物たちの人となりが活写されているのも、古い車好きには堪りません。ド・ディオン伯は当時蒸気自動車の推進者であり、自社の車の優勝を確信してこのレースの開催を企画しましたが(前年の『パリ=ルーアン』ではド・ディオンの車が1位になっている。蒸気自動車は、信頼性や速度の面でガソリン自動車より優れていると見る見解が当時は多かった)、蓋を開けてみたところ完走車9台のうち上位8台はすべてガソリン車。このレースは、自動車産業をリードするのは蒸気自動車かガソリン燃料車か、という天下分け目の対決の場でもあったわけですが、その結果はあっけなくガソリン車の一方的な勝利に終わり、時代の舵は大きく決定的に切られることになります。
 

2007年 1月
687. 『海辺のカフカ (下)』、村上春樹、新潮文庫、2007年 1月26日 (☆☆☆★)
   上巻はただ面白く、次の展開がどうなるのかに心惹かれて読み進めましたが、下巻でもこの本の引き付ける力は少しも衰えることなく最後まで続きます。しかし下巻の後半部は、少し展開の速度が速くなり過ぎではないだろうか。あるいは徹夜で読んでしまったせいで、ぼくがそう感じるだけなのかも知れない。
   人物造形の魅力、先の予測が付かないプロットの展開とともに、文章も平易で大変読み易いのですが、読み終わって我に返ると、非常に難しい本です。後半部、どんどん引かれて本の中に没入して行った末に、いつの間にか迷宮の奥深く迷い込み、途方に暮れる自分を見つけることになります。読了しても自分の中で決着が付きません。この本の意味をどう捉えるかは、人様々だと思うのですが、読後にその探求を、読んだ者に強いる力のある本だと思います。
   文庫本につきものの解説もないのは、村上春樹は、自分の本と読者の間に、他の誰も入って欲しくないんだろうな、とか思いました。以下は、本書を読んでのぼくの個人的な覚え書き。ネタばれではありませんが、まだ本書を読む前の方には、読むことをお勧めしません。

   大島さんは、カフカに最後に伝えます。
 「僕らはみんな、いろんな大事なものをうしないつづける ・・・ 大事な機会や可能性や、取りかえしのつかない感情。それが生きることのひとつの意味だ。でも僕らの頭の中には、たぶん頭の中だと思うんだけど、そういうものを記憶としてとどめておくための小さな部屋がある。きっとこの図書館の書架みたいな部屋だろう。そして僕らは自分の心の正確なありかを知るために、その部屋のための検索カードをつくりつづけなくてはならない。・・・ 言い換えるなら、君は永遠に君自身の図書館の中で生きていくことになる」

   とある書評に、『村上春樹は「書を捨て街に出よう」などとは言わない』という一文がありましたが、カフカは、「書を捨てず街に出る」ことを選んだのだと思います。佐伯さんや森深く住む人々は、「書を捨てて街から出る」ことを選択したのでしょう。
「書」とは、例えば失ってしまった大事なもの。
「図書館」とは失ってしまった自分のこころの一部を容れておく場所。
カフカは、失ったものに対する自分の思いと正面から向き合い、この世界に相対することにしたのです。
森深く住む人々は、失ったことに耐え切れず図書館の扉を閉め、この世界にも背を向けました。
しかしジョニー・ウォーカーさんは、自分が失ったもの、失ったことを認められず、それを取り戻そうとしたのでしょう。他の人から力ずくで奪い取ることによって。
カフカは森の中の村に来て、何が狙われているのかを知ることになります。だからこそ、彼の分身、想念である「カラスと呼ばれる少年」も、それを阻止しようと、佐伯さんを守ろうとして、自分にそれが不可能であることを充分承知しながらも、ジョニー・ウォーカーさんに戦い挑むしかなかったのでしょう。
ナカタさんは、幼い頃、「自分」と一緒に心の中の書架までも失ってしまいました。だからこそジョニー・ウォーカーさんは、ナカタさんを選んだのでしょう。からっぽの容れ物であるナカタさんは、ある意味では彼自身が書架なのです。その故にナカタさんは、カフカでもありうるし、ネコでもあり、石でもある。でもこの世界の全てをありのままに受け容れる姿は、とても美しく、ひとのこころを揺さぶります。

