映画

ドキュメンタリー映画は「事実と真実の記録」。
いつまでも色褪せずに後世に残り、年月を経るほどに、ますます歴史的価値が高まるもの。100年後、この映画を観た私たちの子孫が、目を輝かすことができる記念碑的作品を創り上げます!

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ドキュメンタリー映画「おみすてになるのですか〜傷痕の民〜」

2010年夏より全国の映画館で順次公開!
 7月10日〜 ユーロスペース(渋谷)〈モーニングショー〉
7月24日〜 シネマジャック&ベティ(横浜・黄金町)
※シネマジャック&ベティでの上映では、
挿入歌「ひとつのおもい」を歌う寿[kotobuki] のライブもあります。
また、姉妹編『人間の碑〜90歳いまも歩く〜』も併映されます。
(日程の詳細は映画館にお問い合わせ下さい)

7月24日〜 シネマテーク(名古屋)        

戦後65年。日本が焦土と化した太平洋戦争(日本は当時、大東亜戦争と呼称)から驚異的な復興をみせた日本。戦争は「過去の出来事」「歴史」となりつつある。旧軍人、軍属はもとより、原爆被害者にも戦争で被害を被った人びとには、国によって補償の手が差し伸べられた。「戦後補償はすべて終わった」と多くの政治家、役人、そして国民は思っている。しかし、空襲で負傷し、後遺症(手や足を失ったり、火災、焼夷弾の火傷によってケロイドを残すなど)を負った民間人「戦災傷害者」には救いの手は差し伸べられていない。約50万人といわれた戦災傷害者にとっては、戦後も生きるため、戦争だった。多くの戦傷者が訴えた。しかし、軍人や軍属の後まわしにされ、民間人の被爆者への援護が行なわれた後も、彼らの訴えは、届かなかった。「国との雇用関係にない」「内地は戦場ではない」それが理由だった。
時は過ぎ、多くの戦災傷害者は声を出すのを諦めたり、病床にふした。無念の思いで他界した人もいる。そうした人びとの思いを背負って、声をあげつづける人もいる。
「国は私たちが死ぬのを待っている」
「みんな死ねばいいと思っている」
「私たちは棄てられた民なのか」
今の想いが語られる。
戦傷者は“棄民”なのか?戦後60余年を生きてきた傷ついた民のいきどおり、怒り、あきらめ、悔しさの声を綴る。

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街を歩けば思い出す、あの時代を。街を歩けば、鉱夫たちに会える。
幼き頃からの友だちが声をかけてくる。
この街の歴史は私の人生。
いろんなことがあったけど、ここは故郷、美しい街。

前作の舞台、九分の山向こうに日本人の金鉱「金瓜石」があった。
強い風に煽られ、上からだけでな右や左、「下」からも雨が降るこの地域は、日本人、台湾人、大陸からの出稼ぎ、イギリス人捕虜などが交錯しながら様々なドラマを繰り広げ、時を刻んできた。街を通して、歴史の中で舞った人々の想いを綴る。

第1作 友の碑
第2作 我が子の碑
第3作 人間(ひと)の碑

1945年、春。沖縄県立第二高等女学校、56名は補助看護婦として、軍の命令を受けて入隊。その時、16歳。戦後、女学校の校章から「白梅学徒」と呼ばれるようになった彼女たちは、今まで行くことのできなかった現場に足を運び、胸の奥にしまっていた想い出たちを語り出す。忘れたい「現実」と忘れたくない「お友だち」のこと。

父と母と4人の子どもたち。ごく普通の家庭。
日本が戦争中だったということをのぞいては。

1945年8月9日、長崎県浜口町の自宅にいたのは、子どもたちだけだった。母はショックで心身を喪失。しかし、長女のゆかりの市松人形に再会し、夫婦は生きる力を取り戻していく。
夫婦は毎年一体ずつ、市松人形を集めていく。戦後50年で50体。人形1体1体に親の子を想う気持ちが詰まっている。

おしゃれなベレー帽にレースのドレス…小柄な身体で力強く杖をついて歩く。左目には、大きな眼帯。杉山千佐子さん、90歳。

杉山さんは29歳の時、アメリカからの空襲を受け、生き埋めとなった。左目を失い、全身傷だらけになった。杉山さんは、同じく空襲で傷ついた民間人を導き、国への補償を求め立ち上がった。しかし、国は責任がないとの一点張り。仲間は次々と倒れていく…今も杉山さんは、仲間の想いを乗せて歩き続けている。