人間の碑 〜90歳、いまも歩く〜

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 道行く人は、必ず振り返る。おしゃれなベレー帽にレースのドレス…小柄な身体で力強く杖をついて歩く。左目には、大きな眼帯。
 杉山千佐子さん、90歳。

 60年前、日本は太平洋戦争でアメリカからの空襲を受け、焦土と化していた。杉山さんは29歳の時、生き埋めとなり、命は取りとめたが、左目を失い、全身傷だらけになった。それ以来、ずっと戦後を生きてきた。

 杉山さんは、同じく空襲で傷ついた民間人を導き、国への補償を求め立ち上がった。そうしてできた全国戦災傷害者連絡会を拠り所に、絶望していた傷害者たちが全国から集まった。

 しかし、国は責任がないとの一点張り。仲間は次々と倒れていく…今も杉山さんは、仲間の想いを乗せて歩き続けている。

 「私たちに戦後はない!」「私たちに老後はない!」

 90歳のハイカラな杉山千佐子さんの人生と今。

 

「人間の碑」の描く人間…杉山千佐子さん

1945(昭和20)年、敗色濃い日本は、全国各地でアメリカの空襲を受けていました。3月25日、名古屋市にB29が襲いかかり、その時、生き埋めになった杉山千佐子さん(名古屋大学医学部助手)、当時29歳。

九死に一生を得るものの、全身打撲、左手に後遺症、左目摘出、残った右目は0.04。戦後、化粧品セールス、寮母の仕事をしながら、生計をたてるのでした。

50歳半ばを過ぎた頃(1970年代に入ってから)、私財を投げうって、全国戦災傷害者連絡会(略称、全傷連)を立ち上げ、活動を始めます。空襲で身体に著しい傷害(手足をなくす、ケロイドを負うなど)を負った民間犠牲者(全国に約50万人)への補償を求めてです(「戦時災害援護法」の制定を求めています)。結成された会は、国会請願、街頭署名など精力的に活動を展開、野党が共同で法案を提出します(いずれも審議未了)。

戦後いち早く軍人や軍属には、国家補償がなされ、1995年には、被爆者援護法が制定されます。しかし、空襲被害者には、何の補償もないのです。

2005年9月、杉山さんは90歳になった。結成時、300人も結集した全国大会も今は、30人ほどしか集まりません。亡くなったり、病床に伏したり、あきらめて退いたりそれぞれです。しかし、杉山さんは1人でも「旗」を掲げるのです。今も。

にんげん → 杉山千佐子

杉山さんについては、例年の8月15日の「終戦・特集」になると、新聞紙面に記事が出ます。記事は、全傷連の活動が中心です。映画「人間の碑」は、全傷連の活動はもとより、杉山さんの日常を取材します。

名古屋ドームの近くの市営住宅に杉山さんは1人で住んでいます。週2日はヘルパーさんがやってきます。別の週2日は、病院です。日曜はキリスト教の教会。残りの2日は活動です。さて、市営住宅の部屋は、書斎と「衣装部屋」(?)です。本を読む時は、レンズを使います。読書家であり、勉強家です。「衣装」は盛りだくさん。一つ一つの服には、想いが込められています。

例えば、大学の恩師と通った鰻屋(その店主夫婦との交流)、30年以上通い続ける洋服屋(その女主人の杉山さんへの想い)。名古屋の慰霊祭で、沖縄の平和集会で大好きな歌を歌います。 また、全傷連活動に見る杉山さんの姿は、力強いリーダーであり、闘士として登場します。しかし、全傷連も人間の集まり。杉山さんにも葛藤、焦り、嘆き、怒りが襲います。

さらに、杉山さんは、2001年に乳ガンを患い、左乳房の全摘手術を受けました。

「碑」は、戦災傷害者としての杉山さんのみならず、鰻や穴子や小肌が大好きで、おしゃれで、歌が大好きな杉山さん、乳ガンと闘った杉山さん、喜び、怒り、哀しみ、生きている今を楽しむ人間=杉山さんを描きます。

  90歳。卒寿の杉山さんに本音を迫ります。ありきたりのインタビュー、予測された答えではありません。全傷連のこと。会をつくって、30年以上、辛かったこと、悔しかったこと、仲間のこと…人生、ガン告知、今を生きること…本音を語ります。
 つい数年前のこと、病院の婦長さんが杉山さんに常々「お歳ですから無理をしないように」と言っていたという。ところがその婦長さんが、先頃「老人施設」に入った。
 杉山さんいわく、「老人施設」なんてものは、「老後」に入るもの!
 それが杉山さんなのです。そう、今も現役なのです。

 

秘蔵のアルバムと8ミリフィルム

杉山さんは、生まれて間もない頃(大正時代)から、ついこの間の講演風景までの自身の写真をアルバムに保存しています。また、全傷連が結成されてから、戦傷者の日々を記録した8mmがあります(1970年〜80年代にかけての貴重な映像です)。