   ぼくには、この本が「癒し」や「救い」の本だとは思えません。カフカの静かな戦いは、これから始まるのだと思います。
 
686. 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、米原万里、角川文庫、2007年 1月24日 (☆☆☆☆)
   米原万里の本は初めて読みましたが、いやあ面白かった。笑えるし、シモネタも満載(?)だけれど、激動する歴史の渦に巻き込まれた少女たちの運命に、ドキドキしたり、暗澹となってきたり、ほっとしたりと、あちこち心を掻き動かされます。
   世界共産主義革命の理念が、同じ共産圏でも各国の利害の衝突によりかなりほころびを見せ始めた1960年代から、1968年のプラハの春、その後のソビエト・東欧諸国の社会主義崩壊とポスト冷戦時代、それに90年代のユーゴ紛争などが、本書の主人公である少女らとその家族全員の人生を直接巻き込む背景となります。
   1960年から1964年まで、著者9歳から14歳のときに、共産党幹部であった父親は、当時チェコスロバキアを本部として世界各国の共産主義政党の国際交流機関となっていた『平和と社会主義の諸問題』という雑誌の編集局に派遣されて勤務することになります。家族とともにそこに住むことになった幼い頃の著者は、当地の首都でソビエト政府が運営する『在プラハ・ソビエト学校』に通うのですが、この8年制の小中学校は、世界50カ国以上の国から子どもたちが集まってきた何とも国際色豊かな学校。本書はそこで知り合った三人の友人、― 勉強は大の苦手だけれどすごいおませで到底小学生とは思えない該博な性知識を誇るギリシアからの亡命者の娘リッツァ、ルーマニア政府高官の娘で「ブルジョア階級との戦い」を大真面目で説くくせに自分達家族は貴族もまっつぁおの豪奢な暮らしをしながら何の疑問も抱かないようにみえる天真爛漫でおまけに虚言症の(でもクラスのみんなに愛されている)アーニャ、クラス一の優等生ですばらしい美術の才能を持つクールなユーゴスラビアからの転校生ヤスミンカ、― を中心に彼女たちとの学校生活の思い出と30年後の再会を描いたものです。
   著者の人間描写は、短いながらも直裁で非常にシャープ、おまけにユーモアに溢れています。

   これ以上の感想を書く必要がないと思われるほど、巻末にある斎藤美奈子の解説が非常によく書けていますが、とにかく誰にでも自身を持ってお勧めできる本の一冊。
   著者は当代きってのロシア語通訳 兼エッセイストでしたが、残念ながら昨年(2006年)に早逝されました。
 
685. 『海辺のカフカ (上)』、村上春樹、新潮文庫、2007年 1月19日
   村上春樹を読んだのは初めてでありましたが、今まで手に取らなかったことを後悔。期待せずに読み始めたのですが、すぐに嬉しい驚きとともに惹き込まれました。

   不吉な予言に囚われている15歳の少年、カフカは、家出先の四国で小さな図書館の青年司書と知り合い、そこに居つく事になります。一方、ネコ語を解するけれど頭が足りない老人、ナカタさんは、知事さんから生活補助を受ける傍ら、行方不明のネコの探索を副業としておりましたが、その過程で思いもかけない事件に巻き込まれ、何かに導かれるようにかの地への旅に出ます。やがてこのふたりの運命の絡み合いを予想させるところまでが、上巻。
   魅力的な人物に、魅力的な場所。読み進めてしまうのが勿体無いこの感じは、久しぶり。
ちょっと抜き書きしておきましょう。

>>>
 「旅は道連れ、世は情け」と彼女は確認するように繰り返す。・・・「ねえ、それってどういう意味なのかしら。簡単に言ってしまえば」
  僕は考えてみる。考えるのに時間がかかる。でも彼女はじっと待っている。
 「偶然の巡りあいというのは、人の気持ちのためにけっこう大事なものだ、ということだと思うな。簡単に言えば」と僕は言う。
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今から百年後には、ここにいる人々はおそらくみんな(僕をも含めて)地上から消えて、塵か灰になってしまっているはずだ。そう考えると不思議な気持ちになる。そこにあるすべてのものごとがはかない幻みたいに見えてくる。風に吹かれて今にも飛び散ってしまいそうに見える。僕は自分の両手を広げてじっと見つめる。
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 「・・・シューベルトというのは、僕に言わせれば、ものごとのありかたに挑んで敗れるための音楽なんだ。それがロマンティシズムの本質であり、シューベルトの音楽はそういう意味においてロマンティシズムの精華なんだ」
  僕はシューベルトのソナタに耳を澄ませる。(ピアノソナタ ニ長調)
 「どう、退屈な音楽だろう?」と彼は言う。
 「たしかに」と僕は正直に言う。
 「シューベルトは訓練によって理解できる音楽なんだ。僕だって最初に聴いたときは退屈だった。君の歳ならそれは当然のことだ。でも今にきっとわかるようになる。この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものは大体において退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。たいていの人はそのふたつを区別することができない」
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 「すべては想像力の問題なのだ。僕らの責任は想像力の中から始まる。イェーツが書いている。In dreams begin the responsibilities ―まさにそのとおり。逆に言えば、想像力のないところに責任は生じないのかもしれない。このアイヒマンの例に見られるように」
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 「差別されるのがどういうことなのか、それがどれくらい深く人を傷つけるのか、それは差別された人間にしかわからない。痛みというのは個別的なもので、そのあとには個別的な傷口が残る。だから公平さや公正さを求めるという点では、僕だって誰にもひけをとらないと思う。ただね、僕がそれよりもさらにうんざりさせられるのは、想像力を欠いた人々だ。T・S・エリオットの言う<うつろな人間たち>だ。その想像力の欠如した部分を、うつろな部分を、無感覚な藁くずで埋めて塞いでいるくせに、自分ではそのことに気づかないで表を歩きまわっている人間だ。そしてその無感覚さを、空疎な言葉を並べて、他人に無理に押し付けようとする人間だ。・・・」
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  「・・・想像力を欠いた狭量さ、非寛容さ。ひとり歩きするテーゼ、空疎な用語、簒奪された理想、硬直したシステム。僕にとって本当に怖いのはそういうものだ。ぼくはそういうものを心から恐れ憎む。なにが正しいか正しくないか―もちろんそれもとても重要な問題だ。しかしそのような個別的な判断の過ちは、多くの場合、あとになって訂正できなくはない。過ちを進んで認める勇気さえあれば、だいたいの場合取りかえしはつく。しかし想像力を欠いた狭量さや非寛容さは寄生虫と同じなんだ。宿主を変え、かたちを変えてどこまでもつづく。そこには救いはない。僕としては、その手のものにはここには入ってきてもらいたくない」

   深い山奥の小屋、魅力的ですね。ぼくもこういうところで一ヶ月くらい、過ごしてみたい。
 
684. 『ホーキング、宇宙のすべてを語る』、スティーヴン・ホーキング/レナード・ムロディナウ、ランダムハウス講談社、2007年 1月11日 (☆☆☆)
   ホーキングが初めて一般向けに宇宙論の解説本を書き下ろしたのは、1988年。翌年日本で発売されたその翻訳書、『ホーキング、宇宙を語る』(早川書房)を手に取ったのが、ぼくがそもそもこの分野に心惹かれることになったなれ初めです。もちろん、数式がちょっとでも出てくるとすぐオタオタしてしまうようなまったくの文系なのですが、それでも現代物理学の考え方や知見は、ぼくの人生観や世界観に大きな変化をもたらしてくれました。というわけで、ぼくにとってホーキングは昔から「特別の人」です。
   本書は、内容的には前著の改訂版と言えるでしょう。約20年に渡る宇宙論の進展や成果を取り入れて書き直されたものですが、内容の記述は前著よりもかなり噛み砕いた平易なものとなっています。非常に良質な初心者向けの入門書と言えますが、ある程度この分野に親しんでいる人には、あまりにも易しく書き過ぎていて物足りないかもしれません。その反面、一般の入門書と異なり、宇宙や物質世界の認識論的問題や、ホーキング自身の自然観・科学観が随所に述べられているのが興味を惹き、且つ本書の魅力となっています(しかし、ここらへんももう少し突っ込んで書いて欲しかった)。
   原題が、以前の『ホーキング、宇宙を語る』の“A BRIEF HISTORY OF TIME”から、本書では“A BRIEFER HISTORY OF TIME”になりましたが、邦題よりもこの原題のほうがその内容を的確に表現しているようですね。ページ数は前回とほぼ同じですが、字組みが大きくなっているため、原稿にして2、3割は減っていると思います。しかし、カバーしている範囲は、前著と同じく近代物理学史から相対性理論と量子論−現代物理学二大理論の紹介、時間の問題にひも理論と完全統一理論まで、まさしく全ての時空間を含む膨大なものです。必然的にそれぞれの理論や事物の紹介が、前著に比べても(非常に要領よくはありますが)若干深みが欠けたものになっているのは避けられません。にも拘わらず、全体を通してホーキングの宇宙観が一本はっきりと通っているのはさすがです。また『ひも理論』の最先端である『ブレーン・ワールド宇宙論』に関しては、本書でもちょこっと触れられていますが、興味がある方は、この最新理論をもう少し詳しく一般向けに紹介した『ホーキング、未来を語る』(角川書店/アーティストハウス)をご覧になることをお勧めします。共著者のレナード・ムロディナウは、本書の中でも触れられている天才物理学者リチャード・ファインマン晩年の歳若き友人兼 人生の教え子であった人物。『ファインマンさん、最後の授業』の著者でもあります。
   ところで第一章が前書と同じく、バートランド・ラッセルの講演に「世界は巨大な亀の背中に支えられた平面なのだ」と抗議した老婦人の話から始まっているのには、にやりとさせられましたね。しかしながら本書は、現代宇宙論の概略的な紹介書という点では前書の改訂版であっても、中身は全てまったく新しく書き直されたものです。また、この本を初めて読んで気に入った方は、以前の本ではありますが、前書の『ホーキング、宇宙を語る』も是非読まれることをお勧めします。かならず新しい発見があるはずです。
 
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